神にとっての神(1.3万文字)

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神にとっての神
v5.0
【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。
1. 問いの入口
筆者はクリスチャンである。洗礼を受けたのは2025年で、信仰生活としてはまだ始まったばかりである。受洗した後、少し物事を見る目が変わった。世界の出来事、他人の言葉、自分の中に起こる反応、聖書の読み方、そうしたものが以前と同じようでいて、どこか違う角度から見えるようになった。
そのような時期に、あるYouTube動画で「神が宇宙を創造したのなら、誰が神を創造したのか」という問いが取り上げられていた。この問いは、信仰者にとっても、信仰を持たない人にとっても、古くから繰り返されてきた素朴で強い問いである。世界に原因があるなら、その原因である神にも原因を問えるのではないか。そう考えることは自然であり、原因というものをどこまで一貫して考えるのかという問題に直結している。
聖書は冒頭で、「はじめに神は天と地とを創造された」と語る(創世記1章1節)。この一文は、聖書全体の入口に置かれている。世界が先にあり、神が後から説明として足されたのではなく、神が世界の根源として語られる。続いて創世記1章26節から27節では、神が人間を「神のかたち」として造ったことが語られる。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1章26節)、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1章27節)という言葉は、世界の原因としての神だけでなく、人間の本質を考えるうえでの大きな手がかりになる。
出エジプト記3章14節では、神はモーセに対して「わたしは、有って有る者」という趣旨の名を示す。神は一つの被造物として自分を説明するのではなく、存在そのものの根源として語られる。詩編90篇2節では、「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる」という趣旨が歌われる。神は世界の中で時間的に生まれたものではなく、世界と時間を超えて根源として立つ。
新約に入ると、ヨハネによる福音書1章1節から3節は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という趣旨を語り、さらに「すべてのものは、これによってできた」と続ける。コロサイ人への手紙1章16節から17節では、御子について「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、すべて御子にあって造られた」という趣旨が語られ、「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」とされる。ヨハネの黙示録22章13節では、「わたしはアルパでありオメガである。最初の者であり最後の者である。初めであり終りである」という終末的な自己啓示が置かれる。
これらの聖句は、神を世界の内側にある一つの存在としてではなく、世界を成立させる根源として語っている。創世記から黙示録まで、聖書は神を世界の原因、根源、完成の方向として描いている。だからこそ、「その神は誰によって造られたのか」という問いは、聖書的な神理解と正面から関わる。本稿では、この問いを、神を原因の例外に置かず、原因の問いをどこまで歩かせられるのかを考えるための問いとして扱う。
2. 神の原因
「神が世界を創ったのなら、誰が神を創ったのか」という問いに対して、よくある回答はこうである。神は無始であり、時間の外にあり、原因を必要としない。宇宙には始まりがあるため原因が必要だが、神には始まりがないため原因を問う対象にならない。つまり、「すべてに原因がある」のではなく、「始まりを持つものには原因がある」と規則を絞ることで、神を原因の連鎖の外に置くのである。
この答えは、形式としては整って見える。原因という言葉を無制限に使うと、神にも原因を問わなければならない。そこで、始まりを持つものだけを原因の対象にする。すると、宇宙には原因があり、神には原因を求めない、という形が成立する。けれど筆者には、そこに基準のずれが残っているように見える。宇宙には原因を求めるのに、神には原因を求めない。その差を説明するために「始まりを持つもの」という条件が置かれているように見えるのである。
