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肉の欲:性的な罪悪感に関するアブダクション(2.2万文字)

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肉の欲:性的な罪悪感に関するアブダクション

v7.2

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料を参照していますが、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、トマス・ピンチョン『重力の虹』、アルフレッド・ベスター「昔を今になすよしもがな」、ブライアン・W・オールディス「兵士は立てり」、アルバート・ピュン監督『サイボーグ』、ポール・トーマス・アンダーソン『ブギーナイツ』『マグノリア』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. 論旨

本稿で扱うのは、性的な出来事のあとで人間が自分をどう裁くかである。性の商品化、裏切り、自己保身、終末の性交、戦場の自慰、管理される性といった題材は、刺激的な事件として読むほど焦点が散る。焦点は、身体反応、感情反応、知的判断のずれにある。

筆者は医療やカウンセリングの専門家ではない。実際の苦痛や生活上の困難がある場合には、医療やカウンセリングの専門家に相談することを推奨する。本稿は、その前段階として、性的な出来事、身体反応、感情反応、知的判断がどのように罪悪感へ結びつくのかを整理する概念的な考察にとどめるものとする。

筆者には、臨床について語る資格がない。そのため本稿は、実在の個人を診断したり、苦痛への処方を提示したりする文章としてではなく、映画作品と文学作品を用いたケース・スタディとして進める。作品に描かれた性の商品化、自己保身、終末、戦場、管理される身体を通じて、身体反応、感情反応、知的判断がどのように罪悪感へ結びつくのかを観察する。

筆者は現在、グルジェフのグループに所属していない。グルジェフは、一人でワークすることは不可能であり、グループと組織が必要であると説いている。その側面から、筆者は現在、クリスチャンのグループに所属している。本稿は、孤立した個人の思弁としてではなく、共同体的な実践の中で、身体、感情、知性、罪悪感、悔い改め、義認、聖化、目覚めについて考える試みでもある。ただし、本稿はグルジェフ・ワークの公式記事ではなく、第三者によるフィールド・ワーク的な考察、あるいはアブダクションとして書かれている。本稿で行うセンター論、本質と人格、馬車メタファー、人間第1番から第7番の読み替えは、作品と人間経験を読むための筆者の試みである。本稿の見解、比喩、解釈、読み替えについて、いかなるグルジェフ・グループにも責任はない。

人は、欲望そのものに罪悪感を抱く。人は、失敗や逃走や自己保身に罪悪感を抱く。人は、罪悪感から逃れるために放蕩する。これらは、身体、感情、知性が別の速度と規則で動き、人格がその摩擦を自動的に自己像へ変換するために起きる。本稿は、この構造を、性的な罪悪感に関するアブダクションとして扱う。

本稿では、性にまつわる罪悪感という、一般的な評論で扱いにくい主題を論じるために、グルジェフの思想を体系的に参照する必要が生じた。同時に、本稿は、グルジェフ思想の代表的なアイデアを一つの流れとして整理する試みでもある。グルジェフは『ベルゼバブの孫への話』第1章で、「馬鹿騒ぎをするなら、徹底的にやれ」という原則を掲げる。性にまつわる罪悪感を読むためにグルジェフの道具立てが必要になるなら、その道具立てを必要な範囲でまとめて運び込む。本稿の構成は、このグルジェフ的原則に従っている。

2. グルジェフのセンター論

本稿の三分法は、グルジェフが説いたセンター論から着想を得ている。グルジェフは、人間を三階建ての工場に見立てた。頭、胸、腹という三つの階層があり、それぞれが外部から異なる種類の食物を受け取り、処理し、別の材料へ変換する。三階建ての工場という比喩は、人間が頭、胸、腹という複数の階層を持ち、それぞれが別の材料を受け取り、処理し、変換する存在であることを示している。

センター論の側から見ると、各センターには固有の記憶、連想、思考がある。身体側のセンター群は身体の記憶と反応を持ち、感情センターは感情の記憶と連想を持ち、知性センターは言葉、分類、判断の機能を持つ。このため、人間の内部では、身体が覚えていること、感情が覚えていること、知性が説明することが一致しない場合がある。

初期の説明では、知性センター、感情センター、動作センターという三センターが語られる。後に、本能センターが独立した機械として加えられ、さらに性センターが加えられる。普通の人間には、知性センター、感情センター、動作センター、本能センター、性センターという五つのセンターがある。さらに高次のセンターとして、高次感情センターと高次思考センターが語られる。

動作センター、本能センター、性センターは身体側の階層を形成する。動作センターと本能センターは同じ階層にあり、説明上、ひとまとまりに扱われる場合がある。性センターは身体側の階層に属しながら、独自の強いエネルギーを持ち、他のセンターとの関係のなかで誤作動を起こす。本稿で身体という語を使う場合、動作センター、本能センター、性センターを含む身体側のセンター群を指す。

グルジェフには「三つの脳」という表現もある。グルジェフの説明では、一脳、二脳、三脳の動物が語られ、人間は三脳動物として位置づけられる。人間の複雑さは、頭、心、身体という三つの階層が、それぞれ別の中心として働きながら、一人の存在を構成している点にある。頭は知的判断を担い、心は感情と記憶を担い、身体は動作、本能、性、快感、硬直、緊張の解放、生存反応を担う。

頭、心、身体という三つの階層は、キリスト教の三位一体の似姿としても読むことができる。人間を一つの存在として見るなら、そこには頭、心、身体という三つの位格に似た重心がある。知性、感情、身体は、それぞれその人の一つの重心であり、その人はこの三つの重心の関係によって成り立っている。三者は互いに異なる機能でありながら、一人の人間の内部で結びついている。

生まれの順序で見れば、肉体が長男であり、感情が次男であり、知性が三男である。人間はまず肉体として生まれ、次に動物と同等の感情を帯び、最後に機械的知性を備えていく。理性や良心は、肉体、感情、知性の各階層が成長する過程で、それぞれの高次の機能へ進化していく。成熟後の秩序で見ると、知性は御父に近い理性や意識という機能に進化し、身体は受肉の機能として働き、感情は御霊の内住の宮として良心や愛に進化する。人間の内部には、生まれの順序と、成熟後の秩序という二つの配列がある。

人間は、知性、感情、身体の三層に分かれて反応する。グルジェフのセンター論に即して言えば、知性センター、感情センター、そして動作センター、本能センター、性センターを含む身体側のセンター群が、それぞれ別の速度と規則で動く。知性センターは、同意、責任、加害、被害、人権、尊厳を判断する。感情センターは、好き嫌い、恐怖、嫌悪、記憶、執着、憎悪、羞恥、罪悪感、自己嫌悪、自暴自棄を作る。身体側のセンター群は、動作、痛み、快感、硬直、興奮、緊張の解放、生存反応、性反応として動く。

