「本を読めなくなった人たち」を読んで(1.6万文字)

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「本を読めなくなった人たち」を読んで
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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、稲田豊史『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。
1. AI要約の日常
最近、YouTubeの釣り動画や、多少興味のある長い記事に対して、AIで先に要約させることが増えた。以前なら、気になった動画はひとまず再生し、気になった記事はひとまず開いていた。いまは少し違う。最初に考えるのは、その動画や記事に自分の時間を渡してよいのかという点である。題名で重大発表のように見せているが中身は薄いのか、冒頭の煽りだけが強いのか、結論を最後まで引っ張るだけなのか、広告や宣伝へ誘導するための長い前置きなのかを警戒する。長い記事なら、題名にある話が本文で本当に扱われているのか、途中で宣伝や一般論に流れるのか、数行で済む結論を長く伸ばしているのかを気にする。
その習慣について記事にしようと思っていたところで、稲田豊史『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』という本に出合った。『映画を早送りで観る人たち』の続編にあたる本で、映画や動画の倍速視聴から見えたタイパ、コスパへの欲望が、読書やテキストメディアにどのように及んでいるのかを扱っている。版元は中央公論新社で、レーベルは中公新書ラクレである。
この本の存在を知ったとき、かなり直感的に腑に落ちた。映画を早送りで観る人たちの問題は、映像の消費に限られた話に見えやすい。実際には文章にも同じ力がかかっている。動画は速く見られ、記事は要約され、本は紹介文や抜粋や感想で先に判断される。読む側の人間は、流れ込んでくる情報の多さに押し返されている。
2. この本の骨子
この本が見ているのは、紙の本を一冊のまとまりとして読む時間と集中の変化である。現代人は、画面上で大量の文字に触れている。ニュース、SNS、検索結果、動画字幕、コメント欄、要約文などを日常的に読み続けている。焦点になるのは、文字に触れる量より、ひとつの本へまとまった時間を預ける読み方の変化である。
取材とリポートから浮かび上がるのは、紙の本を読み通す習慣、集中の持続、読む前に選ぶ負担、読む時間の確保、メディア環境の変化である。多読と賢さを切り分ける視点も重要である。たくさん読む人がそのまま深く考える人になるとは限らず、紙の本をあまり読まない人が文字や知的関心から遠いとも限らない。読書量の単純な多寡より、読む環境と読み方の変化が焦点になる。
分析でとくに面白いのは、「わかりみ」と「おもしろみ」の区別である。わかりみは、読者がすでに持っている感覚へ言葉が重なる快感である。自分の気持ちを代弁してくれた、ああそれそれ、という反応が生まれる。おもしろみは、すぐに分かる快感よりも、引っかかりを作る。予想していなかった角度、すぐには頷けない言葉、妙な違和感が、読者に考えるきっかけを与える。わかりみは安心を生み、おもしろみは思考を始めさせる。
この本では、長い文章への苦手意識、動画やオーディブルや切り抜きによる受動性の上昇、純文学でオープンエンディングが受け入れられにくくなっている傾向、エロ、マンガ、クイズのように入口が分かりやすく反応しやすいものが売れやすい傾向、無料WEBメディアが本を買う動機を弱めている問題、WEB上の情報が保存されずに消えていく問題、そしてコスパ、タイパが読書にも及んでいる問題が扱われている。読者は、お金と時間を払って外れを引くことを避けたい。その感覚が、要約、切り抜き、倍速、無料記事、レビュー、ランキングを強くしている。紙の本の読書が置かれている現在地が、取材と分析を通して整理されている。
3. 紙からスマホへ
ここからは、筆者自身の見解である。筆者がこの本を読んで強く考えたのは、七〇年代の紙の書籍しかなかった時代と現在との差である。七〇年代には、読むことの中心に紙があった。新聞、雑誌、単行本、文庫、新書、漫画、辞書、百科事典、図鑑など、知ることも、調べることも、楽しむことも、多くは紙の上で行われていた。映像や音声のメディアも当然あったが、文字情報を受け取る場所として、紙は圧倒的に強かった。
現在は、その中心がスマホへ移った。人は紙面を開く前に画面を開く。検索し、画面を流し、保存し、共有し、要約を読む。短い文字、細かい文字、反応を誘う文字、検索に最適化された文字が、朝から晩まで画面の上に流れている。紙の本の読書が弱った背景には、文字の減少より、文字がスマホの中へ移ったことがある。
