西方白蝶譚 〜人間の心理作用の微妙な善悪の消息〜 Minding your own business will take you very far in life. その壱
明るい日差しが感じられる春の日、京都から慰霊祭の通知はがきが熊本の自宅に届いた。
私(阪本三夏、五十八歳、男)は代々の祖等親族家族の神霊等の祭典を毎年五月のゴールデンウィーク中に執行してもらっている。その時に遠縁または無縁知己などの神霊等の慰霊祭を、これは通知がないので申し込みの手続きを同時にお願いしているのだが、郵便局の払込取扱票の通知欄及び依頼人(※私の妹、阪本夏希、五十五歳)の記入を彼女が自室で終えると、遠くから鶯の声が聞こえてきた。
なぜかこの時私は谷崎潤一郎の『春琴抄』をふと思い出した。
昭和五十二年正月、私達は何も知らされずに、当時住まいのあった東京の映画館で、春琴・山口百恵、佐助・三浦友和の『春琴抄』を見た。その頃はまだ子供だった私には内容が衝撃的過ぎて、あらすじが今も記憶に残っていた。おそらく父は『春琴抄』を読んでおらず、百恵ちゃんの映画は子供向けだろうと思い込んでいたのだと思う。
佐助が自ら眼を突いた行為が、わけは理解できたのだが、とても嫌で、その気持ちからなんとなく原作から遠退いていた。令和六年三月下旬の今、なぜ久しぶりにあの映画を思い出したのだろうと原作を読み始めると、春琴と佐助の最初の子だけが貰われて行った先が分からないと知り、まるでその子のその後のようだと思い出した高祖父が残した話がある。
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これは私の高祖父・中村元成がアメリカ行きの船の上で聞いた話である。
元成は二十歳を過ぎた頃、熊本からアメリカへ出稼ぎに行ったのだが、その船で齊藤佐平という初老の男と出会った。元成は暮天の色の変化を眺めるのが好きで、夕方に船の甲板へ出るのを楽しみとしていた。齊藤は夕空に特別な思いがあり、彼らは毎日のように顔を合わせた。元成は生まれてすぐ遠縁の齊藤家から子のなかった中村家の養子となったため、齊藤姓に親しみがあった。齊藤は、あなたとは逆で私は齊藤家の養子となったのです、と云った。元成が、私は出稼ぎですが、あなたはなぜ行かれますか、と問うと、私は蝶を追っているのです、と云うので、ああ、昆虫学者で在らせれますか、と云うと、いえ違います、とはにかみ、蝶は蝶でもバターフライ(※バター色の羽で飛ぶ昆虫、という意味の英語。Butterfly)なのです、紋黄蝶を追っているのです、と云った。あちらには珍しい蝶がおりますか、と云うと、そうではないのです、私の気持ちを白い紋黄蝶が持って行ってしまったのです、と云い、雨の日の蝶のようにじっとして、温かい光をただ待って過ごすのはもう嫌なのです、それに私の心の羽は恐ろしい鷹に突かれてぼろぼろです、でも大丈夫、といつまでもは言っていられないではないですか……と、生い立ちを話し始めた。
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齊藤佐平の養父である平吉は、京都出身、小作人の八男で、物心がついた頃から生活の困窮が身に沁みていた。叔母が人目にあらわれる美しい娘であった為、大坂の両替商の妾となり、その伝で九つの時(※年齢は全て満年齢)に大坂市中の薬種商の丁稚となった。
平吉は十五でその奉公先・桔梗丸屋の娘・孝子の入婿となった。孝子も十五で、先に縁談があったのであるが、わたくしには平吉を婿に取る事しか考えられませぬ、嫁に行くなど出来ませぬ、と涙を流したので、孝子が赤子の時分に妻を亡くし、娘を甘やかす事しか出来なくなっていた主人は、平吉を呼び出すと、孝子とおまえの祝言の事であるが、と云った。平吉は、私をからかうのはおやめください、そういうのは苦手でござります、と申し上げると、何をいうておる、すでによい仲なのであろう、と云うので、私はお話をさせていただいたこともござりませぬ、誠でござります、と本当の事を云ったのであるが信じてもらえず、あれよという間に祝言の日となり、公には孝子と夫婦となってしまった。