神を無始、無原因、時間外、自存として置けば、神の原因を問う道は閉じられる。矛盾を避けるための処理としては分かる。けれど、問いそのものを進める思考としては、そこで停止する。筆者は、この問いを停止させる必要を感じない。
神が世界を創ったのなら、神を創った存在は何か。答えは、その神にとっての神である。世界にとって神が創造者であるように、その神にも、その神を成立させる上位の原因があるなら、それはその神にとっての神である。この答えは、神を認めたうえで、神を原因の例外に置かない。世界には神がいる。その神はこの世界の原因である。その神にも原因があるなら、それはその神にとっての神である。問いをそこで止めず、原因の関係を階層的に考えるところに、本稿の出発点がある。
3. 《孤立系》の階層
この発想の土台には、《孤立系》という見方がある。ただし、本稿でいう《孤立系》とは、熱力学上の厳密な孤立系だけを指す語ではない。厳密な孤立系は、外部と物質もエネルギーも交換しない理想化された系を指す。一方で、本稿が問題にしているのは、境界を持ち、内部条件と外部条件を区別できる階層的な世界単位である。
この発想の重要なモデルの一つは、ウスペンスキーが『奇蹟を求めて』で記録したグルジェフのコスモス論にある。そこでは、知識はコスモスの教えから始まるとされ、世界は単純なマクロコスモスとミクロコスモスの二分法ではなく、絶対から原子に至る七つのコスモスとして語られる。すなわち、絶対としてのプロトコスモス、全世界としてのアヨコスモス、星界としてのマクロコスモス、太陽系としてのデウテロコスモス、惑星界または地球としてのメソコスモス、人間としてのトリトコスモス、原子としてのミクロコスモスである。
したがって、本稿の《孤立系》は、何でも好きに切り取った任意の比喩ではない。上位と下位に挟まれ、固有の内部条件を持ち、外部条件によって成立する階層的コスモスである。窓を閉じた電車内、地球の大気圏、コップ一杯の水、人間の身体と意識は、熱力学上の厳密な孤立系ではない。けれど、それらは境界を持ち、内部条件と外部条件を区別できる閉鎖系に準ずる系として扱うことができる。本稿では、この意味で、厳密な孤立系に加え、閉鎖系に準ずる階層的な考察単位を、便宜上《孤立系》と呼ぶ。
たとえば窓を閉じた電車内は、外気との直接的な物質交換を遮断した閉鎖系に近い環境として扱える。そこでボールを投げると、外気にさらされた場合とは異なり、車内の空気と同じ内部条件の中で現象が起こる。地球の大気圏も、外部から太陽放射を受け、宇宙へ熱を逃がしながら、重力によってまとまりを持つ一つの系として成立している。コップ一杯の水も、熱や蒸発を通じて外部と関わりながら、容器によって境界づけられた考察単位になる。
ただし、この《孤立系》は、マクロ方向にもミクロ方向にも無限に続くものとしては考えない。グルジェフのコスモス論では、コスモスは絶対からミクロコスモスまでの階層として示される。ウスペンスキーが記録するグルジェフの体系では、「創造の光」と呼ばれる秩序の中で、絶対から下位世界へ向かう階層が語られ、各コスモスはその中で位置を持つ。つまり、本稿のフラクタルは、無限に拡散する無制限の入れ子ではなく、絶対から無へ向かう系の限界を持った自己相似である。
《孤立系》には境界がある。境界があるなら、その境界を成立させる条件がある。内部から見れば、その条件は外部条件である。宗教的な言葉を使えば、その《孤立系》にとっての神である。物理的な言葉を使えば、初期条件、境界条件、生成条件、法則体系、上位環境である。
人間も《孤立系》である。隣の人と同じ電車に乗っていても、同じ宇宙にいても、同じ経験を共有しているわけではない。隣の人の痛みを直接感じることはできない。隣の人の記憶をそのまま読むこともできない。各人はそれぞれ別のバースのように、内側を持っている。
しかも、人間一人がその人として成立するには、膨大な条件が重なっている。宇宙の物理定数、地球環境、生命進化、親の出会い、受精、遺伝子、胎内環境、生育環境、言語、記憶、身体、社会、その日の体調、その瞬間の注意。それらが重なって、ある一人が成立する。この意味で、人間もまたファインチューニングされた《孤立系》である。宇宙だけが特別にファインチューニングされているわけではない。《孤立系》が成立するときには、その《孤立系》を成立させる条件の調整がある。
宇宙の開始点だけを偶発と呼び、原因を問う意味がないとする態度には、強い違和感がある。偶発とは、ある階層の内部から見たときに原因が見えない状態の名前である。上位階層から見れば、そこには別の条件があるかもしれない。
4. 無限と有限