性欲は、生殖に結びつく身体機能であると同時に、快感、接触、緊張の解放、自己鎮静、生存確認、愛着、孤独、記憶、文化、権力関係とも結びつく。人間の知性や道徳がその反応をどう解釈するかという問題と、身体が反応するという事実は、別の階層にある。

感情もまた、ある意味では動物的な衝動の領域に属している。好き嫌い、記憶、執着、恐怖、怒り、憎しみがあるから、生存本能は維持される。危険な相手を嫌う。敵を憎む。失ったものに執着する。傷ついた自分を憎む。これらは生き延びるための判断基準とエネルギー源として発生する。

身体反応は同意と別の階層にある。感情反応は判決と別の階層にある。罪悪感は罪の証拠と別の階層にある。性的な極限状況で人間が自分を見失うのは、身体、感情、知性がそれぞれ別の速度と規則で反応し、人格がその摩擦をひとつの自己像へまとめてしまうからである。

3. 本質と人格

本質とは、その人自身のものとして生まれに属する部分である。小さな子どもは、本質として存在している。本質には、その人固有の欲求、好み、嫌悪、感受性が含まれる。本稿では、この本質を、心の深層に眠っている愛や良心のポテンシャルとして扱う。愛や良心は、本質の成長とともに高次の機能へ進化していく。

人格とは、外側から入ってきたものによって形成される後天的な層である。教育、模倣、記憶、言葉、身振り、社会的役割、他人から受けた印象、外部から作られた感情が人格を形成する。身体には身体の機械性があり、感情には感情の機械性があり、頭には頭の機械性がある。これらの機械性が経験、教育、恐怖、欲望、自己防衛を通じて組み上がると、その人の人格として働き始める。

本稿では、人格を、厳しい現実とまだ成長していない本質とのあいだに入る自動操縦の代理人として読む。人格は、人間を現実から守り、同時に現実を歪める。人格は、本質がまだ耐えられない痛み、恥、恐怖、責任、孤独を、物語、役割、自己正当化、自己処罰へ変換する。

肉体、感情、機械的知性が自動的に反応している段階の人間は、機械として動いている。身体の機械性は、快感、硬直、興奮、逃走、服従、緊張の解放として現れる。感情の機械性は、好き嫌い、恐怖、執着、嫉妬、憎しみ、羞恥、自己嫌悪として現れる。頭の機械性は、説明、分類、正当化、断罪、反省、自己批判として現れる。これらが寄せ集まり、後天的な自動操縦の代理人として人格を作る。

人格は、身体の反応、感情の傷、頭の判決を寄せ集め、自動的に「自分はこういう人間だ」という物語を作る。性的な罪悪感は、この人格の働きによって強まる。身体は刺激に反応する。感情は恥や嫌悪や執着を作る。頭は同意、責任、加害、被害、尊厳を判断しようとする。そこへ人格が介入すると、身体反応は「自分の本性」として読まれ、感情の傷は「自分の汚れ」として読まれ、頭の判断は「自分への判決」として働き始める。

4. 馬車メタファー

グルジェフは、人間の構造を馬車にもたとえている。馬車の車体は身体であり、馬は感情と欲望であり、御者は心または知性であり、主人は私、意識、意志である。車体、馬、御者、主人は、それぞれ別の機能として存在している。馬車と馬は轅によって結ばれ、馬と御者は手綱によって結ばれ、御者と主人は主人の声によって結ばれる。人間が一つの全体として動くためには、この接続が働かなければならない。

通常の人間では、主人の声が御者に届く状態が未成立である。御者は眠っており、主人の言語を学んでおらず、馬を扱う技術も、馬車を整える力も十分に持たない。馬が感情と欲望の方向へ走れば、身体である車体はそれに引かれる。御者である知性は、手綱を扱い、馬を訓練し、車体を整え、主人の声を聞く能力を育てなければならない。

主人のいない馬車、あるいは未成長の人格が一時的な主人として入れ替わる馬車は、脊髄反射的なプログラムを自動実行しているロボットのような状態を表している。これは、グルジェフがいう機械でしかない人間の姿である。身体が刺激に反応し、感情がその反応へ好き嫌いや恐怖や羞恥を加え、知性があとから理由や判決を与える。そのたびに別の≪私≫が立ち上がり、あたかも自分が一貫した主人であるかのように振る舞う。

生まれながらの人間は、すべてこの状態から始まる。人間は最初から統一された主人として生きているのではなく、身体、感情、知性の自動反応と、場面ごとに入れ替わる複数の≪私≫によって動いている。そこから脱却する入口は、自分がこの牢獄のような状態にいることを、自己観察を通して見ることである。

『In Search of the Miraculous』でグルジェフは、人間の状態を牢獄にたとえている。「あなたがたは自分自身の状況を認識していない。あなたがたは牢獄にいる。もし分別ある人間なら、望みうることは脱出だけである。だが、どう脱出するのか。壁の下にトンネルを掘る必要がある。一人の人間には何もできない。しかし、十人か二十人の人間がいて、交代で働き、互いに見張り合うなら、彼らはトンネルを完成させ、脱出できる」と語られる。さらに、「すでに脱出した者たちの助けなしに、誰も牢獄から脱出することはできない。脱出がどのように可能かを語ることができ、道具、やすり、その他必要なものを送ることができるのは、彼らだけである。一人の囚人だけでは、その人々を見つけることも、連絡を取ることもできない。組織が必要である。組織なしには何も達成できない」と続く。そしてウスペンスキーは、グルジェフがこの牢獄と脱出の例に何度も戻り、牢獄にいる人間が脱出の機会を持つには「まず何よりも、自分が牢獄にいることを認識しなければならない。これを認識できず、自分は自由だと思っているかぎり、彼にはいかなる機会もない。誰も、本人の意志に反して、力ずくで彼を助けたり解放したりすることはできない。解放が可能であるなら、それは大きな労働と大きな努力、何よりも明確な目的へ向かう意識的努力の結果としてのみ可能である」と語った、と記している。

この牢獄の比喩は、機械的人間の眠りを説明する。グルジェフは、この機械的人間の状態を眠りとしても語る。人は目を開け、仕事をし、食事をし、会話をし、性的行動をし、反省しているつもりでいても、自分自身を想起していない。そのため、外面的には起きているように見えても、内面的には眠っている。眠りからの脱却が目覚めである。

