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神はいるし、神は愛である(1.1万文字)

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神はいるし、神は愛である

v5.8

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 自転車と人体

本稿は、これまで筆者が神への信仰について他のnote記事で取り上げてきた内容を振り返り、できるだけ簡潔にまとめ直す試みである。

これまで別々の記事で扱ってきた論点を、本稿では一本の流れとして読み直す。過去の記事と重なる内容も含まれるが、それらを筆者の信仰全体を整理するための再構成として置き直したい。

無人島に自転車が一台落ちていたら、多くの人は作者を考える。タイヤ、チェーン、ペダル、ハンドル、ブレーキがあり、それぞれの部品が一つの目的に向かって働いているからである。部品が役割を持ち、全体として動くものを見ると、人間は自然に設計者を思い浮かべる。

同じ目で人体を見ると、心臓は休まず動き、肺は呼吸し、血液は酸素や栄養を運び、胃腸は食べ物を消化し、免疫は外敵を見分け、細胞は分裂し、ミトコンドリアはエネルギーを作っている。人体は、自転車よりもはるかに精密な構造を持つ。部品という言葉では足りないほど、細かな働きが重なっている。

宇宙にも同じ精密さがある。重力があり、光があり、原子があり、恒星があり、惑星があり、地球があり、水があり、生命が現れる条件がある。昔の人は、石や木や虫や山や海を、昔からそこにある自然物として見てきた。自転車や時計や家は人間が作ったものとして見えやすく、石や木や虫は作者を考えなくてもよいものとして受け取られてきた。

筆者は、その古い感覚が、現在の常識にも影響していると考える。石は粗い自然物であり、自転車は精密な人工物である。そういう見方は、人間の目に見える大きさだけで世界を見ていた時代には分かりやすかった。けれど、現代の知識を踏まえると、石ころでさえ原子や分子や素粒子から成っている。石の内側には、人間の手で作られた自転車よりもはるかに深い階層構造がある。

それでもなお、自転車には作者がいるが、石や生命や宇宙には設計者を考えなくてよい、とする感覚には、筆者は疑問を持っている。その常識の中には、目に見える大きさだけで世界を判断していた時代の感覚が残っているように見える。筆者は、人間の道具に作者を認める理性があるなら、宇宙や生命や人体の精密さにも創造主を考えるほうが自然だと見る。そして、その創造主こそ神であると信じている。

ここで、本稿の範囲を明確にしておきたい。本稿には、筆者にとって重要な論点でありながら、別稿に委ねる三つの問いがある。

第一に、神がいるなら、なぜ若くして亡くなる人や、先天性の障害が存在するのか、という問いである。いわゆる理不尽な死や、本人の選択によらない身体的条件の問題は、苦しみ、死、身体、魂、神の愛をめぐる重い主題であり、本稿の排泄アナロジーや霊的エントロピーだけで扱い切るべきものではない。したがって、この論点は別稿で扱う。

第二に、神に人格があるのか、という問いである。この議論には、まず人格とは何かという定義が必要になる。感情、意志、記憶、関係性、応答可能性、身体性、言語、時間性をどのように整理するかによって、神の人格をめぐる議論の形は大きく変わる。したがって、この論点も別稿で扱う。

第三に、本稿で「信仰はスキル」と述べたことの神学的位置づけである。筆者は、信仰の実態が人間の自力による技術ではなく、神の恩寵であると確信している。本稿では、その恩寵が人間の内側で受け取られ、育ち、生活を変えていく面を現代的に説明するために、あえて「信仰はスキル」という言葉を用いた。この点も、本来は恩寵論として別稿で扱うべき主題である。

関連する別稿として、以下を置いておく。

理不尽な死
https://note.com/kuwaikei/n/n723db757e8d4

人格神と本質神について
https://note.com/kuwaikei/n/nb17eabba3e79
https://note.com/kuwaikei/n/nb10e1d3c51d4