無限は、この世界の外にある。だから原因を問うても仕方がない。現代的な説明は、しばしばこの形で話を止める。神は時間の外にいる。ビッグバン以前に時間はない。原因という問いはその領域に届かない。そう言われる。
筆者の言い方は違う。神はいる。神がこの世界の原因である。神は無限である。これで、この世界の原因として神を置くことは成立する。では、その神はいったい誰が作ったのか。その答えは、その神にとっての神である。けれど、その高次の話は、我々の《孤立系》に直接関係しない。我々の世界を説明するうえで必要なのは、この世界を統括する神、あるいはこの世界を成り立たせる法則体系までである。その神の上位原因は、神自身の階層の問題であり、我々の世界の説明範囲を超えている。だから、問うても仕方がない。
この「問うても仕方がない」は、問いが間違っているという意味で使っていない。答えはある。神を作ったのは、その神にとっての神である。ただ、その答えは我々の《孤立系》の説明には直接必要ない。だから実用上、そこで切る。これがフラクタルである。世界にとっての神がいる。神にとっての神がいる。その神にとっての神がいる。同じ関係が階層を変えて反復する。有限な世界から見た無限は神であり、その神も上位階層から見れば、さらに別の無限に向かう有限的な位置を持つ。
無限、段階的無限、有限は、切り離された概念ではない。有限な《孤立系》には、その外部条件として無限が立ち上がる。その無限も、上位階層では別の《孤立系》の一部となり、さらに上位の無限に接続する。この自己相似が、神にとっての神という答えを支えている。
5. 多神教の再定義
この考えは、「神を作った存在がいるなら多神教になるのか」という問いにも答える。我々の《孤立系》にとって、神は一者である。あるいは、我々の世界を統括している法則体系は一つである。この世界は、一つの整合した法則体系のもとで動いている。重力、電磁気、生命、意識、言語、社会は、それぞれ異なる現象として見えるが、同じ世界の中で成立している。その意味で、宗教学上の分類としてではなく、本稿の定義において、我々の《孤立系》は構造的《一神教》である。
神に同格の隣人がいる可能性は排除されない。その隣人は、我々の神ではなく、別の《孤立系》にとっての一者である。我々の世界を統括していない存在は、我々にとっての神として働かない。神の隣人は、我々の《孤立系》の神々ではなく、別の《孤立系》の一者である。
さらに、それらの隣人を含む上位の《孤立系》があるなら、その上位《孤立系》にも一つの統括原理がある。それが、神にとっての神である。この見方からすれば、本稿が問題にしている構造的多神教とは、一つの《孤立系》を同格の複数の最終根源が統括している状態でなければならない。しかし、そのような状態を考えようとすると、それら複数の根源を含む上位の秩序が必要になる。上位の秩序があるなら、そこにはまた一つの統括原理が立ち上がる。
だから、神の数を数えるだけでは、本稿が問題にしている構造は見えにくい。通常の多神教/一神教という分類だけでは、神格の数と根源の数が混ざってしまうからである。本稿で見るべきなのは、その《孤立系》を統括している根源が一つかどうかである。その意味で、一つの統括原理を持つ系を、筆者は構造的《一神教》と呼ぶ。
6. 神々と天使
ヒンドゥー教は、しばしば多神教と呼ばれる。神々は多い。ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマー、女神たちがいる。ただし、ヒンドゥー教内部には多様な思想潮流があり、その一つである不二一元論を見ると、神々の背後にはブラフマンがある。ウパニシャッド以来のブラフマンは、最高存在、絶対実在、宇宙の霊的核心として語られてきた。第二のない根源としてのブラフマンが置かれるなら、少なくともこの読みにおいて、神々は最終根源として並立しているのではない。彼らは、根源の相であり、働きであり、権能である。本稿の構造的比喩で言えば、天使である。
この天使という語は、翼を持った西洋的なイメージを指していない。一なる根源と世界の間に立つ、機能分化した上位存在という意味である。神々は信仰対象になりうる。祈りの相手にもなりうる。けれど、最終原因そのものではない。根源から分化した権能者である。
古事記や日本神話でも、同じ構造を読むことはできる。神々は多い。けれど、それらは一つの神話的世界構造の中で現れ、系譜化され、役割を持つ。古事記は、神々の系譜と日本の神話的成立を語る文献であり、日本神話には、はじめに複数の神々が現れ、イザナギとイザナミが島々や神々を生む展開がある。つまり、神々が多数いても、それらが一つの神話的秩序の内部で関係づけられているなら、本稿の定義では、複数の最終根源が並立する構造的多神教としては扱いにくい。