紙の本は、ひとまとまりの時間を要求する。スマホは、細切れの時間へ入ってくる。紙の本は、読み手にページの順序を求める。スマホは、検索、通知、リンク、広告、動画、SNSの反応によって、読み手を次々に移動させる。紙の本は、ひとつの文脈に読者を留めようとする。スマホは、複数の文脈を横断させる。
読者の注意を動かす環境そのものが変わった。紙の上で読む身体と、スマホで読む身体は違う。前者は、一定時間を本に預ける。後者は、つねに次の情報へ移れる。読書の問題は、知性の問題であると同時に、身体と媒体の問題でもある。
4. 店舗からWEBへ
紙からスマホへの変化と並んで大きいのは、店舗がリアルからWEBへ移ったことである。七〇年代に本を買うには、本屋へ行く必要があった。棚を見て、平積みを見て、店員の選書や出版社の営業努力や町の書店の癖に触れながら本を選ぶ。そこには、探していた本だけでなく、探していなかった本に出合う偶然があった。
現在は、検索すれば本に届く。通販で買える。電子書籍なら、店に行く時間も配送を待つ時間も要らない。これは圧倒的に便利である。ほしい本が明確にある読者にとって、WEBは強い。リアル書店で在庫を探し、見つからず、取り寄せに時間がかかる経験を何度もすれば、読者がWEBへ向かうのは自然である。
書店には文化的価値がある。棚の偶然性も、町の本屋の空気も、本との出合いも、たしかに重要である。だが、ほしい本が置いていない本屋に、読者が何度も通う動機は弱い。文化空間としての価値は、店としての基本機能と結びついている。読みたい本、探している本、少し深い本、すぐには売れない本にアクセスできる場所であってこそ、本屋の価値は立ち上がる。
書店の衰退は、読書離れの象徴として語られやすい。リアル店舗全体が弱っている時代に、書店だけを読者の精神性の問題として語ると、商業と流通の現実が抜け落ちる。読者は便利なほうへ行く。これは当然である。書店の未来を考えるなら、読者の読書離れだけでなく、棚の力、在庫の力、検索性、取り寄せ、イベント、地域性、古書や新刊の組み合わせまで含めて考える必要がある。
5. 書籍の六層
書籍の売上を語る前に、まずどの書籍のどの売上を語っているのかを弁別する必要がある。本と一口に言っても、同じ売上指標で価値を測りやすいものと、売上という尺度がなじみにくいものがある。
第一層には、聖書、クルアーン、論語、仏教経典、哲学古典のような、不変のスタンダードがある。これは、文明、宗教、倫理、思考、物語構造の基礎文法を作る層である。第二層には、歴史書、記録、あるいはそれに準じた論考がある。これは、時代や出来事を記録し、後世が参照するための層である。価値の中心は、売上よりも、記録としての信頼性、資料性、参照可能性、後世への継承にある。第三層には、技術書や教育書がある。これは、時代ごとの実用性、学習需要、制度、技術環境との適合によって価値が変動する層である。第一層と第二層を学び、そのうえで技術や教育の実践へ落とし込む役割を持つ本も、この層に含まれる。
第四層には、フィクションやドキュメンタリーのうち、筆者名義、作家性、作品世界に依存するものがある。この層には、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介、シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ、セルバンテスのように歴史的スタンダード化した作家も含まれる。ただし、全体としては作品数が膨大であり、時間の選別に耐えるものはごく一部に限られる。フィクションは数の多さゆえに、希少価値が相対的に低くなりやすい。
第五層には、経済情報、株式市場、金融情報のように、鮮度と実用性が価値を大きく左右する本がある。第六層には、時事風俗、バラエティ、流行解説、エロ、マンガ、クイズ、炎上便乗型の話題消費本がある。これは、その時代の話題性、刺激、分かりやすさ、反射的な快感、メディア露出に強く左右されるコモディティの層である。
この分類の要点は、フィクションや現代的な創作物にも、それぞれの層に応じた価値があるということである。第四層以下の作品にも、理解を整理し、他者と共有し、時代ごとの感覚を確認する場としての有意義さがある。第一層から第三層までを学んでいる者にとっては、フィクション、ドキュメンタリー、評論、エッセイ、交流チャット、学習ノートのようなものも、思考の補助線になり得る。
ただ、その有意性は、第一層から第三層までの価値と種類が違う。学習ノートには学習ノートの価値があり、交流チャットには交流チャットの価値がある。演奏には演奏の価値があり、再演には再演の価値がある。それは、文明の基礎文法を作る価値、歴史的記録として後世に参照される価値、技術や教育の体系として実用に耐える価値とは別の種類の価値である。
6. 売上と価値
第一層から第三層までの本には、一定の需要が残り続ける。聖書、クルアーン、論語、仏教経典、哲学古典のような第一層、歴史書や記録や準記録としての第二層、技術書や教育書としての第三層は、教育制度、研究、信仰、職業訓練、知的探求によって支えられる。そこには、人類が知りたい、学びたい、理解したいというニーズと、それに応える知識、記録、体系、技術というシーズの両方が成立している。