目覚めは、自分が眠っていることに気づくところから始まり、自己観察と自己想起を通じて少しずつ深まる。自分は見ている、自分は感じている、自分は考えている、自分は反応している。こうした観察が生じるとき、機械的人間の自動実行にわずかな隙間が生まれる。

この入口にあるのが、自己観察であり、自己想起である。自己観察は、自分の身体、感情、知性の反応を観察することである。自己想起は、観察している対象と同時に、観察している自分自身を想起することである。現代風に言えば、これはメタ認知に近い。人は外部の対象だけを見るのではなく、外部の対象を見ている自分も同時に見る。

食事をしているとき、機械的人間のアテンションは食べ物に向かう。仕事をしているとき、アテンションは対話相手や文書に向かう。通常の状態では、アテンションは外部の対象に一方向へ流れている。自己想起では、食べ物を見るアテンションと、食べている自分を見るアテンションが同時に働く。仕事の文書を見るアテンションと、その文書を読んで反応している自分を見るアテンションが同時に働く。ここに、アテンションの分割が生じる。

このために必要な道具が、アテンション、つまり注意力である。機械的人間は、アテンションを外部の対象へ一方向に向ける。自己想起が始まると、アテンションは対象と自己へ二方向に分かれる。さらに自己想起が深まると、アテンションは外面だけでなく、内面の複数の動きへ向けられる。外部の対象、身体の反応、感情の動き、知性の言葉が同時に観察の対象になる。

人間の内部には、知性センター、感情センター、身体側のセンター群があり、それぞれが別の速度と規則で反応する。アテンションが複数のセンターへ向けられると、身体の欲望、心の好き嫌い、頭の判断が同時に見えてくる。

機械的人間では、複数の≪私≫ごとに記憶が分断されている。ある瞬間には身体的欲望が≪私≫を名乗り、別の瞬間には羞恥が≪私≫を名乗り、さらに別の瞬間には知的な反省や断罪が≪私≫を名乗る。それぞれの≪私≫は、自分がその瞬間の主人であるかのように語る。しかし、別の≪私≫が現れると、前の≪私≫の視点は消え、記憶と自己像は別の形へ切り替わる。

一貫した視点を想起できるようになることが重要である。自己想起は、複数の≪私≫の入れ替わりを観察し、その奥にいる観察者の位置を作る。主人の声が御者に届き始めるとは、身体、感情、知性のどれか一つが独裁する状態から、複数のセンターを見渡す視点が生まれ始めることでもある。

この説明は、現代の言葉ではメタ認知に近く、ヴィパッサナー、止観、マインドフルネスにおける観察の技法とも相関する。対象を見ながら、対象を見ている自分にもアテンションを向けるという構造が共通している。

ここで、本稿の主題が見えてくる。身体の欲望は観察対象である。身体の欲望を裁く頭の戒律的な判断も観察対象である。外面、身体反応、思考反応に対して好き嫌いを返す心も観察対象である。身体、心、頭は、それぞれ別のセンターとして動くため、互いに矛盾していて当然である。

性的な罪悪感が強くなると、人は身体の欲望をそのまま罪と読み、心の嫌悪を判決と読み、頭の戒律的判断を真の私の声として聞いてしまう。自己観察は、この三つを分ける。身体は欲望している。心は嫌悪している。頭は裁いている。その三つを同時に観察できるとき、身体、心、頭の矛盾は、そのまま自己処罰へ直結しなくなる。

この読みは、キリスト教における義認、聖化、栄化というプロセスとの相関としても読める。義認は、混線した身体、心、頭のどれかが自分を救うという発想を超え、神の側から人間の立ち位置が定められる出来事として読める。聖化は、身体、心、頭の機械的反応を観察し、少しずつ秩序づけていく過程として読める。栄化は、分裂したセンターと複数の≪私≫を越えて、人間が完成された統一へ向かう希望として読める。

このメタファーは、人間の身体、感情、知性が、接続を整えることで全体として働き始める組織であることを示す。身体的欲望は一つの機能であり、それに付随する感情は別の機能であり、事後にそれらへ解釈を付ける知性もまた別の機能である。本質が正しく進化していない人間では、身体、感情、知性はそれぞれ別の人格的要因となり、内面に闘争、葛藤、摩擦を生み出す。

身体側のセンター群は、快感、逃走、硬直、服従、緊張の解放を求める。感情センターは、恐怖、羞恥、嫌悪、執着、怒り、自己嫌悪を作る。知性センターは、同意、責任、罪、加害、被害、尊厳、自己批判の言葉を作る。これらは一人の人間の内部にありながら、それぞれ別の速度、別の目的、別の規則で動く。それぞれが自分を≪私≫として立てると、身体の欲望、感情の傷、知性の判決が互いに争い始める。

本質が正しく進化するまでは、主人は馬車全体を統御する力として現れない。人格は、主人の不在を埋める代理人として働く。人格は、身体の機械性、感情の機械性、頭の機械性を寄せ集め、場面ごとに別の≪私≫を立てる。ある場面では身体的欲望が≪私≫になり、別の場面では羞恥や怒りが≪私≫になり、事後には知的な反省や断罪が≪私≫になる。

この状態では、複数の≪私≫が入れ替わりながら、その場その場の自己像を作る。身体的欲望が≪私≫を名乗るとき、感情センターはそれに怒りや恥を加える。感情センターが≪私≫を名乗るとき、知性センターは過去の行為を説明し、分類し、断罪する。知性センターが≪私≫を名乗るとき、身体側のセンター群はなお別の速度で反応している。個体性は、主人が現れ、馬車、馬、御者の接続が整うときに形を取り始める。

性的な罪悪感は、この構造の中で発生する。身体は刺激に反応する。馬である感情は、恐怖、羞恥、嫌悪、執着、興奮を作る。御者である知性は、あとから同意、責任、罪、尊厳という言葉で出来事を解釈する。主人の声が御者に届く状態が未成立のとき、身体、感情、知性は別々の速度で動く。人格はその混線を引き受け、身体反応を「自分の本性」として読み、感情の傷を「自分の汚れ」として読み、知性の判断を「自分への判決」として働かせる。

5. 人間第1番から第7番

グルジェフは『In Search of the Miraculous』で、人間を第1番から第7番までに分類する。「人間」という一語の代わりに、人間第1番、人間第2番、人間第3番、人間第4番、人間第5番、人間第6番、人間第7番という七つの語が用いられる、と説明される。この分類は、人間を道徳的な優劣で分けるためのものではなく、進化の可能性、存在の水準、知識の質、内的統一の程度を区別するための言語である。

