Loser’s Design Log:未完デザインの裏道 Vol.1
AIには見えない「ミリ単位」の正体。ただの名刺デザインの奥深い世界

たかが名刺
名刺なぞというものは何かきっかけがないと新調しないものだし、デザイン受注しても対して対価が高いものでもなく、と言って仕舞えばそれまでだったりしますが、さらに悩ましいことに、もはやレイアウトだけであれば素人でもAIやC〇〇vaでつくれたり、活版のネット印刷でかわいくつくれちゃったりするものだから、恐ろしいことに誰がつくってもそれなりになるという状況。輪をかけてみんなネットの印刷会社使って数千円でつくってしまうものだから、固定費出してでもしっかりした街の印刷会社をわざわざ使うような、気合いの入った案件も少ないのが実情だったりします。
浅い。いや、どこまでも深い
そもそも印刷の『い』の字もわからなくても「それなり」になってしまうことにモヤモヤするなあと思いつつ、そういえば私が起業した1991年頃にも諸先輩方から同じようなぼやき言われてたよなということを思えば時代とはそういうものかと納得せざるを得ないのもまた事実なわけですが。それでも一見、民主化されたようにみえるデザインの世界も実はいまだ知られざる深淵かつ広大な謎エリアがあることをご存知でしょうか。それなりにただ長いだけのキャリアを持つ私であっても、いまだに未知(無知)の領域の奥深さに震撼することがあることを後に続く若き天才クリエイターの方々にお伝えしたいといつも感じます。
昨今、それなりにかわいくつくってネット印刷に丸投げするような人々にはわかるまい、と粋がってみるわりには本心ちょっと嫉妬しつつも羨ましく思いながら、いや正直それもありとかって心では思う自分に素直になれずにいたりという悶々とした日々を送っています。

プリンティングディレクター登場
私の住むK市の食通界隈では有名なT氏は名刺が苦手というあまり聞いたことのない一風変わった癖のある方で、しかも殆ど人にいき渡らない割にはたびたびリニューアルを繰り返すため、デザインパートナーである私も短い間に何度も受注をさせてもらったりしていました。Tさんプロデューサーやフィクサーとしても顔が広いのだからそもそも名刺いらないでしょ?と心の中で思いながらも、パターンを試せるという面白さもあり、ハイハイと受けてた次第です。名刺をピンで受けるなんてことはそれこそこの方だけだったりします。
さてそんなある日のこと、例によって気まぐれなタイミングでSNS経由でさくっと新調依頼があり、これこれこんな感じでねと。T氏自身がクリエイターであることもあり、なかなかの目利きであることから「たかが名刺」であろうともクオリティが絶対。しっかりしたものがつくれるだけでも随分と気が楽になります。私の会社では何人かのプリンティングディレクターと一緒に仕事をしてまして、それなりの仕事の場合はPDを介して仕事をすすめます。そういうわけでこの案件もいつおお世話になっているプリンティングディレクターM氏にお願いしてしっかりした印刷会社で進める流れと相成りました。
妙なこだわり
1週間ほど過ぎた水曜日、T氏のオフィスに他の仕事の打ち合わせを兼ねてレイアウト案と紙見本を持参します。条件はただ1点。情報は全て「グレー」でということで、5%ごとに濃度を変えたカンプを見ていただきました。その結果80%程度の濃度でという指示をもらい、ただあくまで目安であることを伝えつつ、次の日M氏と打ち合わせへ。
さて、いとも簡単そうにみえるこの案件、何も考えなければ寝ててもできます。きっと秒で終わることでしょう。ちなみに難題がなぜ生まれるかというと一言で言えば「妙なこだわり」という欲をデザイナーがわざわざ出してしまうからに他なりません。ご多分に漏れずこれだけはさせていただこうという「欲」が出ます。スミ(グレー)1色というこれ以上に削ぎ落としのできないほどシンプルな構成。実際のところシンプルであればあるほど目利き(用紙の選択、印刷方法など)が問われるのも事実。名刺の小さい文字をせめて「ベタで刷らせてくれ」となるわけです。(ただのスミの濃度変化でグレー版つくるとオフセットの場合は網がけとなり、文字の再現性が著しく低下してしまいます)大袈裟だよと思うかもしれません。その心理は普通の方が見ても違いはわからないかもしれませんが、何故か「プロ」にみられることを意識してしまう「その界隈のあるある」だったりします。

80%濃度って意外に難しい
こんなシンプルな仕事に何処に何の問題がございましょうかと、多くの一般読者の方々は思われることでしょう。だいたいネット印刷に投げてれば印刷過程はブラックボックスなので、デザイナーが無知でも適当にやってくれるわけで、問題が俎上しないから問題処理をする必要がないというだけなんですが。
さて木曜日、印刷のプロフェッショナルであるM氏と相談を進めるなかで浮上したいくつかのクリアすべき問題について作戦会議を展開します。まずグレーをベタで刷ると聞いて、そんなのPANTONE ©とかDICとかTOYOの特色でいいでしょと思うかもしれませんが、こだわりというのは怖いもので、「いやグレー濃度80のベタで」と言い張ってしまうものです。ご存知の方はすぐピンとくると思いますが、スポットカラーの調色インクは、「調色」というぐらだから色んな色味を配合してメディウムでつないでるわけですので、純粋なグレーの指定濃度のインクというのはまあなかなかないわけです。結論としてはわざわざ、この「たかが1枚の名刺」のための印刷用にインクを特別調合してつくるという、甚だ手間のかかる工程を経ることになります。さらにM氏のプロの目が光ります。
M氏 「このグレー80なんですが、文字通り80濃度での調色は避けましょう。使用文字のサイズ、最小で何Qですか?」
私 「え、何でですか? もしかして紙質との関係か再現性の問題ですか?」
M氏 「そうです。もちろん利用する紙にも関係しますが、テキストサイズ小ければ小さいほど認知的には実際の80よりも濃くみえます。数%濃度を変えて視認上80に見えるように調整しましょう」
ここまでくると些か滑稽ですらあることでしょう。T氏の目の解像度がそこまであるというのは、さすがにないだろ。と。
されど名刺
こうして後日、使われるかどうかすら怪しいただの高級名刺は紆余曲折のうえ無事納品されました。仕上りを必ず確認するのが常ですが。ほんとうにシンプルな何の変哲もない小さいカードですが一目みてクオリティが高いものに仕上がっていることは確認できます。ただ繰り返しいいますが、「欲を出して難局をつくりだしただけ」の仕事です。でもそういう仕事、あってもいいと思いませんか? エゴは人を選びます。そうしてもいいクライアント限定なのです。勿論、そこにはしっかりとした理由があるという寓話でした。
紙媒体は特にそうですがグラフィックデザインのように全体の雰囲気とか印象で乗り切れてしまうようなどこか表面的なものでも、実はプロダクトとしてのエンジニアリングがしっかりあったりします。
一方で、デザインの裾野を拡げていくという意味ではAIもネット印刷も大切ですし、賃金が上がらない日本においてこうした動きが副業の多様化などにもつながって数年後には新しい景色がみれたりするのかなとも思ったりしてます。その時にあらためてプロクリエイションの再定義が必要になるのかもしれません。