たとえば、スティーヴン・ホーキングの一般向け宇宙論の著作は、第三層がたまたま大きくヒットした事例として考えられる。これは、物理学、宇宙論、数学的思考という高度な知的体系を、一般読者へ向けて教育的に翻訳した本である。この種類の本は、学習の入口を作り、専門知へ橋を架け、読者の理解を更新する。その意味では非常に有意義である。ただし、科学や技術の体系は更新される。説明の仕方も、時代の関心も、教育上の必要も変わる。だから第三層のベストセラーは、その時代における知識の翻訳装置として評価したほうがよい。
第四層のフィクションやドキュメンタリーのうち、ごく一部は、時間の選別を経て第三層までの仲間入りをする候補になる。夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介、シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ、セルバンテスのような歴史的作家は、単なる作家名義の商品を超えて、教育、研究、言語圏の記憶、文学史の参照対象になる。その意味では、第四層から第三層に近い場所へ移動した例と考えられる。
第四層の大半は、歴史から忘れ去られる。作品数が多すぎるためである。さらに、第四層のニーズとシーズは、時代のトレンド、メディア環境、政治的空気、読者の感情、流行するテーマの影響を受けやすい。そのため、発売当時には大きく評価され、売上や受賞歴を得た作品であっても、長期的には読まれなくなる可能性が高い。さらに厳しく言えば、第四層の中には、歴史に名前だけは残るが、実際にはほとんど読まれない作品も多くなるだろう。文学史、映画史、批評史の中で言及はされる。だが、一般読者が読み続ける本にはならない。教科書や研究書の中に名前は残るが、生きた読書対象としては薄れていく。
商業ベースの売上を価値の基準にする考え方も、かなり変化していると思う。売れた本が価値ある本として扱われることは昔からあった。ベストセラーは注目され、書店に積まれ、メディアで語られ、さらに売れる。売上は、読者に届いたという意味では重要な指標である。ただ、売上は価値を測る一つの指標にとどまる。ゴッホの後世評価は、生前の商業的成功と大きく切り離されている。ニーチェの思想史的な位置も、生前の売上によって決まったものではない。彼らの価値は、当時の市場の反応と後世の評価の間に大きな距離があることを示している。商業的に売れることと、長期的に残ることは、別の時間軸に属している。
第五層の経済情報、株式市場、金融情報は、経年劣化が非常に速い。発売当時には有効に見えた情報も、金利、為替、景気、政策、地政学、企業業績、相場心理が変われば、すぐに前提を失う。個別銘柄の推奨、投資タイミング、相場予測、景気見通しは、時代が変われば再現性をほとんど持たない。この層で長く残りうるのは、個別情報そのものより、ものの見方、リスク管理、会計の読み方、長期投資の考え方、市場心理の捉え方、価格形成の仕組みといったフレームワークである。
第六層は、売れやすく、拡散されやすく、消費されやすい。エロ、マンガ、クイズのように入口が分かりやすく反応を取りやすい領域を、読書文化全体のマーケティング指針にすると、本の価値は短期的な反応と刺激へ回収されてしまう。第六層の売上は、その時代の欲望を映している。読者の入口として機能することはある。時代の空気を記録することもある。娯楽としての存在価値もある。それでも、売れやすさと価値の高さは分けて考えたい。
7. 再演される作品と著作権
これは本だけの問題ではない。比較対象として、音楽を考えると分かりやすい。音楽を何百年から千年単位で振り返ると、長く残るものは、クラシックやジャズのように再演、カバー、リメークの文化へ行きつく。新作のクリエイティビティは、その時代には大きな価値を持つ。しかし、作品数が増え続ける長い時間軸の中では、新作であること自体が限りなくコモディティ化されていく。その中で残るのは、オリジナルの位置、歴史上の偶然、最初にその型を与えたこと、後世の演奏や翻案に耐える構造である。
コモディティ化した作品群にも存在価値はある。クラシックやジャズでいえば、それは作曲そのものより、演奏技術を提供していることに近い。作曲という創造性は、スタンダードのオリジナルに依拠している。だが、地方のクラブやクラシックホールで演奏される空間を形成するのは、解釈、演奏技術、場の空気、演者の身体性、聴き手との関係である。そこでは、オリジナルの楽曲だけでなく、それをどう鳴らすか、どう受け渡すか、どう場として成立させるかが流通している。