「もう一度、人間という概念を取り上げよう。私が語っている言語では、『人間』という語の代わりに七つの語が用いられる。すなわち、人間第1番、人間第2番、人間第3番、人間第4番、人間第5番、人間第6番、人間第7番である。この七つの概念によって、人々は人間について語るとき、すでに互いを理解できるようになる。人間第7番とは、人間に可能な完全な発達に達し、人間が持ちうるすべてのもの、すなわち意志、意識、恒久不変の私、個体性、不死性、そして私たちが盲目と無知の中で自分自身にあると思い込んでいる多くの性質を持つ人間である。人間第6番は人間第7番に非常に近い。彼が人間第7番と異なるのは、その性質のいくつかがまだ恒久的になっていないという点だけである。人間第5番もまた、私たちにとって到達しがたい人間の基準である。なぜなら、それは統一に達した人間だからである。人間第4番は中間段階である。人間第1番、第2番、第3番は、生まれたときと同じ水準にある機械的人類を構成する人々である。」

「人間第1番とは、その心理生活の重心が動作センターにある人間を意味する。これは身体の人間であり、動作機能と本能機能が、感情機能と思考機能を絶えず上回る人間である。人間第2番とは、同じ発達水準にありながら、その心理生活の重心が感情センターにある人間である。つまり、感情機能が他のすべてを上回る人間、感情の人間である。人間第3番とは、同じ発達水準にありながら、その心理生活の重心が知性センターにある人間である。つまり、思考機能が動作機能、本能機能、感情機能より優勢になる人間、理性の人間であり、あらゆることへ理論や知的考察から入っていく人間である。」

「人間第4番は、出来上がったものとして生まれるのではない。彼は第1番、第2番、第3番として生まれ、明確な性質を持った努力の結果としてのみ第4番になる。人間第4番は、常にスクール・ワークの産物である。彼は、生まれることも、偶然に発達することも、通常の養育や教育などの影響の結果として発達することもできない。人間第4番は、すでに人間第1番、第2番、第3番とは異なる水準に立っている。彼には、自分の思想、ワークの評価、スクールへの関係から成る恒久的な重心がある。さらに、彼の心理的センターはすでに均衡し始めており、第1から第3のカテゴリーの人々の場合のように、一つのセンターが他のセンターをそれほど圧倒することはできない。彼はすでに自分自身を知り始め、自分がどこへ向かっているのかを知り始めている。」

「人間第5番はすでに結晶化している。彼は人間第1番、第2番、第3番のように変化することができない。」

知識については、さらに次のように説明される。

「人間第5番の知識は、全体的で分割できない知識である。彼には今や一つの分割できない私があり、彼のすべての知識はこの私に属する。彼には、あることを知っている一つの私と、それを知らない別の私があるということはありえない。彼が知っていることは、彼全体が知っている。」人間第6番の知識は人間に可能な完全な知識だが、まだ失われうる。人間第7番の知識は彼自身の知識であり、奪われることがなく、すべてについての客観的で完全に実践された知識である。

この分類から見ると、本稿で扱ってきた主人のいない馬車は、人間第1番から第3番の状態に属する。身体側のセンター群が主導するとき、人間は人間第1番として動く。感情センターが主導するとき、人間は人間第2番として動く。知性センターが主導するとき、人間は人間第3番として動く。いずれの場合も、主人はまだ馬車全体を統御していない。身体、感情、知性のどれか一つがその場の≪私≫を名乗り、他のセンターを引きずる。

本稿でいう自己観察と自己想起の段階は、この人間第4番への入口に対応する。人間第1番から第3番は、身体、感情、知性のどれか一つに重心を奪われやすい。人間第4番では、アテンションが対象と自己へ分かれ、自分の中で身体、感情、知性、複数の≪私≫がどのように動いているかを観察し始める。自分が機械であること、自分が眠っていること、自分が牢獄にいること、自分が複数のセンターに引き回されていることを知り始める。この自己観察と自己想起が、機械的人間から抜け出す入口になる。

したがって、本稿の用語で整理すれば、人間第1番から第3番は機械的人間である。人間第4番は、自己観察、自己想起、スクール・ワークによって、自分の機械性を見始め、センターの均衡を始める中間段階である。人間第5番以上は、機械性から脱却し、統一、意志、意識、個体性へ向かう段階である。人間第6番は人間第7番に近づき、人間第7番は人間に可能な完全な発達を表す。

この分類は、性的な罪悪感を読むうえでも重要である。人間第1番では、身体側のセンター群が主導し、快感、硬直、逃走、性反応、緊張の解放が自己像全体を支配しやすい。人間第2番では、感情センターが主導し、羞恥、嫌悪、恐怖、憎悪、自己嫌悪が自分全体への判決として働きやすい。人間第3番では、知性センターが主導し、理屈、戒律、分類、自己批判が身体と感情を断罪しやすい。人間第4番への入口では、これら三つのセンターを分けて観察するアテンションが生まれる。人間第5番以上では、複数の≪私≫の争いから離れ、統一された私のもとで、身体、感情、知性が別々の機能として秩序づけられていく。

このため、性的な罪悪感を扱う本稿では、罪悪感を感じている主体がどの水準で自分を見ているのかを問う必要がある。身体だけが≪私≫を名乗っているのか。感情だけが≪私≫を名乗っているのか。頭の戒律的判断だけが≪私≫を名乗っているのか。あるいは、それらを観察する位置が生まれ始めているのか。センターを分けて読むことは、人間第1番から第3番の機械性を見分け、人間第4番への入口に立つための実践的な読み方である。

6. 管理される身体――トマス・ピンチョン『重力の虹』

トマス・ピンチョン『重力の虹』では、社会や宇宙の不条理と同列に、数多くの猥雑な描写が置かれる。戦争、統計、ロケット、企業、国家、陰謀、資本、管理の問題と、ポルノ、自慰、性欲、性的妄想、身体反応が同じ地平に並ぶ。なぜピンチョンは、世界の不条理を語る場面で、人間の性的行動をこれほど執拗に強調するのか。

筆者には、ピンチョンが人間の性的行動の中に、人生の重要な要素、つまり不条理をひも解く鍵を見ていたように思える。人間は理性によって世界を理解しようとする。しかし、身体は理性の命令と別の場所で反応する。欲望は、政治、戦争、資本、技術、宗教、家庭、記憶、羞恥と絡み合う。性的行動は、人間が自分を統御できる存在だという幻想を壊し、身体、感情、知性、社会装置の混線を露出させる。

トマス・ピンチョン『重力の虹』第一部「Beyond the Zero」では、性、戦争、技術、統計、企業、国家、陰謀、ポルノ的想像力が絡み合う。身体の反応は個人の秘密にとどまらず、ロケットの軌道、軍事管理、資本の欲望と接続される。

