山下裕二『未来の国宝・MY国宝』(2)
続きです。
前回は、国宝は、誰がどのように、どんな条件で決めているかを探ってみました。ここからは、国宝の役割や立ち位置のようなものを、少しずつ探っていこうと思います。
主流のイメージから外れること。
縄文時代『深鉢形土器』
縄文土器と言われて、大抵の人がパッと思い浮かべるのは、『火炎土器』だと思います。自分も以前、縄文土器の展覧会をレポートしましたが、やはりその中心は火炎土器。それから人の顔面や動物の意匠が施された深鉢・浅鉢、釣手土器。
すっかり失念していたのですが、火焔を模した土器があるのなら、水の流れを模した土器もあるのが道理……まさに、コレがそうでしょう。
まあ、自分もこの本の図版で初めて知ったのですが。他に見た事がない……いや、ずっと見落としていたのだと思います。
縄文は火焔土器のような、ほとばしるエナジーの文化。
そんな先入観があった。
古代とはいえ、人間の営みが、そんな単純なものであるはずがないのに。当然その逆、流れる水のような、静かで落ち着いた側面もあって当たり前だ。それに気付けなかった。
それは、弥生時代になって興るものだと思っていた。だけど弥生時代にも、青銅を溶かして巨大な銅鐸を作るような、熱いエナジーがあったのだ。
……であれば、縄文時代にもクールな感性はある。
それは多くの人が知るべきだと思う。この、水の流れそのもののような、涼しげな姿の縄文土器は、確かに、広く知られなければならない。火焔土器に対する水紋土器として、国宝になるべきものだろう。
この例に限らず、私たちが
「〇〇時代の文化はこんな感じ」
「〇〇文化はこんなイメージ」
「〇〇美術はこんな雰囲気」
なんて漠然と思い浮かべるとき、その根拠はおよそ、何かの縁で目にした、当時の様々な文物による。
そして「国宝」はそういった文物の代表。
では「国宝」を見ると言う事、何を「国宝」とするか決めると言う事は、いったいどういう意味があるのだろう?
古墳時代『埴輪・見返りの鹿』
キュッと後ろを向いた鹿の姿。
コレも、先の縄文土器と同じだ。埴輪というと、かの武人を思い浮かべる人が多いと思う……あるいは、踊る人物か。
高度に様式化された表現で、人物を模したもの、というイメージ。あるいは家や、盾のようなもの……もちろん、そういう形象埴輪はごくわずかで、埴輪のほとんどは筒型埴輪、という事実も、あまり一般的には認識されていないのだけど……
しかしここで紹介された『見返りの鹿』は、そういう既存のイメージをぶち壊してくる。
この埴輪の作者は、狩りをしようとした人間の気配に気づいて、鹿が振り向いた一瞬を目に焼き付けたに違いない。
とはこの本の著者の弁で、自分も全く同意なのだけれど、自分にはさらにこの後、この鹿に深々と突き立つ矢が見えるような気がする。この鹿のポッカリ空いた目には、自分が死んで肉となって食われる所までが、見えている。
矢を放った瞬間、この埴輪の作者……すなわち狩人と、この鹿の目がバッチリ合ったのだ。矢が放たれ刺さるまでの、ごく一瞬、殺す者と殺される者が見つめ合う、永遠とも思われる一瞬。縄文の狩人も、何十年何匹、獣を狩ってきた身だろうけれど、こんなことは初めてだったか? その驚きが、嫌なことを振り切ろうとするような、粘土造形への偏執的なこだわりに見え隠れするようだ。ぎゅっと首を上げた崇高な姿。それは既に、自分の生き死にすら達観しているみたい。
埴輪の時代に、作家の自我という物は、どれくらい産まれれていたのか。そんな事にまで、考えをめぐらさずにはいられなくなる。希少な例だ。
この本では、こんなふうに、今までの
「〇〇時代の文化はこんな感じ」
「〇〇文化はこんなイメージ」
「〇〇美術はこんな雰囲気」
といった既成観念から外れるような作品を紹介しています。
今までの「国宝」とは違う「国宝」を考える……
「国宝」とはどういう存在か、自覚的になる……
さて、それにはどんな意味があるでしょう?
平安時代『宝誌和尚立像』
イイ感じの画像が無かったので、似た感じの動画を貼る。
似てないかもしれない。
お坊さんの顔がパックリ割れて、中から観音様が出てくる、そのシーンを形にしたもの。仏像の概念が崩れる。
見た目の異形さももちろんなんだけど、変化している途中の一瞬をとらえて形にしている、というのがおかしい。
大概、仏像なんていうのは、座禅を組んでるように、静かに座って目を伏せていたり、立ち姿でも寛いだ感じで、動きは感じさせない。涅槃仏なんて寝ているのだ。行脚姿を描いた空也像とか、腕や足を振り上げた天部や眷属など、今にも動き出しそうなポーズの像もあるけど、あくまでそれは「動き出しそうな」姿、動いている一瞬をとどめた「ポーズ」だ。作られた当時も今も、同じ姿だ。ちがってはいない。
でもこの像は異質だ。作られた当時は、お坊さんの顔は割れていなくて、普通に穏やかなお坊さんの表情があったはず。そして今にも割れた顔はズルズルと、ライチを剥くみたいに押し広げられ始める。そのまま、中の菩薩は、ヌルリと皮を脱ぎ捨てるように抜け出す。見た感じそうとしか思えない。
これまでも今回も、数多くの仏像・尊像を見てきたけれど、こんな感想はなかなか持てない。そんな異質な像。
しかし当時は、そんな異質な印象を与えて、この世とは感覚がまるっきり違う、仏教の不思議な世界に生きているのだ、という事をあえて伝える。既存の仏教のイメージは、江戸幕府の制限下でかなり変えられた、その後のものではないか。
鎌倉時代の、世界はまだ血なまぐさく、救いを求める声は生々しい飢餓感から絞り出されていた。そんな世界で、僧侶は物静かなだけではいられない。そういう事なんだろうか。
円空『十一面観音菩薩・善女龍王・善財童子』

ちょうどいい画像が無かったので、去年アーティゾン美術館で撮った写真を使いまわす。十一面観音でも善女龍王でも善財童子でもないけれど。
十一面観音とか、竜王とか童子とか、仏様の名前で探しても同じ仏をいろんな彫り方で作った円空仏が、ワッサワッサと出てくるばかり。どんだけ作ってるんですか。
この本で取り上げられているのは、三体の仏像をクルクルとまとめると、一本の太い棒になってしまう。太い枝を断ち割って、表情や衣文をカリカリと削り込んだのかな?