この視点を書籍や映画に当てはめると、映画の賞や文学賞も、最終的にはこの観点に近づいていくのではないだろうか。完全な意味での新しい作曲を評価しているというより、既存のスタンダード、神話、聖典、古典、ジャンル、型、語り口を、どのように解釈し、どのような演奏技術で現在の場に差し出したのかを評価している。賞の対象は、純粋な独創性というより、再演の精度、時代への置き換え、解釈の鮮度、演奏としての完成度へ移っていく。
この再演文化を考えるとき、避けて通れないのが著作権の問題である。著作権の有効期限をいったん度外視した譬えで考えると、この問題はかなり露骨になる。『ボーは恐れている』をヨブ記的な苦難の物語として読むなら、ヨブ記の作者に著作権料を払う必要があるのか。『羊探偵団』を善き羊飼いのイメージの変奏として読むなら、そのオリジンである聖書に著作権料を支払う必要があるのか。遠藤周作は支払ったのか。トルストイは支払ったのか。ドストエフスキーは支払ったのか。もちろん、これは法律上の話ではなく、創作における起源と再演の関係を考えるための譬えである。
この問いをさらに進めると、現代の作品群そのものが、すでに何が何のリメークなのか判別しにくいほどコモディティ化していることが見えてくる。神話、聖典、古典、民話、宗教的モチーフ、過去の文学、映画、漫画、音楽、広告、ゲーム、SNSの語り口が混ざり合い、誰もが何かの再演をしている。そうなると、ある作品が売上を上げた、文学賞を取った、話題になったという出来事も、長期的な価値とは別の次元に置かれる。オリジンと同じ種類の価値を持つ作品として見るより、その時代の演奏技術を示す作品として見たほうが、評価の焦点は明確になる。
著作権は、著作という媒体を作る難易度や手間、制作にかかった費用、生活を支えるための対価と結びついてきた。紙の本の時代には、執筆、編集、組版、印刷、製本、流通、書店販売という工程があり、作品を届けるための物理的な負担も大きかった。著者がその労働の対価を受け取ることには、明確な意味があった。
電子データの時代には、コピー、複製、引用、翻案、再編集の手間が劇的に下がっている。作品を作る労力は残っているが、流通と複製の費用構造は大きく変わった。そうなると、著作にかかった費用を回収する仕組みとしての著作権と、親族を含めて数十年にわたりバックマージンを保証するような権利形態との間には、改めて考えるべき距離が生まれる。
創作者の生活、編集者や出版社の労働、作品を届ける仕組みは守られる必要がある。一方で、長期的に見れば、多くの作品は再演され、引用され、翻案され、共同体の記憶の中で別の形へ移っていく。作品が長く残るとは、作者個人の所有物として固定されることだけではなく、多くの人に使われ、読み替えられ、再び語られることでもある。
8. マンガと映像の再演文化
この再演現象は、すでにマンガや映像作品ではかなり定着している。たとえば『ドラゴンボール』は、原作終了後もアニメ、映画、ゲーム、新シリーズ、再編集、再解釈を通じて、セルフリメークを何周も重ねているように見える。『NARUTO -ナルト- 疾風伝』は、物語内で親子二代にまたがる継承を描き、さらに歌舞伎化によって別の舞台形式へ再演されている。『呪術廻戦』は、スピンオフや前日譚を通じて、本家から分家が生まれるような広がりを見せている。『ジョジョの奇妙な冒険』に至っては、各部ごとに主人公、時代、舞台、能力体系を変えながら、最初からセルフリメーク的な構造を内蔵して継続してきた作品と見ることもできる。
映画や配信作品でも同じことが起きている。マーベル・ユニバースやDCユニバースは、個別のヒーロー作品を単発で終わらせず、再演、接続、分岐、リブート、スピンオフを前提とする巨大な物語圏を作っている。ディズニー作品の実写化、続編、外伝、配信展開も、過去のスタンダードを現在の観客へ向けて鳴らし直す営みである。Netflixでも『阿修羅のごとく』のように、過去の名作を現代の映像作品として再演する動きがある。問われているのは、完全な意味での新作性より、既存の作品や物語の型を、どの媒体で、どの俳優で、どの時代感覚で、どの速度で再び立ち上げるかという演奏技術である。
たとえば、吉川英治や横山光輝を今から読もうとする読者は、どのような人だろうか。歴史小説や歴史マンガそのものが好きな人、三国志や宮本武蔵の大衆的受容を確認したい人、日本の大衆文学史やマンガ史を学びたい人、創作者として歴史物語の組み立て方を学びたい人、あるいは現代の歴史コンテンツの源流をたどりたい人だろう。
吉川英治や横山光輝は、すでにスタンダード化した再演の先輩になっている。彼らは、聖典や歴史そのもののオリジンではない。吉川英治の『三国志』も横山光輝の『三国志』も、さらに古い史書や物語伝統を大衆向けに再演した作品である。しかし、その再演があまりに強く流通したため、後続の歴史小説、歴史マンガ、ゲーム、アニメ、ドラマにとっては、それ自体が参照される型になった。
現代の若い読者は、吉川英治を読むより先に、井上雄彦『バガボンド』を読むかもしれない。これは、吉川英治の『宮本武蔵』が、すでに再演の先輩として機能していることを示している。吉川英治が大衆向けに組み立てた宮本武蔵像は、後続の作品にとって参照される型になった。その型を、マンガという媒体、現代的な身体感覚、絵の力、沈黙、間、心理描写によって鳴らし直したものが、井上雄彦『バガボンド』である。