第一部「Beyond the Zero」という章題は、この読みへつながる。ポルノ、愛、マスターベーション、男性優位主義、冷笑、資本主義は、身体を通じて結びつく。人間は自分の性を自分のものとして感じる。だが、その性のイメージには、戦争、商品、管理、広告、家父長制、ポルノが入り込んでいる。

ピンチョン的な性の恐怖は、身体が自分だけのものとして守れない点にある。人物は、自分の欲望が外側から作られた回路に巻き込まれていることに怯える。自分の内部が自分だけのものではなかったという感覚が、不完全さと自己嫌悪を作る。

この恐怖は、人間が身体を持つことの根源に触れている。身体の領域は、動物と共通する。性欲や快楽は、生殖、接触、緊張の解放、自己鎮静、生存確認、愛着、孤独、記憶、文化、権力関係と結びつく。人間はその上に言語、倫理、愛、制度、罪悪感を重ねる。ピンチョンの世界では、その上にさらに戦争、資本、技術、管理が侵入する。身体の基本機能が、巨大な社会装置の中で利用され、歪められ、記録され、商品化される。だから人物は、自分の身体反応そのものを恐れるようになる。

感情もこの装置の中で歪められる。好き嫌い、恐怖、憎悪、執着、恋愛、羞恥は、本来、生存の判断基準として働く。だが、戦争と資本と管理の中では、感情も利用される。敵への憎しみは動員され、性への執着は商品化され、羞恥は支配され、自己嫌悪は管理しやすい人間を作る。身体と感情の両方が社会装置へ接続されるところに、『重力の虹』的な恐怖がある。

『重力の虹』では、人格もまた社会装置に巻き込まれる。身体側のセンター群は刺激に反応し、感情センターは欲望、恥、恐怖、執着を作り、知性センターは統計、因果、陰謀、管理の言葉でそれらを理解しようとする。人格はそのすべてを自分の内部として受け取り、自分の欲望が自分のものなのか、外部から作られたものなのかを見失う。身体の自動性、感情の動員、知性の管理が重なったところに、ピンチョン的な肉の恐怖が生まれる。

性的な罪悪感は、このような場所で強まる。身体は反応する。感情は恥や嫌悪や執着を作る。知性は、その反応を説明し、管理し、場合によっては処罰しようとする。さらに社会装置が、その身体反応に商品価値、統計的意味、管理対象としての意味を与える。ピンチョン的な猥雑さは、読者を刺激する装飾ではなく、人間が不条理から逃げられないことを示す装置として読める。

7. 終末と身体の現在――アルフレッド・ベスター「昔を今になすよしもがな」

ピンチョンが社会装置と身体の不条理を見せるなら、ベスターの終末的状況は、世界そのものが崩れたときに身体がどこへ向かうかを見せる。アルフレッド・ベスター「昔を今になすよしもがな」は、終末的な時間感覚、過去への郷愁、失われた文明、取り戻せない時間、破滅の現在を思考する作品として、本稿の主題に接続できる。異星人の侵略で世界が崩壊し、見ず知らずの男女が虐殺された同胞の死体を目にする。死が近い。未来が消えている。共同体も言葉も崩れている。本稿は、この終末的状況に接続する仮説的ケースとして、死を前にした男女が性行為へ向かう場面を置く。

死体は過去になった身体であり、性交はまだ現在にある身体である。彼らは死者のそばで、自分たちがまだ死者ではないことを確かめる。この仮説的ケースは、作中に明示された罪悪感描写としてではなく、読者が死者のそばの性交という状況にショックを受け、機械的に罪悪感を連想する構造として読む。死者の前で何をしているのか。高潔に死を受け入れるべきではなかったのか。死者へ祈るより先に、自分の身体へ逃げたのではないか。そうした判決は、読者の知性と感情があとから作る反応でもある。

死の恐怖の前で身体が生の感覚を求めることは、身体の深い本能に属している。性欲は、生殖に結びつく身体機能であると同時に、快感、接触、緊張の解放、自己鎮静、生存確認、愛着、孤独、記憶、文化、権力関係とも結びつく。終末の場面では、未来へ向かう通常の時間は崩れている。それでも身体は、死に対して生の反応を返す。そこに醜さが混ざっても、身体は生きている側へ向かっている。

同時に、感情も生の側で動いている。死者への悲しみ、侵略者への憎しみ、生き残った自分への嫌悪、失われた世界への執着がある。これらの感情は、世界が壊れたことを身体と知性に知らせる警報である。感情があるから、人は失ったものを失ったものとして記憶できる。感情があるから、敵を敵として認識できる。感情があるから、生き残った自分を問い直すこともできる。

終末の性交は、身体、感情、知性の摩擦を露出させる。身体は生へ向かう。感情は死者への悲しみと侵略者への憎しみを抱く。知性は、死者の前で性へ向かう反応を裁こうとする。人格はその三つを束ね、「これは醜い」「これは許されない」という物語へ変換しやすい。だが、身体が生の感覚へ向かうことと、死者を悼む感情と、その状況にショックを受ける知性は、それぞれ別の場所で働いている。

8. 戦場と自己鎮静――ブライアン・W・オールディス「兵士は立てり」

ブライアン・W・オールディス「兵士は立てり」は、戦場に投げ込まれた兵士の身体と恐怖を考えるための参照になる。戦場の兵士は、任務を知性で理解し、死を感情で恐れ、身体では震える。砲声、泥、死体、眠れない夜のなかで、身体は勇気という抽象語の通りには動かない。本稿は、この作品に接続するケースとして、戦場で自慰に向かう兵士を置く。

兵士の自慰は、恐怖の自己鎮静として理解できる。彼は戦場で性を楽しんでいるのではない。死が近すぎるため、自分の身体に戻ろうとしている。国家や軍隊の言葉が奪っていく自己感覚を、身体反応で取り戻そうとしている。

この仮説的ケースも、作中に明示された罪悪感描写としてではなく、読者が戦場の自慰という状況にショックを受け、機械的に罪悪感を連想する構造として読む。仲間が死んでいるときに何をしているのか。兵士として失格ではないのか。恐怖に耐えられなかったのではないか。そうした判決は、身体の自己鎮静反応を知性と感情があとから道徳化することで生じる。だが、死の恐怖に投げ込まれた身体が自己鎮静へ向かったことは、人格の崩壊を示すものではない。身体は最後まで生の側に残ろうとした。