平吉は、夫婦になるとは何ぞや、と思った。孝子は愛嬌のある娘であったので悪い気はしなかったものの、立場の違いすぎる者と夫婦になりたいとは如何なる事ぞ、と皆目分からなかった。新しい部屋を用意してもらえず、祝言の夜も狭い部屋で奉公人たちと寝る常況を変えてもらえなかった。翌日の仕事の内容も、新たな家族として関わらせてもらうようなことはなかった。しかし正式に夫婦となったのだから……と思い、祝言の夜に孝子が酒に酔った顔をしていたのを考えて間を一日置き、祝言の翌々日、いつも通りにお勤めを終え、皆が寝静まった頃、孝子の閨の前まで行くと、お孝さま、と小さな声で云った。すると、平吉、と冷静に呼ぶ孝子の声が障子の向こうから聞こえた。続けて、入らないでください、という声がした。まさかの声に平吉は顔から汗が吹き出た。臓器が震えるごとく体がおかしくなり、お…や…す…み…な……とまで声を振り絞ったところで、孝子は、これ、話はまだ終わっておりませぬ、と云い、わたくしは子は要りませぬ、それを承知しておいてください、既に子は二人居ります、それで充分、と云うので、平吉は驚き、は…初耳でござります、と云うと、な、何を言う、無礼であろう、と孝子は怒り出し、最後までよくお聞き、孝子の孝という字の中には子が既に居る、孝子の子は子そのもの、だからわたくしには子が二人居ると言うておる、これで分かったであろう、もうええ、下がりなされ、と最後には非常に立腹していた。
平吉は孝子の理屈の本意を解せず、こう考えた。あの時孝子は照れくさかったのであろう、あれから三日…もう落ち着いておるであろうか、全く伺わぬのもおかしいであろう、夜になったら声を掛けてみよう……
しかし孝子はまた障子の向こうから、入らないでくださいと言ったではありませぬか、と不機嫌な声を聞かせたので、平吉は穏やかに、いつでもお呼びくださりませ、と云って下がった。
それから十年が経った。平吉も孝子も二十五になっていた。孝子の四つ上の兄・孝彦が孝子より一つ年下の嫁・キエをもらい、息子が三人となっていたので、子供好きの平吉には孝彦の家族の様子を眺める事がいつしか慰みとなっていた。
孝子は相変わらず、今日はお茶のお稽古、明日は観劇、と毎日忙しく、平吉も相変わらず質直に生活していた。
祝言はまるで夢路を辿ったごとくであった。
孝子は初め平吉のことをなんとも思っていなかったのであるが、平吉が桔梗丸屋に来て五年くらい経った頃、近頃女の客が増えたと小耳に挟み、ひまを持て余していたので店の様子を窺ってみると、平吉を目当てに若い娘が立ち寄っているのだと気が付いた。
なるほど確かに平吉はなかなかの男前かもしれぬ、背が高く優しい顔立ちで人当たりが柔らかい、平吉を婿に取れば嫁に行かなくてよい、家は兄が継ぐと決まっておるし、一生遊んで暮らせる、と考えた。しかし孝子は自分に自信がなく、そのため幾つもの稽古事に励み出した。それゆえ顔が広くなり、十五になると縁談が持ち込まれたというわけである。つまり孝子は苦労を避けるための早手回しに平吉を使ったのであった。
平吉は季節に合わせて頻繁に襖絵を取り替える孝子をなんと贅沢のすぎる女であろうかと思っていた。私には部屋がない。私がなぜ孝子に寛大なのか、孝子はおそらく考えたこともなかろう。私は忘れたことはない、叔母が連れて行かれた時のことを。叔母は家の犠牲となった。叔母には好いた男がおった。男は貧しさゆえに嫁に来てくれといえないでおった。週に一度、叔母は私を供として歩き、男の家へ通った。私の兄である次男と三男、そして私の前に生まれた三人の子らは皆早世した。父の末の妹である叔母は私を弟のごとくかわいがってくれた。叔母は、男の病弱な母を見舞い、男の畑仕事を手伝っておった。私は幼いながらも男女の情愛を感じて幸せとはこういうものかと思っておった。私も草取りをしたり、少しばかりの手伝いであったが、礼にといわれて男の畑の美味い芋や豆などを食わせてもらうのが楽しみであった。叔母が無理やり連れて行かれた時は男の所へ走り、そのことを告げたが、男は大粒の涙をこぼして震えながらへたっておった。その哀れな姿を忘れたことはない。その後、男は寝付き、死んだ。男の母もその後まもなく他界した。私の人生は叔母の犠牲の上に成り立っておる。叔母のおかげで生活に困らなくなった。そのありがたさを私は忘れたことはない。孝子を身内だと思うておるから、許しておるのである。私のその思いは孝子にはわからぬであろう……