信じるスキルと本質神について
https://note.com/kuwaikei/n/n29a7d339b92d

2. 世界の始まり

人間は原因を求める。雨が降る理由を調べ、病気の原因を探し、機械が壊れた理由を確認し、社会が乱れる背景を考える。科学も哲学も、目の前の現象に原因や仕組みを求める営みとして発展してきた。

筆者が強く引っかかるのは、世界創造と生命誕生という二つの地点である。宇宙そのものはなぜ存在するのか。生命はなぜ、生命を持たない物質から立ち上がったのか。この二つは、人間にとって最大級の問いである。だから筆者は、この二つの地点にも明確な原因があるはずだという立場をとる。雨にも病にも機械の故障にも社会の乱れにも原因を求める理性は、世界の始まりと生命の始まりにも原因を求めてよい。筆者は、その根本原因を創造主としての神と呼ぶ。

さらに、生命誕生をめぐる語り方にも強い違和感がある。生命の発生は奇跡的な確率だった、と言われることがある。森羅万象の一つとして、ある現象の成立がきわめて珍しいという意味でそう呼ぶなら、その表現は分かる。けれど、森羅万象には原因を見ておきながら、世界の始まりと生命の始まりだけを例外扱いし、そのうえ生命誕生についてだけ奇跡的確率だったと語るなら、そこには一つの偏りがあるように思える。

奇跡的という言葉を使うなら、筆者には、それを単なる偶然ではなく、奇跡として受け止めるほうが自然に思える。偶然という言葉で神を遠ざけながら、実際には「奇跡的」という語に頼って生命の始まりを語るのであれば、筆者にとっては、そこに神の創造を認めるほうが自然である。

また、世界の条件の整い方をめぐっては、マルチバースによる説明が持ち出されることもある。無数の世界があるなら、この世界がたまたま生命に適した条件を持っていても不思議ではなく、他の世界はこの世界とはまったく異なる条件を持っているかもしれない、という考え方である。

しかし筆者が求めているのは、この世界だけを切り取った説明ではない。仮にマルチバースがあるとしても、無数の世界を生み出す構造そのものはなぜ存在するのか、その世界群はどのような秩序によって成り立っているのか、という問いが残る。

したがって、「他の世界はこの世界と違う条件かもしれない」という推測だけで創造主のアブダクションを不要とするのは、筆者には問いを途中で止めているように見える。創造主を想定するなら、他の世界もまた、それぞれの世界に応じた秩序を持つものとして読むことができる。

聖書は、世界の始まりを神の創造として語る。創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とある。新約聖書のヨハネによる福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とある。

筆者は、この「言」を、世界の根にある意味、秩序、情報、コードとして読む。世界の初めに根本のコードが置かれ、そのコードが素粒子、原子、星、惑星、生命、人間へと展開した。神は、世界の根に意味と秩序を置いた方である。

3. 神は愛である

筆者の信仰は、神がいるという確信だけで終わらない。神は愛である、というところまで進む。

ヨハネの第一の手紙4章8節には、「神は愛だからです」とある。この言葉は、筆者の考えの中心にある。世界は生命を生み、人間を生み、愛を求める心を生んでいる。人体は生きるために整えられ、傷つけば治ろうとし、疲れれば眠り、栄養を受け取れば力を回復する。世界の構造には、生かそうとする方向がある。

筆者は、ファインチューニングそのものを愛のしるしとして見る。世界は、人間に対して「生きてよい」と語っている。人体は、人間に対して「回復してよい」と語っている。生命は、人間に対して「次へ渡してよい」と語っている。

神の愛は、生命を生み、秩序を与え、壊れたものを回復へ向かわせる力である。筆者は、世界と人体の設計に、その愛の形を見る。

ここまでをまとめるなら、筆者の信仰は二つの柱に支えられている。第一に、世界と生命の初めには明確な原因があり、筆者はその根本原因を創造主としての神と呼ぶ。第二に、生命と宇宙の条件が絶妙に整えられていること自体が、その創造主が愛の神であることの証しである。

