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「本が読みたい」の「が」(4.9千文字)

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「本が読みたい」の「が」

v3.7

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 本が読みたい

もし「が」の解釈を英語の「is」のように、主語と述語を結ぶ印として見てしまうと、「本が読みたい」という表現に疑問を持つ人がいるかもしれない。本を読むという基本形から考えれば、本を読みたいのほうが素直に見える。では、「本が読みたい」の「が」は、何を示しているのだろうか。

筆者は別の記事で、「象は鼻が長い」という文について考えたことがある。「象は鼻が長い」は、「象は」という大きな話題を置き、その中で「鼻が」を取り出し、「長い」と述べる文である。これに対して、「本が読みたい」は、実際には「私は本が読みたい」という構造を持っている。「私は」を補うと、「私は本が読みたい」は、「は」と「が」が並ぶ文として見える。

この意味で、「象は鼻が長い」と「私は本が読みたい」は、表面上どちらも「は」と「が」が並んでいる。ただ、「象は鼻が長い」の「が」は、話題の内部から部分を取り出す「が」であり、「私は本が読みたい」の「が」は、読みたいという心の向かう先を示す「が」である。本稿では、この似ているようで異なる「が」の働きを整理するために、「本が読みたい」という表現を取り上げる。

2. 二つの「が」

「が」には、主語を示す働きがある。犬が走る、雨が降る、風が吹く。このような文では、「が」は動作や現象の主体を示している。学校文法で最初に出会いやすい「が」は、この主語を示す「が」である。

では、「本が読みたい」の「が」は何なのだろうか。その正体は、欲求文において「を」の代わりに目的語にあたるものを示す「が」である。「私は本が読む」はおかしいが、「私は本が読みたい」はおかしくない。読むだけなら動作の文であり、目的語は「を」で受ける。一方、読みたいは欲求の文であり、目的語にあたるものを「が」で受けることができる。

ふつうの動作文では、目的語には「を」が使われる。本を読む、ビールを飲む、映画を見るという形である。一方、読みたい、飲みたい、見たいのように、動作が欲求として述べられる文では、「を」の位置に「が」が来ることがある。本が読みたい、ビールが飲みたい、映画が見たいという形である。

この形は、肯定的な欲求以外にも広がる。私は本が読みたくない、私は酒が飲みたくないという文でも、「が」は忌避の向かう先を受けている。読みたいと、その否定形は方向が反対である。それでも、どちらも主体の内側に生じる心の向きであり、その向きの先に本や酒が置かれている。

欲求の文は、したいに限られない。本がほしい、休みがほしい、静かな時間がほしいという文でも、「が」は欲求の向かう先を示している。さらに、猫が好きだ、音楽が好きだ、甘いものが好きだ、虫が嫌いだ、騒音が嫌いだという好悪の文でも、「が」は好きだ、嫌いだという感情の向かう先を受けている。これらも、主語の「が」としてではなく、欲求、忌避、好悪の向かう先を示す「が」として文法的に処理できる。

本を読むは、主体が本に向かって読むという動作を行う文であり、「本を」は読むという動作の目的語である。一方、本が読みたいでは、読むという動作よりも、読みたいという欲求が前に出る。省略されている主語は私であり、本はその欲求の目的語にあたる。

つまり、「本が読みたい」の主語は「私は」である。表に出ている本がに含まれる「が」は、読みたいという心の向かう先を示す助詞である。本が何かを読みたがっているのではなく、私が本を読みたいという欲求を持っているのである。

3. 状態の文

「が」が「を」の役割を果たす用法は、理解、能力、所有、感覚を述べる文にも見られる。数学がわかる、英語ができる、時間がある、いい匂いがする。このような文では、「が」は主語というより、理解、能力、所有、感覚の向かう先を示している。

たとえば、数学を勉強しているは動作の文である。数学がわかるは理解の文である。英語を勉強するは動作の文である。英語ができるは能力の文である。動作の目的語には「を」が合いやすく、理解、能力、所有、感覚の文では「が」が合いやすい。

数学がわかるという文では、数学が何かを行うのではなく、私の側に数学を理解している状態がある。英語ができる、時間がある、いい匂いがするも、主体の動作より、能力、所有、感覚が前に出る文である。

この目安を持つと、「が」と「を」の境界が見えやすくなる。本を読むは動作であり、本が読みたいは欲求である。猫を抱くは動作であり、猫が好きだは好悪である。日本語は、この差を助詞で細かく出している。

4. 「が」と「の」

「が」は「の」に近い働きをすることがある。この用法を考えると、「が」を主語専門の助詞として狭く見る感覚が揺らぐ。現代語でも、連体修飾の中では「が」と「の」が交替する例がある。

私が書いた本は、私の書いた本とも言える。母が作った弁当は、母の作った弁当とも言える。犬が走る運動場と犬の走る運動場も、ほぼ同じ内容を表す。犬が走るは独立した文として成り立つ。一方、犬の走るは後ろに名詞を要求しやすい。けれども、運動場という名詞を後ろに置けば、犬が走る運動場と犬の走る運動場は、どちらも犬が走る場所としての運動場を表す。

さらに、我が家、我が国、我が意を得たりという表現もある。我が家は私の家、我が国は私の国、我が意を得たりは私の思いを得たという意味で読める。日本人は、こうした表現を日常的に耳にしているため、「が」が「の」に近い働きを持つ用法があることを、無意識のうちに理解しているのかもしれない。