同じことは、北方謙三『水滸伝』にも言える。原典としての『水滸伝』があり、日本語圏における大衆的再演として北方謙三版があり、さらに映像化されることで、新しい読者や視聴者に届いていく。現代の若い世代の中には、北方謙三の小説からではなく、映像化された『水滸伝』を通じて、その物語世界に入る人もいるだろう。これは、原典、近現代の小説化、映像化、配信という複数の再演が積み重なり、物語が別の入口を獲得しているということである。
この点で、第四層の一部は、時間を経て再演される側へ移動する。最初は古典や歴史の再演だったものが、やがて後続作品にとってのスタンダードになる。吉川英治や横山光輝は、その代表例である。彼らの作品は、現役の娯楽作品として読まれるだけでなく、ジャンルの演奏技術、人物造形、長編構成、大衆向け歴史叙事の語り口を学ぶための原型として読まれる。第四層の作品は、完全に消えるもの、名前だけ残るもの、そして再演の先輩として後続作品の型になるものに分かれる。
9. 映像技術の飽和と作品の劣化
現在の作品が劣って見える理由を、鑑賞者側の感動容量だけに求めるのは甘いと思う。むしろ、再演の質そのものが低下しているために、現在の作品が実際に劣っている場合のほうが多いのではないだろうか。
映像作品には、技術進歩による右肩上がりの時代があった。白黒からカラーへ移り、画質が上がり、音響が立体化し、撮影機材が進歩し、CGは現実に限りなく近づいた。観客は、それだけで驚くことができた。見たことのない映像、ありえなかった怪物、宇宙船、戦場、都市崩壊、異世界、超人的な身体表現が、次々と現実のように立ち上がった。その時代には、物語の再演の質が多少弱くても、映像技術そのものが強い感動を補っていた。
だが、その技術的インパクトは、すでにかなりピークに近づいている。解像度は上がり続けても、人間の目が日常的な鑑賞環境で差異を実感できる幅には限界がある。4K、5K、8Kと数字が上がっても、物語体験としての驚きが比例して増えるわけではない。CGが現実に近づけば近づくほど、最初の衝撃は薄れ、やがて「きれいで当たり前」「リアルで当たり前」になる。技術が驚きとして機能しなくなったあとには、再演そのものの質だけが残る。
そこで露呈するのが、現代作品の弱さである。第一層から第三層までのスタンダード、あるいは第四層の歴史的名作を再演しているにもかかわらず、その象徴性、神秘性、倫理的緊張、人物造形、語りの深さを受け継げていない作品が多い。映像だけは豪華で、構成だけは分かりやすく、伏線回収だけは器用で、キャラクター商品としては整っている。しかし、再演されているはずの古典的な力が薄い。これでは、高品質な再演ではなく、表面だけを磨いた低品質なリメークに近い。
技術進歩の時代には、映像の新しさが作品の弱さを隠してくれた。だが、技術的な驚きが飽和したあとには、作品は物語、象徴、演出、人物、倫理、構造で勝負するしかない。そこが弱ければ、作品は劣化する。新作だから新しい、映像が美しいから進歩している、CGが自然だから優れている、という評価はもう通用しにくい。むしろ、技術の天井に近づいた時代ほど、古典的な再演技術の差が露骨に出る。
この意味で、現在の作品が劣っていると感じることは、単なる懐古ではない場合がある。鑑賞者の感動容量が満タンになっているだけではなく、作品側がスタンダードを十分に再演できていない。過去の名作が持っていた象徴性や神秘性を受け継がず、ただ現代的なテンポ、分かりやすい感情誘導、高解像度の映像、SNSで語りやすい設定だけで置き換えている。そこに劣化がある。
筆者がムード作りの長回しを早送りしてしまうのも、この感覚とつながっている。長い沈黙、暗い廊下、不穏な音、表情の溜めは、かつては映画的緊張を作る技術だった。だが、それが型だけの再演になり、深い象徴性や人物の内面と結びつかず、ただ観客をドキドキさせるための装置になったとき、そこに付き合う価値は急速に下がる。主要な展開、クライマックス、結末の骨格を知れば十分だと思うのは、作品体験を拒否しているからではない。低品質な再演に、自分の時間と感情を渡したくないからである。
これからの映像作品や文学作品では、技術的な進歩より、再演の質が問われる。どれだけ高解像度か、どれだけリアルなCGか、どれだけ分かりやすく感情を揺らすかではなく、古典的な型をどれほど深く理解し、どれほど現代の場で鳴らし直せるかである。映像技術の右肩上がりが終わったあと、作品は再演技術の水準によって選別される。そこで低品質な作品は、ただ劣化していくしかない。
10. 現代文学とスタンダードの検証