4. 循環する世界

神が愛なら、なぜ世の中に不幸があるのか。この問いは、信仰を考えるうえで避けられない。

筆者は、この世界を循環する構造として見る。地球は回り、季節は巡り、人間は呼吸し、食べ、消化し、排泄し、眠り、目覚める。身体の細胞は入れ替わり、傷は修復され、古いものは分解され、新しいものが作られる。生命は生まれ、成長し、老い、死に、次の生命へつながっていく。

生命は、取り込み、変換し、成長し、排泄し、次へ渡す働きである。食べ物は身体の内側で栄養に変わり、不要なものは外へ出される。植物は光を受けて育ち、種を残す。動物は食べ、動き、繁殖し、死んで他の生命の材料になる。

この世界には劣化の方向と生成の方向が同時にある。部屋は放っておくと散らかり、身体は疲れ、物は傷み、制度は古びる。この劣化の方向を、筆者は比喩的にエントロピーとして読む。一方で世界には、受胎、細胞分裂、成長、回復、継承がある。この生成の力を、比喩的にネゲントロピー的な働きとして見る。

神の愛は、劣化を含む有限世界の中に、生成と回復の道を置いた。有限世界は、壊れながら、作り直されながら、生き続ける。

そして、それらの不幸の多くは、人間の感情的な発現や、その衝突から生じているのではないか。怒り、恨み、恐れ、悲しみが処理されないまま外へ出る時、人間関係や共同体は傷ついていく。筆者は、そこに悪の置き場所という問題を見る。

5. 悪の置き場所

憎しみ、恨み、怒り、悪を考える時、筆者は排泄のたとえを使う。

たとえば、神がいるなら、なぜ神は排泄物を作ったのか、と問う人は少ない。人間には、食べ、消化し、吸収し、成長し、排泄するという一連のプロセスがある。その流れは、日々の身体経験によって確かめられ、直観的にも納得しやすい。排泄物は汚いが、排泄そのものは生命維持に必要な働きである。問題は、排泄物が食卓に置かれることである。

筆者は、この構造を人間の精神にも当てはめて考えている。人は出来事を経験し、言葉を聞き、他人の態度を受け取り、愛情や侮辱や失敗や喪失を印象として取り込む。その印象は、心の内側で消化され、意味づけられ、学びや祈りや反省や忍耐に変わることもある。けれど、消化されなかったものは、怒り、憤り、嫉妬、恨み、絶望として残る。

怒りや悲しみや恨みは、生きている人間の内側に生じる未処理の感情であり、筆者はそれを精神的な排泄物として読む。人間は傷つき、失い、屈辱を受け、恐れ、怒る。悪は、それらが処理されず、置かれるべき場所を失い、人を傷つける場に持ち込まれる時に現れる。

未処理の怒りを家庭に持ち込めば、家庭が汚れる。未処理の恨みを職場や学校へ持ち込めば、共同体が腐る。未処理の恐れを社会や政治に持ち込めば、排除や暴力が生まれる。家庭内暴力、いじめ、パワハラ、宗教対立、政治的憎悪は、精神的排泄物が処理されず、公共の食卓に持ち込まれた状態として読める。

ここで問題になるのは、人間が最初から精神的な消化器官を完成させているわけではないという点である。肉体の器官が成長とともに発達していくように、人間の精神にも、印象を取り込み、消化し、吸収し、不要なものを排泄するための構造があり、それは魂の成長とともに整っていくのではないか。筆者は、この見立てを一つのアブダクション、つまり最もよく説明できる仮説として考えている。

幼い子どもは、怒りや悲しみや不安をうまく消化できない。泣く。叫ぶ。物に当たる。思ったことをそのまま口から吐き出す。人前で感情を撒き散らす。これは、精神的な消化器官、つまり精神の内臓がまだ成長の途中にある姿として理解できる。身体が未熟な子どもに大人と同じ消化能力を求めないように、魂が未熟な段階では、怒りや悲しみや絶望を消化吸収し、適切に排泄する力もまだ十分ではない。