木端仏と一刀彫りの、いいとこどりみたいな像だ。多数ある円空仏の中には、一体でもっと堂々としているもの、円空の作風をより典型的に示しているものなど、作品を代表させるなら、他に相応しいものがいくらでもありそうだ。しかし、円空の魅力は、自然の中にある太い枝などから、導かれるまま仏の姿を彫り出すという、活動そのもの。それを顕彰するために、そのうちの一作を国宝として示すのなら、やはり、こういうのがいいだろう。
でも円空を国宝にするなら、木喰もしたいよなあ。
二人とも、生きていたら「そんなもんいらん」とか言いそうだけど。木喰上人の作を国宝にするなら、子供たちが雪遊びの橇に使って顔が削れちゃったヤツにしましょう。
「縄文時代の文化はこんな感じ」
「古墳文化はこんなイメージ」
「仏教美術はこんな雰囲気」
という、今までの思い込みをぶち壊してきますね。
では、個々の作家についての思い込みはどうでしょう?
上村松園『焔』
「上村松園は『序の舞』をはじめ、繊細で優美ながら気品があり、芯の強い女性の美しさを描き続けてきた画家」というのが一般的な認識でしょう。しかし、ここで上げられている『焔』は、だいぶ毛色が違う。
他の美人画では、白い肌の柔らかな輝きと競い合うように、艶やかな髪は黒いのに光っているかのようなんだけど、この『焔』では、髪の黒さは闇そのもので、あふれて流れ落ち、首を斬り落としている。白目がドロリと濁りつつ、妖しく光るのは、白目に金泥を塗る能面の手法を応用し、絹本の裏に金泥を指しているからだそうだ。
おくれ毛を噛む唇の紅、赤はこの一点だけで、血の色にしか見えない……
着物の柄がまた蜘蛛の巣で、その時点で不気味なんだけど、まるでこの女性がひび割れているみたいにも見える。それを継ぐように描かれた藤の花は、長々とのたくって、蛇か百足のよう。禍々しいにも程がある。
『人生の花』とか『母子』とか、人生に肯定的な作品と比較したら、一見、とても同じ作者とは思えないレベル。
さらに『花がたみ』なんて、静かに笑う狂女の図も……
しかしまさに、この人間の多面性が生々しく描き出されていると言う事こそが、美人画を美人画で終わらせない、上村松園の表現の神髄であり、日本画の、ひいては日本美術の革新であった。
確かに、上村松園の作品は国宝に加えられて然るべきだ。
速水御舟『京の舞妓』
速水御舟の作品で一番有名なのは、何と言っても『炎舞』。光に誘われるままに舞い、紅蓮の炎に焼かれゆく蝶たち。
観念的というか象徴的な作品。細密に描かれた、蝶の写実的な描写と、まるで不動明王の背後に描かれるような記号的、象徴的な炎の描写の対比のせいで、幻を見ているような不思議な感覚になる作品。
他の代表作『翠苔緑芝』『名樹散椿』も同様、細部は緻密な写実的描写を行うが、大きな幹や枝葉などは、まるで記号のような、キュビズムのような、デザイン化された描写になっている。
速水御舟がそんな、日本画の革新に至るような描写に至った切っ掛けが、この『京の舞妓』という作品だという。
ホントかな、と思ったけど……まあ見るからに、なるほどだ。
上村松園の『焔』もこんな日本画あるのか、って感じだったけど、まだギリ美人画と言って言えなくもない。
でもこれは……横山大観ブチギレ激おこ、というのも納得だ。
肉のたるんだ感じ、化粧で荒れた肌、それを塗りつぶそうとしている白粉のムラ、着物も揚屋の埃でヨレている。
コレに『京の舞妓』なんて題をつけるのは皮肉だよなあ……
コレが描かれたのは1920年。大正九年。大学令が施行され、早稲田慶応一橋明治法政國學院などなど、著名な大学はだいたいこの頃設立。関東大震災の二年前。
上村松園の『焔』から二年後。影響されたんだろうか?
明治以降の西洋画からの影響は、技法上のモノが多かった。遠近法や、陰影をつけたり筆触を取り入れたり。
ここにきて、そういった技法上のものにとどまらず「美しくないものも描く」という、何を表現するかの問題まで踏み込む事になった。
だから上村松園と速水御舟の前と後で、日本画の……いや、日本の美術そのものの方向性が違う。
だからコレも、上村松園の『焔』とともに、国宝とされるべき作品なのだった。
……もうちょっと続くんじゃ。
七月二十六日、続き書きました。これでおしまい。