本稿の定義を採用するなら、人類の宗教的想像力には、構造的《一神教》へ向かう傾きがあるように見える。ここでいう《一神教》は、宗教学上の分類としての一神教ではなく、一つの世界秩序の背後に一つの統括原理を読むという意味である。多神教と呼ばれてきた宗教形式にも、一つの世界秩序の内部で働く神々を、根源から分化した権能者として読む余地がある。神格の数が多いことは、ただちに最終根源が複数あることを意味しない。根源が一つであるかぎり、その体系は本稿の意味で《一神教》的に読める。
科学も、この意味では、構造的《一神教》的な運動に似ている。これは、科学者が人格神を信仰しているという意味ではない。科学は、この世界を統括する根源法則は一つであるはずだ、という前提を強く持っている。量子力学と相対性理論は、いまのところ別々の領域で成功している。けれど、多くの研究者は、それらが根本では一つの理論に接続するはずだと考えている。世界は一つの法則体系に支配されているはずだ。自然は二重帳簿で動いていないはずだ。複数の現象の背後には、より深い一つの統一原理があるはずだ。この信念は、本稿の語法では構造的《一神教》に近い。宗教がそれを神と呼び、科学がそれを統一理論と呼ぶ。呼び名は違っても、一つの根源を探す運動として読むことができる。
7. 本質神と位格
神の人格を語るとき、最初に必要なのは、人格という語の定義である。人格を人間臭い感情として考えると、話はすぐに壊れる。嫉妬に狂う神、浮気に怒る神、機嫌で世界を揺らす神、酒場の酔っぱらいのような神。そういうものは、神というより人間心理の投影である。
人格という語には、もともと仮面、相、他者に向かって現れる顔という含みがある。神が一なる根源であっても、世界や他者に対して、愛、善、慈悲、法、美、破壊、沈黙、秩序として現れるなら、それは相を持つということである。ただし、愛や善や慈悲やイデアは、仮面に宿るのではない。それらは神のエッセンスに宿る。仮面は、エッセンスが他者に向かって現れる形式である。愛の仮面があるから神が愛なのではなく、神のエッセンスに愛があるから、愛として現れる。善の仮面があるから善なのではなく、神のエッセンスに善があるから、善として現れる。
神の人格とは、低次の人間心理ではない。愛、善、慈悲、真、美、知性、秩序、イデアを宿すエッセンスが、他者に向かって相を通じて現れる関係能力である。この意味で、ブラフマンも本質神である。人間的な個別人格という形で語る必要はない。けれど、愛も善も慈悲も知性も秩序も持たない無表情な根源として語るなら、それはこの世界に現れているものをあまりに低く見ている。この世界には愛がある。善への志向がある。慈悲がある。美がある。知性がある。身体がある。関係がある。これらが下位の世界に現れているなら、それらの根源性を神から排除する理由はない。
8. 三つの位格
キリスト教の三位一体は、この話を考えるうえで重要である。父、子、聖霊は、神が三つに分裂しているという話ではない。一つの神性が、三つの位格として成立しているという話である。ペルソナとは、低次の人間的個性ではなく、本質が関係と構造の中で現れる位格である。
人間にも同じ構造がある。人間には知性がある。感情がある。身体がある。知性だけが人間なのではない。感情だけが人間なのでもない。身体だけが人間なのでもない。知性、感情、身体が統合されて、一人の人間の本質が形成される。だから、神の位格を考えるときも、無表情な一枚岩として考える必要はない。一なる本質が、構造的に相を持つ。その相は、愛、善、慈悲、知性、生成力、秩序として現れる。三位一体は、その構造を父、子、聖霊という様式で説明している。
「神は人をその似姿につくった」という言葉も、ここに戻ってくる。人間が神に似ているというのは、神が人間の低次感情に似ているという意味ではない。逆である。人間の中にある高次の人格性が、神のエッセンスの反映である。人間に愛があるなら、神に愛の根源がある。人間に善を求める力があるなら、神に善の根源がある。人間に慈悲があるなら、神に慈悲の根源がある。人間に知性があるなら、神に知性の根源がある。神の本質が、人間という《孤立系》の中に縮図として現れる。これもまたフラクタルである。
9. 完成した人間
神の似姿を、人間の完成という方向から見ると、意志、意識、良心、個体性という四語が浮かぶ。この四つは、完成した人間のキーワードである。意志とは、方向性である。欲望や衝動ではない。存在がどこへ向かうかを決める力である。神においては、創造と秩序と完成へ向かう方向そのものである。人間においては、反応の寄せ集めから離れ、自分の中心から進む力として現れる。