戦場の自慰は、性的快楽の問題に加えて、身体が自分を保とうとする問題でもある。性欲や快楽は、接触、緊張の解放、自己鎮静、生存確認、孤独、記憶と結びつく。戦場では性の機能が通常の文脈から切断され、恐怖の鎮静や生存確認として現れる。身体は、死に対して生の機能を差し出している。

兵士の恐怖、敵への憎しみ、仲間を失った悲しみ、自分への嫌悪も、感情センターが生存のために動いている姿である。敵を憎むから、危険を危険として記憶できる。自分を憎むから、自分が守れなかった価値を忘れずにいられる。感情は人間を苦しめるが、その苦しみの中に、生き残るための記憶と判断が含まれている。

戦場では、馬車メタファーが極端な形で現れる。車体である身体は震え、眠れず、緊張を解こうとする。馬である感情は恐怖と怒りで暴れる。御者である知性は任務、規律、罪、恥の言葉で出来事を処理する。主人の声が届かないとき、人格はそれらをまとめ、「自分は兵士として失格だ」という自己像を作る。

9. 自己保身と尊厳――『サイボーグ』

『サイボーグ』は、アルバート・ピュン監督による作品で、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが主演している。文明が荒廃し、法が遠ざかり、暴力と略奪が人間の生活を支配していく世界が描写されている。その世界では、人間が人間として扱われる前提が崩れている。

本稿は、この作品の荒廃した世界に接続するケースとして、強盗に襲われ、身体は自己保存へ向かい、人格はそれを自己保身として処理してしまった女性を置く。彼女は自分を生存者として受け取れない。自分は家族を売った。自分は人間として失格した。自分には守られる権利が残っていない。感情はそのように判決を下す。

このケースの核心は、身体の自己保存反応が、人格によって自己保身の物語へ変換され、人権喪失の証拠へすり替わる点にある。恐怖のなかで逃げたことは、身体の生存反応である。危険から離れる、固まる、相手に従う、声が出なくなる、自分だけ助かろうとする。これらは危機に対して身体と感情が起こす反応である。

彼女の感情には、家族を失った記憶、見捨てた自分への憎しみ、暴力への恐怖、守られなかった世界への怒りがある。敵を憎む感情も、自分を憎む感情も、生存本能と結びついた機能である。ただし、その感情が自分の人権まで剥奪し始めると、感情は警報の役割を越えて、自己処罰の装置になる。

彼女に必要なのは、自己保存反応、自己保身の物語、尊厳を分ける知性である。家族を救えなかったことは、強烈な罪悪感を生む。だが、その罪悪感を根拠に、自分の人権まで廃棄すると、感情は自分自身を加害者の側へ引き渡してしまう。知性は、逃げた身体と、憎む感情と、責任の所在と、今も残る尊厳を分け直すために使われる。

この場合にも人格の自動処理が働く。身体側のセンター群は逃走や硬直や服従を起こす。感情センターは恐怖、怒り、喪失、自己嫌悪を作る。知性センターは責任と尊厳を判断しようとする。人格はそれらを寄せ集め、「自分は家族を売った人間だ」という物語を作る。その物語が強くなるほど、身体の自己保存反応は、人格によって自分の人権を失う理由へ変えられてしまう。

10. 性の商品化と自己像――『ブギーナイツ』と『マグノリア』

『ブギーナイツ』は、原題を『Boogie Nights』という。1997年にアメリカで製作され、ポール・トーマス・アンダーソンが監督、脚本、共同製作を担当した。製作はロイド・レビン、ジョン・ライオンズ、ポール・トーマス・アンダーソン、ジョアン・セラーで、製作総指揮はローレンス・ゴードンである。マーク・ウォールバーグ、ジュリアン・ムーア、バート・レイノルズ、ドン・チードル、ジョン・C・ライリー、ウィリアム・H・メイシー、ヘザー・グラハム、フィリップ・シーモア・ホフマン、フィリップ・ベイカー・ホール、アルフレッド・モリーナが出演している。音楽はマイケル・ペン、撮影はロバート・エルスウィット、編集はディラン・ティチェナー、上映時間は155分である。日本では1998年10月10日にギャガ・コミュニケーションズ配給で公開された。

『マグノリア』は、原題を『Magnolia』という。1999年にアメリカで製作され、ポール・トーマス・アンダーソンが監督、脚本、共同製作を担当した。製作はジョアン・セラーとポール・トーマス・アンダーソンで、トム・クルーズ、ジュリアン・ムーア、ジェイソン・ロバーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ウィリアム・H・メイシー、ジョン・C・ライリー、フィリップ・ベイカー・ホール、メローラ・ウォルターズが出演している。音楽はジョン・ブライオン、撮影はロバート・エルスウィット、編集はディラン・ティチェナー、上映時間は189分である。サンフェルナンド・バレーを舞台に、さまざまな境遇の人々が繰り広げる24時間の人間模様を描く群像劇である。

この二作は、性をめぐる承認、裏切り、疑似家族、身体の商品化、自己像の形成と崩壊を扱う。『ブギーナイツ』は、1970年代末から80年代のアメリカのポルノ業界に生きる人々の葛藤を描く。17歳のエディ・アダムスは、ポルノ映画監督ジャック・ホーナーにスカウトされ、「ダーク・ディグラー」としてスターになるが、やがてドラッグに溺れて転落していく。

『ブギーナイツ』では、人物たちは性を売り、演じ、消費しながら、自分が何者であるかを作ろうとする。快楽の場に見えるものが、実際には自己像を支えるための仮設住宅になっている。身体は商品になる。感情は承認を求める。知性は産業の論理に巻き込まれる。性欲と快楽は身体の基本機能であるが、ポルノ産業の中では、その機能が商品、演技、名声、競争へ変換される。身体の反応は撮影され、評価され、消費される。感情は、その評価を自分の価値として受け取る。

『マグノリア』では、姦淫は快楽の一場面としてではなく、死者への罪悪感、家族を捨てた罪、愛する者のそばにいられなかった後悔として回帰する。アール・パートリッジの告白は、裏切りが過去の行為にとどまらず、「自分は愛する者を守れる人間ではなかった」という自己像の崩壊へ変わる場面である。

そこにあるのは、欲望の勝利より、取り返しのつかなさの感情である。身体は過去に欲望へ向かった。感情は時間を経て、失ったもの、裏切ったもの、守れなかったものへ戻る。知性は、自分の行為が他者に何を残したのかを理解する。姦淫の罪悪感は、身体の快楽だけでは説明できない。そこには、関係、記憶、責任、喪失が絡んでいる。