問題は、大人になっても精神の消化器官が育たない場合である。年齢だけは重ねても、怒りを怒鳴り声として吐き出し、恨みを陰口として撒き散らし、不安を支配欲として他人に押しつけ、絶望を暴力や冷笑に変える人はいる。これは精神的な排泄物を処理できず、食卓や寝室や職場や社会に持ち込んでいる状態である。

信仰、祈り、悔い改め、赦し、修行、対話、沈黙、生活の整えは、精神的な消化器官を育てるための実践でもある。怒りは処理されれば境界線を知らせる力になる。悲しみは消化されれば他人の痛みを理解する感受性になる。絶望は神の前に差し出されれば祈りの入口になる。けれど、それらが未消化のまま撒き散らされると、家庭、学校、職場、政治、宗教共同体を汚していく。

神は、人間が精神的排泄物を処理し、変換し、肥やしに戻す道を備えた。魂の成長とは、その処理能力が育っていく過程でもある。

6. 劣化する思想

筆者は、サタンを霊的なエントロピーとして読む。サタンは、神が作ったものに寄生し、それを劣化させる力である。生きた言葉を標語へ変える。信仰を所属競争へ変える。愛を支配へ変える。正義を処刑の快感へ変える。秩序を官僚主義へ変える。知恵をテンプレートへ変える。

この見立ては、サタンに人格があるという伝統的な理解も含みうる。サタンが霊的なエントロピーとして働くというアブダクションは、サタンが人格を持って働くという考えと両立する。筆者は、サタンの邪悪さをむしろ大きく見ている。精神的な劣化そのものが、人格あるサタンの働きに匹敵するほど恐ろしい邪悪さとして現れる場合がある。

そもそも、怒りや悲しみや憤りは人格の内側にある要素である。それらは人間の人格の内側で生じ、人間の言葉、表情、態度、選択を通して外へ出ていく。だから、それらを消化し、適切に処理する力を妨げる働きも、単なる自然現象ではなく、人格的な悪の働きとして理解できる余地がある。怒りを怒りのまま固定し、悲しみを恨みに変え、憤りを暴力へ押し流し、悔い改めや赦しや対話へ向かう回路を塞ぐ力があるなら、その働きを人格的な悪として読むことには十分な理由がある。

ハンナ・アーレントは、悪が特別な怪物の顔ではなく、考えることをやめた普通の人間の中に現れる局面を考えた。人間が考えることをやめ、命令や手続きや空気に従い、自分の責任を見失う時、悪は日常的な顔で進行する。ボンヘッファーの思想にも、愚かさや精神的劣化が、権力や群衆の力によって人間の判断力を奪うという危険が見られる。これらを霊的エントロピーとして読むなら、その邪悪さは、人格を持つ悪魔のイメージに匹敵するほど深刻であることを認める人は多いだろう。

この見立ては、歴史にも広げられる。帝国が滅びるのは、偉大な理念が官僚主義や保身や形式主義へ劣化するからである。偉大な思想がテロリズムへ変わる時には、生成力のある言葉が、現世利益や支配のための搾取装置へ変えられている場合がある。人類は、栄枯盛衰や盛者必衰という言葉で、この傾向を昔から知っていた。

だから筆者は、悪が世界を陰から長期的に支配しているという陰謀論には批判的である。陰謀は存在する。人間は企み、隠し、結託し、他人を利用する。けれど、その働きは世界を維持する高度な智慧としてではなく、意識の劣化した滅び去る者の働きとして存在しているように見える。