意識とは、すべての知識と智慧を同時に認識している状態である。通常の人間は、順番にしか見られない。いま考えていること、いま感じていること、いま思い出していることに注意が偏る。知識は断片的で、智慧は遅れてくる。神の意識は、すべての知識と智慧を同時に認識している。部分的に知るのではなく、全体を同時に知る。
良心とは、すべての感情を同時に感じている状態である。外から押しつけられた道徳ではない。一つの感情に偏らず、全感情を抱えたうえで善と慈悲へ向かう感受性である。怒り、悲しみ、喜び、恐れ、愛、痛み、希望、孤独、赦しを同時に抱えるから、冷たい裁きにも、偏った同情にも落ちない。個体性とは、グルジェフがいう individuality、すなわち霊化である。ばらばらの衝動、反応、習慣、小さな私を統合し、分割されない一者として成立すること。肉体的な個性や心理的な癖を超えて、霊的な個として完成することである。
グルジェフが語る個体性も、この文脈で読むことができる。ウスペンスキーによって伝えられたグルジェフの思想では、人間は最初から一つの大きな「私」を持つのではなく、多数の小さな「私」に分裂していると説明される。多くの場合、人間は複数の小さな私、反応、習慣、借り物の人格に分裂している。そこから本当の個体性へ向かうことが、霊化としての個体性である。
この側面から見れば、人間もまた、自己の人体における神である。人体という《孤立系》には、細胞、器官、感覚、記憶、衝動、習慣、無数の自動反応がある。それらは勝手に動き、勝手に反応し、勝手に欲しがり、勝手に恐れる。自己とは、その人体という小宇宙を統括しうる中心である。けれど、人間は生まれながらにして神なのではない。グルジェフの言葉を借りれば、通常の人間はまだ機械である。福音派の言葉で言えば、人間は原罪を負った罪人であり、生まれながらにはまだ義認も聖化もされていない。ウスペンスキーが伝える複数の小さな私の問題は、まさにこの機械性の問題でもある。
中心がまだ一つに統合されていないから、人間はその都度、別々の小さな私に動かされる。人間は、自己の人体における神たるポテンシャルを持っているにすぎない。その可能性が現実になるためには、借り物の人格と複数の私を超え、本当の個体性へ向かわなければならない。意志、意識、良心、個体性は、そのための四つの柱である。ここでグルジェフが効いてくるのは、人間を安易に神格化せず、まだ眠り、まだ分裂し、まだ機械として動いている存在として見つめる冷たさを持っているからである。
仏教の無分別も、この線で響き合う。無分別とは、粗雑に区別を消すことではない。概念によって対象を切り刻む以前の直接知、あるいは非概念的智慧に関わる語である。意識がすべての知識と智慧を同時に認識し、良心がすべての感情を同時に感じ、個体性が霊化として統合されるとき、人間は分裂した小さな私を超えて、神の似姿へ近づく。神の似姿とは、意志、意識、良心、個体性が人間の中に宿り、それらが統合へ向かうことである。この四つが、人間の完成を形づくる。
10. 量子宇宙論
現代のマルチバース論や人間原理にも、よく似た構造がある。我々の宇宙は、生命が成立できるように物理定数がきわめて狭い範囲にあるように見える。これをファインチューニング問題と呼ぶことがある。その説明として、無数のバースがあり、その中でたまたま生命可能な宇宙に我々がいる、という考えが出てくる。
この説明は、ある程度は分かる。観測者は、観測者が成立できる宇宙でしか観測できない。だから我々が生命可能な宇宙にいることは、観測選択の結果として説明できる。けれど、その説明は一段上の問いを残す。無数のバースを生む仕組みは何か。そのバース集合を支配する法則体系は何か。その法則体系はどこから来たのか。なぜ生命可能な宇宙を含むような分布があるのか。
神学が神で止めるように、雑なマルチバース説明は、バース集合で止めることがある。我々の宇宙はたまたま生命可能だった。他のバースのことは知らない。だからファインチューニングは問題にならない。そう言われると、外部を説明に使いながら、その外部の原因を問わない態度に見える。筆者の見方では、バースも《孤立系》である。人間も《孤立系》である。地球の大気圏も、閉じた電車内も、コップ一杯の水も《孤立系》として扱える。こうした《孤立系》が成立するなら、その外部条件がある。外部条件は、内部からは見えないことがある。見えないからといって、ないことにはならない。