おそらく、現代作家がいくら名作や受賞歴を重ねたとしても、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介を超えることはかなり難しい。同じように、それらの近代文学の巨人たちも、聖書、クルアーン、論語、仏教経典、哲学古典を超えることはできないだろう。これは才能の大小という話より、作品が置かれている時間の層が違うという話である。近代文学は近代文学として巨大だが、聖典や哲学古典は、文明そのものの基本文法に近い場所にある。物語、倫理、罪、救済、共同体、権力、死、愛、裏切り、赦し、知恵、修行、解脱、理性といった主題の土壌を作ってきた本である。
シェイクスピアは、英語圏における夏目漱石的な古典と考えると分かりやすい。もちろん影響範囲はシェイクスピアのほうがはるかに広く、英語圏を超えて世界文学のスタンダードになっている。だが、位置づけとしては、近代以後の文学や演劇が何度も立ち戻り、引用し、翻案し、再演し、自分たちの時代へ移し替える基準点である。日本文学における漱石や鴎外や芥川や太宰が、国内の文学的記憶の中で担っている役割に近い。
この観点から見ると、ポストモダン以後の名作は、エポックメイキングな作品として残るものはあっても、やがて再演やリメークの舞台そのものを提供するムーブメントへ移っていくのではないだろうか。最近の例でいえば、パーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』は象徴的である。この作品は、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』を、逃亡奴隷ジム、つまりジェイムズの視点から語り直す。白人少年ハックの冒険譚として読まれてきた古典を、黒人奴隷の知性、恐怖、戦略、尊厳の側から反転させる。これは新作でありながら、同時に古典の再演であり、分家であり、視点の奪還でもある。
『ジェイムズ』が高く評価されたことは、現代文学の評価軸が、完全な意味での新規作曲から、古典の再演技術へ移りつつあることを示しているように見える。『ハックルベリー・フィン』という古典的な舞台装置があり、そこに別の視点を入れ、別の倫理を立ち上げ、別の声を与える。これはマンガにおけるスピンオフや外伝、映画におけるユニバース展開、音楽におけるカバーやジャズ演奏にかなり近い。古典が主旋律を与え、現代作家がその主旋律をどの角度から鳴らし直すかを競う。
現代作品にも、現代作品としての価値がある。再演には再演の技術がある。『ジェイムズ』のような作品は、古典の権威にただ乗りしているだけでは成立しない。原典の構造を理解し、原典の死角を見抜き、現代の読者が避けて通れない倫理的問題へ接続し、語りの声そのものを作り直す必要がある。その意味では、再演は高度な演奏技術である。クラシックやジャズの演奏家が、すでに存在する曲を通じて自分の解釈と技術を示すように、現代文学は、古典という舞台の上で解釈と語りの技術を競う領域へ近づいている。
作曲と演奏は分けて考えたほうがよい。聖書、クルアーン、論語、仏教経典、哲学古典は、文明の主題そのものを作った。夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介は、日本近代文学の主旋律を作った。現代の受賞作や話題作の多くは、その主旋律を別の時代感覚、別の社会問題、別の視点、別の文体で鳴らし直している。そこに価値はあるが、古典そのものと同じ種類の価値として扱うと、賞や売上の意味を過大評価することになる。
だからこそ、売上や受賞歴を見るときには、その作品が何を成し遂げたのかを弁別する必要がある。新しいスタンダードを作ったのか。既存のスタンダードを優れた技術で再演したのか。既存の型を一時代の流行に合わせて消費したのか。この三つを混同すると、書籍の価値は見えにくくなる。現代の文学や映画やマンガの多くは、すでに巨大な古典的土壌の上で行われる演奏である。その演奏の巧拙を評価することはできる。だが、演奏の巧さと、曲そのものを作ったことの重さは、分けて考えたい。現代作品を軽んじる必要はない。聖書、クルアーン、論語、仏教経典、哲学古典、近代文学の歴史的名作と比べたときに、どちらがより長期的なスタンダードになり得るのかを検証すればよい。売上や受賞歴は、その検証の入口にはなるが、最終判定にはならない。
11. AIの読者受けと第六層
この観点から見ると、驚くべきことに、AIが文章へよく与える助言の多くは、第六層的な読者受けの尺度に寄っている。「文章が長すぎます」「読者が理解できません」「表現が強すぎます」「もっと分かりやすくしましょう」「結論を先に出しましょう」「余白を減らしましょう」といった助言は、一見すると親切で実用的に見える。だが、それらはしばしば、読者の理解力を低く見積もり、文章の抵抗感や違和感や思考の遅さを削り、反射的に消費しやすい形へ文章を変える方向に働く。
これは、ある意味でクリエイティビティと真逆の尺度である。創作や批評には、読者を立ち止まらせる長さ、すぐには理解できない構造、強い表現、余白、沈黙、違和感、解釈の負荷が必要になることがある。もちろん、無駄に長い文章、伝わらないだけの文章、乱暴な表現を擁護する必要はない。だが、読者が一瞬で分かること、反発しないこと、離脱しないことだけを優先すれば、文章は第六層の商品に近づいていく。