陰謀論という粗い構造に依存し、それによって何かを深く表現できていると感じる錯覚そのものも、筆者には劣化の一形態に見える。複雑な世界、複雑な苦しみ、複雑な責任を、少数の悪い支配者という粗い図式へ押し込むと、考える力は節約される。怒りの置き場所も見つかる。だが、その時点で、言葉は細部を失い、判断は粗くなり、精神は生成の側から劣化の側へ引き寄せられる。陰謀論は、世界を見抜く知性のように振る舞いながら、しばしば知性そのものを粗雑化する。

陰謀は一時的に人を動かし、制度を歪め、恐怖を広げることがある。だが、恐怖は信頼を食いつぶし、搾取は支え手を痩せさせ、嘘は言葉そのものを腐らせる。善と愛を持たない支配は、循環を維持できず、やがて自分自身の劣化によって崩れていく。

神と悪魔の戦いは、生成と劣化の戦いである。神の側には、生命を生み、秩序を立ち上げ、言葉に息を吹き込み、汚物を肥やしに変える力がある。悪魔の側には、生きた理念を型にし、型を制度にし、制度を手続きにし、手続きを自己保存に変える力がある。

7. 組織も劣化する

組織にも、劣化の力は働く。国家、企業、学校、行政、宗教共同体は、最初は何かを生むために作られる。国家なら安全や秩序、企業なら価値や商品、学校なら学び、行政なら生活の維持、宗教共同体なら信仰と祈りである。

時間がたつと、組織は自分自身を守ることを目的にし始める。理念は規則になり、規則は手続きになり、手続きは責任回避になり、責任回避は官僚主義になる。最初は人を生かすために作られた仕組みが、いつの間にか仕組みを守るための仕組みになる。

これは企業にも起きる。創業時の理念は、顧客に価値を届けるためにある。けれど成功すると、既存の商品、既存の部署、既存の評価、既存の権限を守る力が強くなる。新しい価値を生むより、今ある形を守ることが優先される。いわゆるイノベーションのジレンマも、筆者には、生成されたものが自己保存のテンプレートへ劣化する現象として見える。

よい組織論は、組織が劣化することを前提に、掃除し、循環させ、再生成する方法を考える必要がある。制度を作るだけでは足りない。制度が古びた時に、どのように汚れを見つけ、どのように捨て、どのようにもう一度生きた形へ戻すかが問われる。

8. 信仰という力

筆者は、神が人間に信仰という能力を与えたと考える。

信仰は、神の言葉と光を受け取る人間固有のスキルである。運動能力に素地と鍛錬があるように、信仰にも素地と鍛錬がある。祈り、学び、悔い改め、赦し、礼拝、生活の立て直しを通して、信仰は深まっていく。

筆者は、人間が生成の側へ戻るためには、単なる気分ではなく、深い確信が必要だと考える。言い換えれば、ネゲントロピーには確信が必要である。「ポジティブに考えよう」「ネガティブに落ち込むな」「気軽に考えればいい」という言葉は、スローガンとしては働く。けれど、失敗した人間を自己責任で追い込む空気の中では、それらの言葉はネゲントロピーとして十分に機能しない。落ち込んだ人間に向かって明るくなれと言っても、立ち上がるための土台が与えられなければ、言葉は表面を滑っていく。

ここで信仰が力になる。神はいる。神は愛である。神の愛を示す模範に倣うことで、人間は愛へ近づいていくことができる。筆者は、この確信がポジティブに生きる根拠になると考える。単なる気分の明るさではなく、存在の根に支えられた前向きさである。神の愛を基盤として受け取った人間は、失敗しても自分の存在価値までは失わない。つまずいても、戻る場所がある。恥をかいても、回復する道がある。

信仰は、絶大な平安を伴った基盤を人間に与える。その基盤に立つと、ちょっとやそっとの失敗では揺らがなくなる。失敗を自己否定に変えず、怒りや悲しみを精神的排泄物として処理し、もう一度生成の側へ戻ることができる。筆者は、この現実的な効果を軽く見るべきではないと考える。