マルチバース論は、我々の宇宙の外部に複数の《孤立系》を置く。その発想自体は、フラクタルに近い。けれど、他のバースの存在を使って我々の宇宙のファインチューニングを薄めるなら、そのバース全体の生成条件にも問いが向かう。この問いは、神にとっての神という問いと同じ構造を持つ。我々の世界にとって神がいる。その神にも、その神にとっての神がいる。我々の宇宙にとってマルチバースがある。そのマルチバースにも、上位の法則体系がある。《孤立系》と外部条件の関係が、階層ごとに反復する。
グルジェフのコスモス論と、現代物理学におけるフラクタル時空や階層的宇宙モデルとのあいだに、理論的な接続が証明されているわけではない。グルジェフは二十世紀前半の人であり、フラクタル幾何学や量子重力論の現代的展開より前に、コスモスの階層、創造の光、上位世界と下位世界の関係、人間と宇宙の相似を語っていた。筆者が注目するのは、この時代差である。
もし将来、グルジェフのコスモス論と、フラクタル時空、量子宇宙論、階層的な宇宙モデルとのあいだに何らかの理論的接続が示されるなら、グルジェフは単なる神秘思想家ではなく、物理学の未来を直観的に先取りした預言者のような位置に立つことになるかもしれない。これは現時点での証明ではなく、筆者の見立てである。ただし筆者には、グルジェフのアイデアに後の物理学や現代思想が追従しているように見える例が、これだけにとどまらない。
11. フラクタルの答え
この議論全体の核は、神を固定された名詞として扱わないことにある。神とは、ある《孤立系》にとっての統括原理、外部条件、生成条件、根源である。この定義から見ると、通常の一神教/多神教の分類、ブラフマンと神々、三位一体、神の似姿、科学の統一法則、マルチバースの外部条件は、別々の話ではなく、《孤立系》と統括原理の関係が異なる階層で現れたものとして読める。世界にとっての神、神にとっての神、人間にとっての外部条件、宇宙にとっての上位条件、神々にとっての根源、科学にとっての統一法則、完成した人間にとっての霊化された個体性は、同じ構造が階層を変えて現れたものとして読める。この反復を、筆者はフラクタルと呼ぶ。
本稿の答えは、神をこの世界の原因として認めたうえで、その神にも上位原因を問うところにある。神はこの世界にとって無限であり、この世界を統括する原理である。けれど、その神を原因の例外に置く必要はない。その神にも、その神にとっての神がある。この関係が、《孤立系》と外部条件の自己相似として階層的に反復する。それが、フラクタルによる回答である。
筆者が一番不思議なのは、この話を世間でほとんど聞いたことがないということだ。もちろん、完全な無から湧いた発想だとは思っていない。階層化された宇宙、人間の分裂と統合、本当の個体性という方向には、グルジェフの影響がある。だから、グルジェフを除いての話である。けれど、神を原因の例外にせず、神にとっての神を置き、それでも通常の意味での多神教へ落とさず、《孤立系》と外部条件の自己相似として説明するこの形について、筆者はまだ、似た話をほとんど聞いたことがない。
12. これからの行き先
では、これから筆者はいったい誰と何をすればいいのだろうか。哲学は、おそらくこの話を簡単には受け取らない。強いエポケーは、神の実在をいつまでも括弧に入れ続ける。宗教哲学は神を論じるが、信仰共同体の内側に留まることも多い。トランスパーソナルな領域には、かつての熱が残っていない。比較宗教学だけでは、この構造の物理的な鋭さが弱くなる。
いま一番近い場所があるとすれば、量子力学と宇宙論の哲学的解釈の周辺だと思う。量子論は、古典的な実在観をいったん括弧に入れる。宇宙論は、ファインチューニングとマルチバースを通じて、我々の宇宙の外部条件を問う。そこには、《孤立系》、観測者、上位法則、階層、選択効果、統一理論への欲望がある。神学ではなく、物理学の境界で、神にとっての神という問いがもう一度立ち上がる余地がある。筆者がいま最も可能性を感じているのは、有神論的量子力学、あるいは量子宇宙論と神学が交差する場所である。
これは完成した理論の発表というより、現在進行形のルポルタージュである。筆者は、神にとっての神という問いを抱えたまま、どこへ行けばこの問いが壊され、鍛えられ、次の形を持てるのかを探している。その探索の途中で、AIに相談し、候補となる思想圏や研究者を聞き、ひとつずつ足場を確かめている。この記事は、その移動の記録でもある。