「オープンエンディングを避けたほうがいい」という助言も、この方向性に属している。結末を明快にし、読者の不安を解消し、解釈の余白を減らすことは、短期的な満足度を上げるかもしれない。しかし、それは読者の中に問いを残す力、時間をかけて意味が開く力、作品の後味として残る違和感を弱める場合がある。オープンエンディングの価値は、結末をぼかすこと自体にあるのではなく、読者が作品のあとも考え続けるように問いを残すことにある。説明不足の放置と、余白のある終わり方は違う。読者受けを最優先する尺度は、作品をスタンダードへ近づけるのではなく、当座の反応へ最適化する。
AIがそのような助言をしやすいのは、AIが多くの場合、平均的な読みやすさ、摩擦の少なさ、炎上回避、短期的な納得感を優先するからである。つまり、AIの読者受け助言は、第一層の不変のスタンダード、第二層の記録、第三層の教育体系、第四層の作家性を育てる助言というより、第六層の反応商品へ文章を寄せる助言になりやすい。読みやすさは大事である。だが、読みやすさだけを絶対化すると、文章は思想や文学ではなく、消費される情報になる。
だから、AIの文章助言を使うときには、その助言がどの層の価値基準に基づいているのかを見極める必要がある。第六層の読者受けを狙う文章なら、短く、分かりやすく、刺激的で、結論が明快なほうがよい。しかし、第一層から第四層に接続する文章では、分かりにくさや長さや強さが、単なる欠点ではなく、思考を成立させる条件になることがある。読者に合わせることと、読者を育てることは違う。AIが前者ばかりを勧めるなら、人間の書き手は後者を意識して守る必要がある。
12. わかりみと市場
この本の「わかりみ」と「おもしろみ」という整理は、筆者の売上論にも接続できる。市場は、読者がすでに持っている感覚をすばやく言葉にする作品を拾いやすい。自分の中にあったものを言い当てられた快感は、SNSで共有されやすく、感想を書きやすく、推薦にも購買にもつながりやすい。
一方で、おもしろみの反応は少し遅い。読者の中にまだなかった問いを作るため、最初は分かりにくく、すぐに売上へつながらない場合もある。違和感として残り、何年も経ってから意味が開くこともある。後世評価される作品には、この遅さが含まれていることが多い。
市場は、わかりみを捕まえやすい。おもしろみは、時間をかけて残る。売れる作品にもおもしろみはある。売れない作品が自動的に深いわけでもない。だが、売上という短期指標と、作品が長く残る力は分けて考えたい。本を読めなくなった時代の問題は、読者が本を買わなくなったことだけではなく、価値判断の時間幅が短くなっていることにもある。
13. ながらとAI要約
動画、オーディブル、切り抜きの分析については、ながらでできる利点が大きい。通勤しながら、家事をしながら、歩きながら、作業しながら、耳だけで内容を受け取れる。動画も、画面を見たり見なかったりしながら流せる。切り抜きは、長い話の中から強い場面だけを取り出してくれる。読者や視聴者は、能動的に腰を据えるより、流れてくるものを受け取る形へ寄っていく。
筆者自身はASDの特性があるため、数十年前から「ながら」の感覚は身近だった。音楽を流しながら作業する。何かを見ながら別のことを考える。ひとつの刺激だけに落ち着くより、複数の刺激があったほうが安定する場合がある。そう考えると、いま起きていることは、国民みなASD化とでも言いたくなるところがある。医学的な意味で社会全体がASDになったという話ではなく、複数刺激を同時に扱い、ひとつの文脈へ長時間留まることが難しくなり、注意が細かく分割される生活環境が広がっているという意味である。
この環境では、紙の本を読むことが特別な訓練のようになる。以前の読書家が当たり前にやっていたことが、いまは意識して時間を確保しなければ成立しにくい。動画や音声は生活の隙間に入り込むが、本は生活の中に隙間を作らないと読めない。この差は大きい。
コスパ、タイパ重視の傾向には、読書の深さを損なう面がある。同時に、玉石混交の情報から自分の時間を守る働きもある。読者は毎日、外れを引かされている。題名だけ強い記事、結論を先延ばしする動画、中身の薄い解説、専門家風の断言、感想を情報のように見せる文章、宣伝を批評のように見せる記事が流れてくる。そういう環境で、読者が「先に要約してくれ」「結論から見せてくれ」「読む価値があるか教えてくれ」と思うのは自然である。AI要約は、この自然な欲望にぴったりはまる。粗い記事、引き延ばされた動画、結論の薄い情報、題名だけ強い文章から、自分の時間を守る防具として使える。
すべてをAI要約で済ませる姿勢には危うさもある。文体、順序、間、反復、違和感、読後の残り方が抜ける。文学、思想、聖書、古典、読みにくい作品は、要約だけだと経験になりにくい。読者は、著者の文章に付き合うことで、自分の思考の速度を変える。その変化は要約では起きにくい。