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平吉はヨネという寡の老婦人の所へ和漢胃腸薬を三ヵ月毎に届けていた。孝子の母が嫁入り前にヨネから料理を習っていた縁が続いていたのは、私が最も信用しておる方でござりますと夫に話していたからであった。主人の話によると、花柳界にいた時分に女を卑しめる大名に身請けをされそうになり、幼馴染みの書生と駆け落ちをした、という噂を聞いたことがあると妻がいうておった、ということであるが、それが虚偽とは思えぬ器量人で、裁縫で暮らしを立てており、市中で小料理屋の女将をしているヨネの娘が店の献立をたびたび相談に来るほど煮炊きが上手で、寺に書物を読みに行く以外はどこにも遊びに行かない平吉を主人が気を利かせて出向かせていたのであった。平吉は、市外にあるその家までは小旅行の気分で、必ず差し出されるヨネの旬の手料理を楽しみとしていた。
ある時、平吉が常のごとくヨネの所へ行くと、赤子が二人寝ていた。髪の様子から生まれたばかりではなさそうであったが、どちらも青白い顔で、片方は混血児であった。どちらもヨネの娘の店で無銭飲食をした夫婦が連れていた赤子で、人買から預かり、自分らの子供ではないと云ったそうである。その真偽はどうであれ、子らが不憫だとヨネの娘はこの件が片付くまでと赤子らを預かったのであるが、子らがすすり泣く弱々しい声が薄気味悪いと客に云われたため、夫と相談をして一人づつ赤子をおぶって昨日ここへ連れて来たということであった。
ヨネが調べたところによると、赤子らは揃いの絣の端切で作られた小さな袋を首に下げていたのであるが、数珠と思われる青瑪瑙がそれぞれに一粒と折り畳んだ紙が一枚づつ入れてあったということであった。平吉がその紙を見せてもらうと、男の赤子のものには、チチアフミハハオホサカ五、と書かれ、女の混血児の赤子のものには、チチフンランハハタニハ七、と書かれていた。『父が近江出身、母が大坂出身』ということ、『母が丹波出身』ということは判ったが、フンランはヨネにも平吉にも謎であった。そして、数字の五と七は子の値かもしれませぬ、私が今から書き加えますから、証人となりてくださりませ、とヨネは云い、五の下に、月五日生、七の下に、月七日生、と書いて誕生日に変え、いつか字が異なっておることを聞かれることがござりましたら、私が勝手に書いたと云うてくださりませ、値だとしたら、そのまましておりては、この子らのためになりませぬ、本当のことを知りたいと云われたら話してやりてくださりませ、と云った。
平吉はその夜から頭痛に悩まされた。寝る前に薬を飲んだが、朝になっても痛みが取れなかった。店のことが気になったものの起きられずに布団の中で苦しんでいた。このように寝込んだのは初めてであった。
孝子はそれを知らぬか否かお茶の稽古にそそくさ出掛けた。キエが心配をして様子を見に来たので、男の奉公人の部屋になど若奥様が…と平吉が体を起こしながら云い掛けると、キエの後ろに孝彦が現れた。すまぬが来てくれぬか、と云うので、平吉は両手で頭のあちこちをほぐしながら両人の後を行った。孝彦は母屋と続きの来客用のこじんまりした離家へ入り、廊下から部屋の障子を開けると、キエが布団を敷いてくれたんや、今日はここで休め、と云い、昨日何があったんや、キエが店に帰って来たお前の青い顔を見て昨夜から心配しておったんやで、しかし寝込むとは……と云うので、平吉は部屋に入ると下座に正座をした。何をしておる、横にならぬか、と孝彦が云うと、平吉は頭を下げて、おヨネさんが預かっておる赤子らを養子にしとうて悩んでおります、と云った。
孝彦とキエは戸惑いながら平吉の昨日の出来事を聞いた。
主人も孝彦も、孝子は六畳の続きの部屋を六つ持っているので、平吉とそこで睦まじく過ごすと思っていた。しかしいつまでもその様子はなく、孝彦はそのことが気になりながらも、夫婦のことは難しい、平吉が一人前になるまでは触らぬほうがよいかもしれぬ、とあえて知らぬふりをした。だが平吉が心底困っておるようであったら、時期にかかわらず父に相談をしてなんとかしてやらぬと、孝子の増長が取り返しのつかぬことになったら恐ろしい、とも思っていた。
孝彦は、明日までに考えておく、と平吉に云い、明日の朝まで離家で休むように念を押し、キエと母屋の奥の間で養子の件を話し合った。キエは、三生(※孝彦とキエの三男)と同じくらいでござりましょうから、私が双子のごとく育ての手伝いをいたしますればよろしかろうと存じます、と割合にあっさり云った。それを聞いて孝彦は、混血児は無理だが、男の赤子のみならばよし、とすることにした。それが、平吉の心情、キエの温情、世間口を考慮した上で最良の判断だと思ったのであった。そして孝子はキエが、父は自分が、この件について執り成すこととした。