筆者には、人間の魂が成長し、精神的な消化器官を整えていくために必要な概念を、神が聖なる言葉や信仰伝統を通じて、古代から人類に配信し続けているように見える。ここでは、その一例としてキリスト教と仏教を挙げておく。

キリスト教には、義認、聖化、栄化という説明がある。義認とは、罪を抱えた人間が信仰によって神に正しい者として受け入れられることである。聖化とは、神に受け入れられた人間が、地上の生涯を通して少しずつ清められ、キリストの姿へ造り変えられていくことである。栄化とは、最終的に罪と死を離れ、神の栄光にあずかる完成の状態である。

これに似た成長の型は、仏教の言葉でも読むことができる。たとえば、発心や始覚から、修行や転依を経て、本覚の顕現や即身成仏へ向かう道である。迷いの中にいる者が、自分の内側にある仏性に気づき、悟りを求める心を起こす。次に、煩悩や執着を見つめ、修行によって心の土台を転換していく。そして最後に、本来の仏の身体を具えるものとして目覚める。

筆者には、キリスト教でいうキリストの身体を身にまとうという表現も、仏教の三身という考え方と響き合うように見える。法身は宇宙の真理そのものとしての身体であり、報身は修行の実りとして輝く身体であり、応身は人々を救うために歴史の中へ現れる身体である。キリスト教の言葉でいえば、見えない神性、復活の栄光、歴史上のイエスという重層性と、ゆるやかに響き合うものとして読むことができる。

筆者が見ているのは、複数の伝統にまたがって現れる成長の型である。宗派や教義の差異は確かにある。けれど、人間が未熟な状態から出発し、信仰や修行を通じて内側を整え、最終的に神または仏の身体に近づいていくという大きな構造には、非常によく似た型がある。この型は偶然だけでは説明しにくいように見える。

人類は数千年にわたり、神、祈り、啓示、罪、赦し、愛、善、煩悩、慈悲、修行、悟り、死後の希望について考え続けてきた。神の言葉は読まれ、歌われ、祈られ、共同体を作り、人間を支えてきた。筆者は、この長い信仰の歴史を、人類史の巨大な作品として見る。

神の言葉は、世界各地に断片として分配されたとも考えられる。預言者、賢者、聖人、シャーマン、詩人、踊り手、祈る人たちが、それぞれの地域と時代に応じて、神の光を受け取ってきた。現代社会は、その断片が高い密度で集まり始めた時代である。だからこそ、集めるだけでなく、分け、噛み、消化し、見分ける力が求められている。

9. イエスという中心

キリスト教とイスラム教は、現代世界で最大級の信仰伝統である。聖書とクルアーンは、長い年月にわたり、読まれ、暗唱され、祈られ、生活を変えてきた神の言葉の媒体である。

この二つの巨大な伝統は、どちらもイエス・キリストを通過している。キリスト教は、イエスを神の言葉が受肉した方として告白する。イスラム教は、イエスを神の言葉と霊を帯びた偉大な使徒として保持する。語り方は違うが、どちらの伝統もイエスを消せない。

筆者は、イエス・キリストをワールドアトラクターとして見る。世界最大級の二つの信仰伝統が、異なる語り方をしながらもイエスの重力圏にいる。神の言葉と光が人類史に分配され、その中心の一つにイエスが立っていると見るほうが、筆者には自然である。

クルアーンがキリスト教の三位一体を批判していると語られる場面にも、慎重な審議が必要である。クルアーンの批判には、神を三つの神に分ける理解、イエスやマリヤを神々として並べる理解、神に物理的な子を持たせる理解への警戒が含まれている。正統的なキリスト教も、神を三つの神として数える理解を採らない。キリスト教とイスラム教は、イエスをめぐって深い差異を持ちながら、同じ中心の周りで異なる言葉を用いてきた可能性がある。

これは、キリスト教とイスラム教の違いを消すための読みではない。むしろ、違いを残したまま、粗い敵味方の図式をほどくための読みである。

宗教対立は、しばしば応援合戦のように扱われる。所属、旗、敵味方が先に立つと、信仰は神への信頼からチームへの忠誠へ劣化する。筆者は、そこにも霊的エントロピーを見る。