連体修飾の「が」と「の」の交替、我が家のような所有に近い「が」、そして「本が読みたい」の心の向かう先を示す「が」は、別々の用法である。それでも、これらの用法を並べると、「が」の働きが主語の印だけに収まらないことはよく見えてくる。「本が読みたい」の「が」は、読みたいという欲求の向かう先を前に出す助詞である。

5. 聖書的用例

筆者はクリスチャンである。最後に、聖書的な「が」の用例を考えてみよう。

たとえば、「私は聖書が理解できるようになりたい」という文がある。この文の主語は「私は」である。「聖書が」は、聖書が何かを理解するという意味ではない。「聖書が理解できる」は理解の文であり、聖書は理解の向かう先である。つまり、「理解できる」は状態である。

そのうえで、「理解できるようになりたい」と続くと、文は欲求を表す。「できる」は状態であり、「できるようになりたい」は欲求である。私は、聖書を理解できる状態へ至りたい。その願いを、「私は聖書が理解できるようになりたい」という形で言い表している。

聖書にも、この構造に近い言葉がある。テモテへの手紙第一2章4節では、神がすべての人の救いと、真理を知ることを望んでおられると語られている。ここには、神の望みと、人が真理を知るようになるという方向がある。文例として言い換えるなら、「私は真理がわかるようになりたい」と言うことができる。「真理が」は、真理が何かを行う主語ではなく、私の理解が向かう先である。

エペソ人への手紙2章8節では、人が恵みにより、信仰によって救われることが語られている。ヨハネの福音書1章12節では、キリストを受け入れ、その御名を信じる人々に、神の子となる権利が与えられることが語られている。これらの聖句は、神が与え、人が受け取るという順序を示している。人は、自分の力で神の恵みを所有する者ではなく、神の恵みを受け取る者として生かされる。

だから、「私は神の恵みが受け取れるようになりたい」と言うこともできる。この文でも、神の恵みが何かを受け取るのではない。私が、神の恵みを受け取れる者へ変えられたいのである。「受け取れる」は能力の文であり、「受け取れるようになりたい」は欲求の文である。ここでも、「が」は主語を示すのではなく、受け取るべき恵みを前に出している。

神は、人が神の恩寵を受け取ることができるようにつくられた。神は、人が神の恩寵を受け取ることを望んでおられる。人は「が」を使って、正しく信仰を表明することができる。私は神が信じられるようになりたい。人は「が」を使って、正しく希望を表明することができる。私は真理がわかるようになりたい。人は「が」を使って、正しく愛を表明することができる。私は隣人が愛せるようになりたい。

耳ある者は聞くがよい。助詞は小さく、文の道は大きい。形だけを見て急ぎ裁く者は、意味を取り逃がす。文脈を尋ねる者は、ことばの務めを悟る。主語を示す「が」もあれば、心の向かう先を示す「が」もある。人はその小さな「が」によって、信じたいもの、望みたいもの、愛したいものを、正しく言い表すことができる。

6. 論旨整理

本稿の論旨を整理すると、次のようになる。

「本が読みたい」は自然な日本語であり、「私は」が省略された文として読める。

「本が読みたい」の主語は「私は」であり、本がに含まれる「が」は、読みたいという欲求の向かう先を示している。

「が」を主語専門の助詞と見ると、「本が読みたい」の構造が見えにくくなる。

「が」には、主語を示す働きに加えて、一定の文型で「を」の代わりに目的語にあたるものを示す働きがある。

欲求や忌避の文では、「が」が「を」の代用として目的語にあたるものを示すことがある。

「私は本が読む」はおかしいが、「私は本が読みたい」はおかしくない。

本が読みたい、ビールが飲みたい、映画が見たい、本がほしい、休みがほしいは、欲求の文として同じ系列に置ける。

猫が好きだ、音楽が好きだ、甘いものが好きだ、虫が嫌いだ、騒音が嫌いだは、好悪の文として近い系列に置ける。

好悪の文は、状態よりも感情として整理したほうが自然である。

理解、能力、所有、感覚を述べる文でも、「が」が「を」の役割を果たす用法がある。

数学がわかる、英語ができる、時間がある、いい匂いがするでは、「が」が理解、能力、所有、感覚の向かう先を示している。

「私は聖書が理解できるようになりたい」では、「理解できる」が状態であり、「理解できるようになりたい」が欲求である。

「私は神の恵みが受け取れるようになりたい」では、「受け取れる」が能力であり、「受け取れるようになりたい」が欲求である。

人は「が」を使って、正しく信仰・希望・愛を表明することができる。

現代語でも、連体修飾の中では「が」と「の」が交替することがある。

我が家、我が国、我が意を得たりでは、「が」が「の」に近い所有や連体の働きをしている。

本を読むは動作の文であり、本が読みたいは欲求の文である。

ビールが飲みたいも同じ系列にあり、「が」が飲みたいという欲求の目的語にあたるものを示している。

「象は鼻が長い」は、「は」と「が」が並ぶ文として「私は本が読みたい」と構造上は似て見えるが、「が」の用法は異なる。

結局、「が」は日本語の中で、名詞を前に出す強い助詞として働いている。主語の「が」も、目的語的な「が」も、「の」に近い働きをする「が」も、文の中で何かを浮かび上がらせるという点で深くつながっている。

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