平吉の頭痛は気の病でござりましょうから、早う話してやりてくださりませ、とキエが云ったので、孝彦は離家へ行き、横になっている平吉をそのままにさせて養子のことを話した。平吉は、ありがとうござります、と云ってツーッと涙をこぼした。孝彦が部屋をそっと出ると、平吉は少し安心が出来て眠りに就けた。
養子縁組は証文のやりとりが必要だった。そこで夜になると孝彦はまず自分が父に仔細を話した。すると、大事な話がある、キエを呼べ、早う、と父が云うので、孝彦は自らキエを呼んで来た。
主人は、お前たちにいうておきたいことがある、養子縁組のことは孝子にはいうな、いわねばしばらくは気付かぬであろう、あれには情義がない、赤子が孝子の手で捨て子にならぬようにせねばならぬ、あれは傲慢で、他に残酷なところがある、赤子のことだけではない、お前たちも孝子にはゆめゆめ油断せざることをいうておく、と小声で云った。
就寝前、キエは孝彦に、八歳になった一彦(※孝彦とキエの長男)が最近云ったことを話した。孝子おばさまとお風呂をご一緒されたことはござりますか、と尋ねるので、そのわけを聞くと、おばさまには見えませぬ、肥えた小さなおじさまに見えます、どこからか声が聞こえる時は男が話しておるように思います、と云うので、一彦のおばさまであることは間違いないのだから、敬う気持ちを忘れぬようにと諭したが、キエはこの話を不快に感じたと云った。一彦を悪く思ったのではなく、孝子お姉さまがどうこうというわけでもなく、娘らしい愛嬌のある孝子様がもういなくなってしまったことを不快に感じたと云うのであった。
翌朝、頭痛の取れた平吉はヨネの所へ行き、昨日の話をした。するとヨネは、混血児の女の赤子を養子にしたいと申し出てくださる方、それも本当にこの子のためを思うてくださる方を見つけるのは困難だと存じます、この子は私が育てます、と云った。私が教えられることは全て教えます、この子に生きる力を授けます、というヨネの力強い言葉に平吉は安堵した。そしてヨネがこの子に名を付けてくださりませぬか、と云うので、平吉は女の赤子を「清」と名付けた。桔梗丸屋では三生が養子の良き友となってくれるであろう、と考え、三生の三の字を三水に見立て、三生の生の字と同じ音を持つ青の字を当てて「清」とした。女の赤子の透き通るごとくけがれのないきれいな様子にふさわしい、とヨネは喜んだ。そして男の赤子の名は「佐平」とした。「清」には平らかという意味がある。私の名は平吉で、佐の字には助けという意味がある。「佐平」には「清」を助けられる男に育って欲しいという願いを込めた。「袖振り合うも多生の縁」という。三生と佐平、佐平と清、赤子らの縁が幸深きものとなるように、平吉は心の底から名に祈りを込めたのであった。
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そして七年が経った。有言実行のキエは三生と佐平を双子のごとく育てていた。孝彦とキエの三人の子らは皆、優しく温い感じのする平吉おじさまが大好きで、孝子おばさまとの間に子がおらぬゆえに佐平を養子に貰った事を理解し、おばさまが子供嫌いなのを感じていたため、両親からの言葉もあり、孝子を見掛けたら佐平を遠ざけるように日常的に気を使っていた。そのため朝から晩まで毎日のごとく外出している孝子は佐平に気付かず、七歳になった二人が仲良くしている姿を見掛ける事もたまにあったが、佐平を三生の友と見なして特に気に留める事はしなかった。奉公人は常に不機嫌な孝子に自ら近寄る事はなく、況して余計なことを口にはしなかった。平吉の人柄もあって無駄口をたたくような佐平の養子縁組の外部関係者もいなかった。それに親子だと聞けば誰もが信じるであろうと思われるほど同じ気質を感じさせるところがあったのである。それは互いに親子の情を培いそだてる努力を惜しまなかったからであった。
平吉が寝込んだ日から、離家が平吉と佐平の居場所となった。主人も孝彦も、孝子が茶道を習い始めてからは、友を呼んで離家で茶会を開くと思っていた。いつでも使えるようにしていたのだが、孝子が家に友を連れて来たことはなく、孝子は離家に入ったこともなかった。その為、主人が平吉と佐平が静かに暮らせるように取り計らったのだった。