14. 聖書という例外
聖書については、筆者自身の見解として別に考えたい。売上、無料化、電子化、無店舗化の話を考えるとき、聖書は非常に面白い例になる。聖書は、しばしば世界的なベストセラーとして語られる。現在では、紙、電子書籍、アプリ、無料サイト、音声、教会での朗読など、複数の形で読まれている。電子化、無料化、無店舗化の要件をかなり満たしている。それでも聖書は強さを保ち、多様な形で読み継がれている。
聖書は、読む人にとって商品である前に、信仰、礼拝、祈り、共同体、教育、倫理、文学、歴史、翻訳、記憶と結びついている。紙の本として買われるだけでなく、教会で開かれ、家庭で読まれ、説教で引用され、祈りの言葉になり、音声で聞かれ、アプリで検索される。ひとつの販売経路が弱くなっても、読む理由そのものが複数ある。
聖書が無料化と相性がよいのは、広く読まれること自体に価値があるからである。もちろん、翻訳や出版には費用がかかる。聖書協会、出版社、アプリ運営、教会、教育機関など、支える仕組みも必要である。だが、聖書の場合、無料で読めることが入口を広げ、紙の聖書や注解書や説教や共同体での読みに戻る場合もある。
一般の本は、売れることが次の出版を支える。聖書も出版物である以上、流通と費用の問題から自由ではない。それでも、聖書は売上、媒体、店舗のいずれか一つに依存せず、信仰と共同体と記憶の中で読み継がれる本である。これは、本の価値が市場、媒体、店舗を超えて成立する例として、もっと分析したほうがよいと思う。
WEB上の情報は、サービス終了、企業判断、炎上、採算の変化によって簡単に見えなくなる。検索できることと、将来も読めることは違う。紙の本も絶版になり、雑誌も散逸し、テレビ番組も残らない。保存の仕組みを持たない情報は、媒体を問わず消える。一方で、青空文庫やデジタルアーカイブのように、保存の仕組みを持った情報は残る。問題は、媒体そのものではなく、誰が、何を、どの形式で、どの責任で残すかである。聖書が強いのは、この保存の仕組みを、共同体、礼拝、翻訳、教育、記憶の中に持っているからでもある。
15. 読書のこれから
本稿の論旨を整理すると、次のようになる。
稲田豊史『本を読めなくなった人たち』は、紙の本を一冊のまとまりとして読む時間と集中が、現代のメディア環境の中で変化していることを扱っている。
現代人は文字から離れているのではなく、スマホ、WEB記事、SNS、動画字幕、要約文などを通じて、大量の文字に触れている。
問題の中心は、文字を読む量ではなく、一冊の本へまとまった時間を預ける読み方が弱っている点にある。
書籍の価値は、第一層から第六層までを弁別して考える必要がある。売上や読者受けが意味を持つ層と、教育、信仰、記録、技術、知的探求によって支えられる層は異なる。
第一層から第三層は、教育、信仰、研究、職業訓練、知的探求によって需要が残る。
第四層は、ほとんどが消え、一部だけが再演の型になる。価値は、売上や受賞歴より、再演に耐える構造、教育や研究の対象になる理由、後続作品へ型を渡す力によって検証される。
第五層は情報として劣化が速く、長く残るのはフレームワークだけである。
第六層の売上は時代の欲望を映すが、価値の高さを証明しない。
AIの読者受け助言は、第六層へ文章を寄せやすい。読みやすさだけを絶対化すると、文章は思想や文学ではなく、消費される情報になる。
今後の文化は、上位三層の高品質な再演へ向かう可能性がある。リメークであることを自覚した高品質の再演技術が、文化の祭りの主役になるだろう。
高品質の再演は、古典の持つわかりにくさも引き受ける。分かりやすさへの過剰な迎合、結末の明快化、刺激の即時化は、むしろ的外れになっていく可能性がある。
技術的な驚きが飽和した映像作品では、再演の質が問われる。象徴性、神秘性、倫理的緊張、人物造形、語りの深さを受け継げない作品は、どれほど高解像度でも劣化していくだろう。
マンガや映像作品も、低品質な消費財と、高品質な再演技術を持つ作品に分かれていく。
スパム同様のもの、題名だけで釣るもの、読者の時間を奪うだけのもの、粗悪な再編集や低品質な量産物は、AIによって排斥される可能性がある。これは読書論というより、詐欺対策に近い。
AI要約は、読書を代替する道具ではなく、読む価値のある本へ戻るための前処理として使える。
真にクリエイティブなものは、再演の中からも現れる。象徴性と神秘性を承継しつつ、卓越したオリジナリティを持つ作品である。未来においても、後世に名を残す作品は登場するだろう。ただし、それはおそらく、単なる作家の技術ではなく、聖者の創造に近い領域である。
読書の未来は、紙の本か電子書籍か、AIか人間かという対立より、時間を奪う情報からどう身を守り、残された集中力をどのスタンダードへ注ぐかという問題として考えたほうがよい。
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