この二作に共通するのは、感情が自己像を作り、さらにその自己像を壊すところである。罪悪感があるから罪があるとは限らないが、罪悪感は守りたかった価値が傷ついたことを知らせる。『ブギーナイツ』の人物たちは、自分は欲望されるから価値がある、自分は撮られるから存在している、自分は成功しているから壊れていない、という感情の物語に支えられる。アールの苦しみは、身体の欲望を過去に持ったことより、愛する者を守れなかったという感情の炎にある。

だが、その物語は、産業、薬物、孤独、時代の変化、老い、死によって崩れていく。身体の快楽、感情の承認欲求、知性の自己理解が別々の方向へ裂けたとき、人は自分の輪郭を失う。人格は、過去の快楽、現在の後悔、失われた関係を一つの自己像へまとめる。そこで人は、自分のしたことを理解するだけでなく、自分自身を裏切りの存在として処理してしまう。

11. センターを分けて読む

以上のケース・スタディは、出来事の種類こそ違うが、同じ構造を持っている。身体が反応する。感情が傷つく。知性が遅れて意味を整理しようとする。その三つが一致しないとき、人は自分の反応をひとつの罪として抱え込んでしまう。

センターを分けて読むことは、自己観察の具体的なかたちでもある。身体側のセンター群、感情センター、知性センターを分けて見るとき、人は外部の出来事だけでなく、それに反応している自分の内部も観察し始める。これは、自己想起におけるアテンションの分割に近い。出来事を見るアテンションと、出来事に反応している自分を見るアテンションが同時に働く。

第一に、身体側のセンター群の反応を身体の領域へ戻す。恐怖で固まった。逃げた。快感に似た反応が起きた。興奮した。自慰で緊張を下げた。死を前にして性へ逃げた。これらは身体の出来事である。性欲は、生殖に結びつく身体機能であると同時に、快感、接触、緊張の解放、自己鎮静、生存確認、愛着、孤独、記憶、文化、権力関係とも結びつく。身体は、生存と反応の器官として動く。道徳的な判決は、身体反応そのものからは出てこない。

第二に、感情センターの反応を感情の領域へ戻す。恥ずかしい。悔しい。敵を憎む。自分を憎む。自分は不完全だ。自分は人間として欠けた。自分は許されない。これらは傷ついた感情の声である。感情は、好き嫌い、記憶、執着によって生存本能を支える。憎しみや自己嫌悪も、その発生においては警報として働く。

第三に、知性センターを識別の道具として見る。誰が同意を破ったのか。誰が他者を傷つけたのか。誰が責任を負うべきか。どの行為が尊厳を侵害したのか。どの身体反応が同意と混同されているのか。どの感情が自分を処罰しすぎているのか。そこを見分ける。知性は、身体、感情、責任の所在を分けるためにある。

この識別を難しくするものが、性センターのエネルギーが他センターへ流れ込むときに生じるノイズである。性センターの誤用について、グルジェフは非常に具体的に説明している。性の濫用という言葉は、通常、過剰や倒錯として理解されやすい。しかし『In Search of the Miraculous』では、グルジェフの説明は次のように記録されている。

「性の濫用の本当の意味は、性に関係したセンターの誤作動である。つまり、性センターが他のセンターを通じて働くこと、他のセンターが性センターを通じて働くこと、さらに正確に言えば、性センターが他のセンターから借りたエネルギーで働くこと、他のセンターが性センターから借りたエネルギーで働くことである。」

問題の中心は、センター間のエネルギーの混線にある。性センターの強いエネルギーが、知性センター、感情センター、動作センターへ流れ込むと、それぞれのセンターの働きは過剰に熱く、激しく、目的から外れたものになる。ウスペンスキーの記録では、グルジェフはさらに次のように説明している。

「知性センター、感情センター、動作センターが性センターのエネルギーで働くとき、そこには常に一つの共通した特徴がある。それは、ある特有の味、特有の熱気、対象が要求していない激しさである。そして、それとともに、その仕事の無益さがある。」

この引用で押さえるべき点は、性センターの誤用の徴候が、対象にふさわしくない熱気、激しさ、無益さとして現れることである。知性センターが性センターのエネルギーを借りると、反省は明晰な識別から離れ、過剰な断罪、議論、理論化へ傾きやすい。感情センターがそのエネルギーを借りると、罪、恐怖、禁欲、純潔、地獄といった語が、不必要な熱狂を帯びる。身体側のセンター群がそのエネルギーを借りると、緊張、競争、動作、闘争が対象にふさわしくない激しさを帯びる。

筆者は、この不必要な熱狂を、他のnote記事で「ノイズ」と表現してきた現象と関係するものとして考えている。ノイズとは、対象に必要な強度を超えて混入する熱、圧、興奮、断罪の響きである。性的な罪悪感の場面では、このノイズが、身体反応そのものよりも強く人を苦しめる場合がある。センターを分けて読むとは、身体、感情、知性の反応を分けるだけでなく、このノイズを見分けることでもある。

この三分法は、責任の所在を明確にするためにある。知性が理解していないところで身体が反応することがある。事情を整理していても、感情が罪悪感を作ることがある。身体が硬直し、逃走し、緊張を解き、自己鎮静へ向かったあとで、感情が「なぜあのように反応したのか」と自分を責めることがある。恐怖や孤独や不条理のなかで身体が快感や鎮静を求め、その反応を根拠に、感情が「自分は不完全だ」「自分は許されない」と判決を下すことがある。しかし、身体反応、感情反応、知的判断は別の階層にある。

感情は、記憶を持った警報として働く。罪悪感があるから罪があるのではない。羞恥があるから汚れているのではない。自己嫌悪があるから悪人なのではない。感情は、守りたかった価値が傷ついたときにも発火する。

身体が快感や鎮静を求めたとしても、それだけで人間全体の判決は成立しない。身体が硬直し、逃走し、緊張を解こうとしたとしても、それだけで人格全体の罪は成立しない。感情が罪悪感を作ったとしても、知性が見分けるべき責任の所在とは別の階層にある。

センターを分けて読むことは、人格の自動処理から本質を救い出す作業でもある。人格は、身体の反応、感情の傷、知性の判決をまとめて「自分の罪」として処理しやすい。本質の深層には、愛や良心へ進化するポテンシャルが眠っている。身体側のセンター群、感情センター、知性センターを分けて見ることで、その成長可能性を取り戻すことができる。

馬車メタファーで言えば、身体は車体であり、感情は馬であり、知性は御者である。主人が現れ、御者が主人の声を聞き、馬を扱い、馬車を整えるまでは、車体、馬、御者は一つの目的へ統合されない。センターを分けて読むことは、どの機能がいま≪私≫を名乗っているのかを見分ける作業でもある。