佐平は明るいうちは三生と過ごしていたので、離家は平吉と佐平が寝る前に話をする場所となっていた。ある時、佐平は西方浄土について平吉に尋ねた。齊藤家は浄土宗であったので、極楽は西方世界にあると聞き覚えていた。なぜ西方なのでござりますか、私にとって西は、お清さんが居る所でござりますし、お清さんのセイという音を西は持っておりますから、安心する所でござりますが、それにおヨネさんは裁縫で身を立てておりますので、サイホウという言葉が気になります、と云うと、平吉は、潔白という言葉は、いさぎよく心のけがれていないことをいうが、潔がいさぎよいという意味で、白が心のけがれていないことだと考えると、西は色でいうと白であるから、阿弥陀如来様が居られる所を西天というのであろう、私は勝手にそう思っておる、実はな、私も昔同じことを生まれた村の坊さんに尋ねたことがあるのじゃが、その坊さんも昔同じことを住職に尋ねたことがあったそうじゃが、その住職も小坊主だった時分に同じことを住職に尋ねたことがあったそうじゃ、つまりわからんのじゃ、と云った。そして、来月お清に会えるのを今から楽しみにしておるのか、と平吉が云うと、毎日お清さんに会うのを楽しみに思うております、と嬉しそうに佐平は答えた。その顔を見た平吉にも笑みがこぼれた。
その頃、キエは三生と佐平を連れて妹の所へよく出掛けるようになっていた。キエの妹は桔梗丸屋からさほど遠くない呉服商に嫁いだのだが、我慢しがちな妹の性質を知っており、親子ほど年の離れた主人の後妻となった妹を心配していたのだった。
三生も佐平も美しい着物の柄を見るのが大好きであった。その影響で三生はいつしか絵を描くのに夢中となっていた。桔梗丸屋ではしばしば番頭の隣に座り、筆を貸しておくれ、と云って店に飾ってある花を参考にして花模様を描いていた。佐平は三生の心が求める綺麗な絵がとても好きであった。
ある時、佐平が蝶の絵を描いて欲しいと云うと、三生は本物の蝶が見たいと云った。佐平は平吉に今度お清さんの所へ行く時に三生も一緒に連れて行って欲しいとお願いをした。それで平吉はヨネに文を出した。
ヨネの住まいには、広いとはいえぬが、作付けができる庭があった。土を裸にせず、草を生やして根を地中に残し、豊かな土壌にしながら野菜を作っていた。天気に左右されるとはいえ、冬を除けば蝶がほぼ毎日飛んでいた。しかし見られる蝶は日により異なるため、平吉と佐平と三生は、ヨネの住まいの近くの寺で一泊させてもらうことにした。
三生は初めて里山を見た。ヨネの住まいに着くまでに、休んでいる蝶を見つけた平吉から、アゲハやシジミの種類があることを教わった。
家の前では清が待っていた。少し寂しげに見えた清は佐平を見ると嬉しそうな表情に変わった。佐平は満面の笑みを浮かべていた。感性の繊細な三生は、二人が心から信頼し合っているのを即座に感じた。そして清が輝く容貌の女子であることに驚いた。透き通るごとき牛乳色の肌に髪が栗皮色の赤茶で、目の色は糖蜜を思わせた。それなのに二人の面貌はどことなく似ていたのであった。
三生は、ヨネが用意してくれていた蕗と筍と若芽の炊き合わせに亡くなった祖母の若かりし頃の料理を想像してみたり、平吉と自分が庭に出て蝶の話をしていても、佐平と清が縁側に座ったまま互いの話に夢中でこちらのことは意に介していない様子を見たりしているうちに、ある心念がふつふつと湧き出したのを感じていた。
夜になると、平吉から、北の空高くに、水をくむ柄杓の形のように並んでいる七つの明るい星を北斗七星と呼び、その柄杓から水をこぼす形にした先端の二つの星からまっすぐ辿ったところにある明るい星が真北の目印である北極星、北斗七星の柄杓の柄から弓なりに反り返った曲線を南の方へ延長して辿った先にある二つの明るい星(※アルクトゥルスとスピカのこと)を春の夫婦星と呼ぶことを、佐平と清と三生は教わった。三人の心に満天の星の光が静かに宿った。
平吉、佐平、三生の三人は、予定通り寺に泊まり、早朝には経を唱え、寺に一人しかいなかった小坊主の掃除を手伝ってから、ヨネと清の所へ戻った。三生は、母のキエが作ったものとは味も具も違う朝餉の味噌汁の初めて食べた湯葉が忘れられなくなり、生涯の好物となった。この二日間は三生にとって人生の転機となった。
(つづく)