その方向をAIに相談しているとき、Don Pageという人物を教えられた。アルバータ大学の物理学教授であり、量子宇宙論、理論重力物理学、ブラックホール、量子論を研究している人物である。Stephen Hawkingに博士課程で指導を受け、Hawkingと共同研究した物理学者でありながら、福音派キリスト教徒としても知られ、神学と宇宙論を同じ机の上に置いて考えている。正直に言えば、筆者はその名前を知らなかった。けれど、福音派の量子宇宙論者がいると知ったことは、思った以上に大きかった。彼のような人がいるなら、この話は完全な孤独ではないのかもしれない。
筆者はいつか、Don Pageのような人にこの問いをぶつけてみたいと思っている。そのためには、数学や理論物理学をもっと学び、量子宇宙論を理解している人の前に出せるだけの言葉と問いの形を整える必要がある。神にとっての神という発想について、知りたいのは、どこが雑で、どこが物理学の言葉として耐えられず、どこにまだ問いとして残る部分があるのかである。物理学から見れば比喩に留まるのか、ファインチューニング、マルチバース、量子宇宙論の外部条件を考えるための粗い足場くらいにはなるのか。数学と理論物理学を学び、問いの形をもう少し鍛えた先で、それを本人にぶつけてみたい。
筆者は専門家ではない。既存の棚にうまく収まらない立場だからこそ、《孤立系》と神、フラクタルと多神教、ブラフマンと三位一体、グルジェフと無分別、ファインチューニングとマルチバースを、同じ平面に並べて考えることができる。これから筆者がするべきことは、この話を、もっと短く、もっと正確に、もっと他人に説明できる形にすることだと思う。日本語で書き、英語でも要約し、量子基礎論や宇宙論の哲学的解釈に関心を持つ人たちの前に出すこともいいかもしれない。神にとっての神という問いは、信仰告白で終わる必要がない。問いとしてまだ歩けるものなら、筆者はその続きを探していきたい。
参照リンク
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https://plato.stanford.edu/entries/cosmological-argument/
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https://www.britannica.com/topic/brahman-Hindu-concept
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https://www.britannica.com/topic/Advaita-school-of-Hindu-philosophy
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https://www.britannica.com/topic/Trinity-Christianity
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https://www.britannica.com/topic/Kojiki
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https://www.britannica.com/topic/Japanese-literature/Shinto-literature-and-mythology
NASA Science “WMAP Overview”
https://science.nasa.gov/mission/wmap/wmap-overview/
Helbig, Phillip. “Life, the Multiverse, and Fine-Tuning”
https://link.springer.com/article/10.1007/s10701-023-00732-8
Oxford Reference “Nirvikalpa”
https://www.oxfordreference.com/abstract/10.1093/acref/9780190681159.001.0001/acref-9780190681159-e-2957
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https://scholar.google.com/citations?user=1DU0sPYAAAAJ
Faraday Institute “Prof. Don Page”
https://www.faraday.cam.ac.uk/about/people/prof-don-page/
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