性的な出来事のあとで必要なのは、身体の欲望、心の好き嫌い、頭の戒律的判断を、それぞれ観察対象として見ることである。そのとき、複数の≪私≫の入れ替わりが見え始める。身体は欲望している。心は嫌悪している。頭は裁いている。こうして見るとき、身体、心、頭の矛盾は、ただちに自己処罰へ変換されず、観察の対象として保たれる。

本稿は、身体、感情、知性を混同しないための基本的な整理を示し、作品と人間経験を貫いて自己処罰の構造を見分ける。

12. ケース・スタディの考察結果

  • ピンチョン『重力の虹』では、性的行動が社会、戦争、技術、資本、統計、管理と接続される。身体の猥雑さは、世界の不条理を読む入口になる。

  • ベスターとオールディスの仮説的ケースでは、作中の罪悪感描写ではなく、読者が極限状況の性交や自慰にショックを受け、機械的に罪悪感を連想する構造が見える。

  • 『サイボーグ』に接続したケースでは、身体の自己保存反応が、人格によって自己保身の物語へ変換され、尊厳喪失の証拠として誤読される構造が見える。

  • 『ブギーナイツ』と『マグノリア』では、性が商品化、承認欲求、裏切り、疑似家族、自己像の形成と崩壊に結びつく。

  • 主人のいない馬車は、脊髄反射的なプログラムを自動実行する機械的人間を表している。

  • 人間第1番、第2番、第3番は、身体側のセンター群、感情センター、知性センターのいずれかに重心を奪われている機械的人間である。

  • 人間第4番は、自己観察と自己想起によって、自分の機械性を見始め、センターの均衡を始める中間段階である。

  • 人間第5番以上は、複数の≪私≫の入れ替わりから離れ、統一、意識、意志、個体性へ向かう段階である。

  • 自己観察と自己想起は、外部の対象を見るアテンションと、それに反応する自分を見るアテンションを同時に働かせる。

  • 身体の欲望、心の好き嫌い、頭の戒律的判断は、互いに矛盾しながら同時に観察される対象である。

  • 義認、聖化、栄化は、本稿の読みでは、分裂した機械的人間が統一へ向かう神学的プロセスと相関する。

  • 性的な罪悪感は、身体反応そのものから直接出るというより、身体、感情、知性の混線を人格が自己処罰の物語へ変換するときに強まる。

  • ケースとして扱う人物たちは自己処罰としての罪悪感を感じる必要はまったくない。

  • 肉体が性的欲望や快楽中枢を働かせること自体に罪の要素はない。

  • トラウマ的な人格と矯正人格の衝突が、自己処罰としての罪悪感を増幅する。

  • センターを分けて読むことは、身体、感情、知性をそれぞれの場所へ戻し、責任の所在を明確にするための読み方である。

  • 本質に眠る愛や良心のポテンシャルは、人格の自動処理をほどき、身体、感情、知性の摩擦を観察するところから成長し始める。

  • 登場人物が感じる罪悪感や葛藤は、二次災害的に他者へ危害を加える挙動がない限り、自己処罰の根拠ではなく観察対象である。

13. 本稿の到達点

本稿の到達点は、身体反応と感情反応を罪悪へ直結させないことにある。身体は反応し、感情は傷つき、知性は意味を探す。各センターが別々に動くことは、人間が複数のセンターを持つ存在であることの表れであり、罪の証明ではない。他者への危害や責任の所在は、知性によって別途見分ける必要がある。

もし私たちに罪があるとするならば、それは過去のトラウマや機械的反応の連鎖そのものよりも、その連鎖から目を背け、恩寵を受け取らない姿勢にあるのかもしれない。罪悪感を罪悪感で裁いても、牢獄からは出られない。

筆者は、聖書とグルジェフのアイデアのあいだに、いくつかの相関を見ている。原罪の状態は、人間が機械的反応に支配され、眠りの中にあり、牢獄にいて、複数の≪私≫に分裂している状態に相当するものとして読める。この状態では、人間の自動反応は神とのつながりを見失い、神を愛する力を自分の内側から回復することができない。聖書に現れる盲人、手足の萎えた者、病人、死者という表象も、人間が自分の力で十分に見られず、歩けず、癒えず、生きられない状態に対応するものとして読める。その意味で、「目覚めよ」という聖書の呼びかけは、グルジェフが語る眠りからの目覚めというアイデアと相関する。

神の恩寵を受け取ることは、牢獄からの脱出を自分の力だけで成し遂げることではなく、すでに脱出の道を開いたイエス・キリストの助けを受け取ることに相当するものとして読める。ガラテヤ人への手紙2章20節には、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とある。十字架は、古い自己が処理され、キリストの命が人間の内側で生きる状態への入口として読める。

ローマ人への手紙12章1節にある「生きた供え物」は、自分を破壊することではなく、キリストの命が自分の身体を通して現れることとして読める。さらにガラテヤ人への手紙3章27節には、「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは皆、キリストを身にまとったのです」とある。福音を信じ、霊的幼子として新しく生まれ、そこから成長していく過程は、キリストを身にまとうという聖化の表象へつながる。

この流れは、グルジェフが語る高次の身体の形成、進化、眠りからの目覚めというアイデアと相関する。ただし、これは教義とワークを同一視する説明ではなく、筆者が本稿の主題を読むために見ている対応関係である。

本稿の論旨を整理すると、次のようになる。

  • 性的な罪悪感は、身体反応そのものから直接出るものではなく、身体、感情、知性の混線を人格が自己処罰の物語へ変換するときに強まる。

  • 身体側のセンター群は、生存、快感、緊張の解放、自己鎮静、生存確認のために働く。

  • 感情センターは、恐怖、羞恥、嫌悪、執着、自己嫌悪を通じて、傷ついた価値を記憶する。

  • 知性センターは、同意、責任、加害、被害、尊厳の所在を見分けるために働く。

  • 罪悪感や葛藤は、二次災害的に他者へ危害を加える挙動がない限り、自己処罰の根拠ではなく観察対象である。

  • 自己観察と自己想起は、複数の≪私≫の入れ替わりを見分け、主人の声が届く場所を回復する入口になる。

  • 聖書における原罪、目覚め、恩寵、十字架、キリストを身にまとうことは、本稿の読みでは、グルジェフの機械的人間、眠り、牢獄からの脱出、進化、高次の身体というアイデアへそれぞれ対応する。

  • もし私たちに罪があるとするならば、それは過去のトラウマや機械的反応の連鎖そのものよりも、その連鎖から目を背け、恩寵を受け取らない姿勢にある。

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