10. 固い食べ物

本稿で述べてきたことは、重い内容である。神の存在、世界と人体の条件の整い方、生命誕生、マルチバース、エントロピー、サタン、悪の排泄アナロジー、信仰、啓示、聖書、クルアーン、イエスを、一つの大きな見立てとして接続してきた。

聖書にも、霊的な成長段階に応じた食べ物の比喩がある。幼い者には乳が与えられ、成熟した者には固い食べ物が与えられる。神のみ旨から見れば、固い食べ物を霊的な幼子に無理に食べさせることは、成長を助けるどころか、むしろ正しい成長から遠ざける行為になりうる。筆者はその戒めを重く受け止めている。

その意味で、本稿は、その危うさを自覚したうえで書かれている。まだ柔らかい食べ物を必要としている読者に、固い象徴のかたまりを見せている可能性がある。だから本稿は、固い食べ物そのものとしてではなく、固い食べ物の予表、つまりその存在を前もって指し示すものとして提示するものである。

筆者が本稿で最も重要視しているのは、固い食べ物が存在するということ、その固い食べ物へ向かう成長段階が存在するのではないかという問いである。人は、最初から抽象的な象徴や宗教間の対応関係を消化できるわけではない。まずは例え話、神話、物語、儀礼、祈り、生活の型といった柔らかい食べ物を受け取る。そこから少しずつ、別々の伝統に共通する象徴、魂の成長段階、神の言葉の配信構造といった固い食べ物へ進んでいく。筆者には、その段階的な成長の道を、神が人類のために用意しているのではないかと思える。

したがって、本稿に含まれる各アブダクションを受け取りにくい読者は、その箇所を無理に受け取る必要はない。筆者にとって、それらは信仰の確信に近いものである。それでも本稿では、あえてアブダクションと呼ぶ。読者に信仰の結論を強制するためではなく、筆者の確信を一つの模型として置き、必要な人だけが噛めるようにするためである。

読者には、まず噛める部分だけを噛んでほしい。どこで納得し、どこで引っかかり、どの比喩に力を感じ、どの前提を受け取りにくいのかを、自分の中で分けてほしい。

筆者は、本稿を宗教間の対立や他者への攻撃を強めるために書いたのではない。キリスト教徒がイスラム教徒を否定するためでも、イスラム教徒がキリスト教徒を否定するためでも、無神論者を嘲笑するためでもない。筆者がしたいのは、神の言葉と光が世界と人類史にどう現れているのかを審議することである。

奥義とは、隠されているから尊いものではない。扱いを誤ると毒になるから、態度を整えた者にだけ開かれるものである。本稿を読む者には、即断より咀嚼を求めたい。同意より弁別を求めたい。

11. 筆者の信仰

筆者の信仰は、素朴に言えばこうである。

神はいる。世界、生命、人体の条件が精密に整えられており、筆者はそこに創造主の働きを見るからである。これは、筆者にとって可能性の検討ではなく、信仰の確信である。神は愛である。世界は生命を生み、回復させ、継承させる構造を持っているからである。

神は言葉であり、光である。世界の初めに置かれたコードは、粒子、星、惑星、生命、人間として展開した。人類史には、そのコードを受け取るための言葉と光が、各地に分配された。信仰は、その言葉と光を受信するために人間に与えられたスキルである。

そして、聖書とクルアーンという最大級の霊的エビデンスは、どちらもイエス・キリストを通過している。筆者はそこに、世界宗教史の大きな重力を見る。

神は存在する。神は愛である。神は人間に、恩寵として信仰というスキルを与えた。人間はそのスキルを用いて、世界を読み、身体を読み、歴史を読み、聖なる言葉を読み、自分の中の汚れを分別し、愛へ戻る道を選ぶことができる。私は、そのように信じている。

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