『シェルター』 第4話 (最終話)
前回までのあらすじ
→ 『シェルター』第1話
→ 『シェルター』第2話
→ 『シェルター』第3話
「ピアスを開けた日から、何かが少しずつズレはじめた。逃げ込んだカフェで、ユウはエイジに出会った」
部屋で一人、鏡を見ながら今日のことを思い出した。エイジさんは、今までに会ったことのない大人だった。私の想像通りにはまったく動かないような、そんな大人だった。彼がどんな高校生だったか、もっと聞いてみたかった。ケーキを焼くMARSのもう一人の住人がどんな人なのか、会ってみたいとも思った。
ケーキのことを考えたとき、はっとした。そういえば、私は今日、お金を払っていない。支払いのことを考えて、さらにもう一つのことに気がついた。私は、今日、紅茶を注文してもいない。「歓迎するよ」というエイジさんの言葉は、本当だった。エイジさんがだしてくれた紅茶の温かさは、まだ私の胸のあたりに残っているようだった。
私は、今日、ケーキを食べに行きたかったのではなくて、MARSで不思議な世捨て人と話をしたかったのだと、そのときわかった。身近な異邦の地で、新しい人に会う可能性にかけたかったのだ。その証拠に、実はケーキの味は覚えていなかった。MARSに向かったときの自分の勢いに説明がついた。そこにいた人は、世捨て人ではなくて、血の通った普通の人だったけれど。
でも、私はエイジさんにどう思われただろうか。行き場のない、かわいそうな子、などだろうか。話し相手をしてやるのが大人の義務、とでも思われたかもしれない。私は、彼に迷惑をかけたのではないか。いきなり行って、いくつか失礼なことも言った。急に後悔の念が押し寄せてきた。
お礼を言いたい。お詫びも言いたい。なぜカフェを開いたのか、ききたい。「殻」とか「鳥」とかのわけのわからない話の続きを、もっと聞いてみたい。今日、お金を払い忘れたことは、幸いだった。だって、もう一度、あの場所を訪れる理由になるから。
ところがその後もMARSに行けない日々が続いた。いや、行けないというよりは、行かなかったのかのかもしれない。下手なMARSのポスターは、私が行った数日後にはがされていた。学校では悪夢のようなくじ引きのホームルームが過ぎた。私は「D」にして大道具係の部門長にも就任した。卒業式も過ぎた。
私が受験を頑張って進学校に進んだのは、いい大学に行くためだった。でも所詮、大学も日本の学校の一つなのだろう。もしこれまでの学校と同じような場所だったら、私は行ったことを後悔するのかもしれない。いい大学に行って、いい職業に就く、という漠然とした将来を見直す必要があるのかもしれない。ピアスをあけて変わったことは、学校が私の避難所でなくなったことだ。その庇護のもとを私は去り、そこは今や疑わなければならない場所へと変わっていた。
もう一度MARSに行きたい、となんども思った。でも、私は動けなかった。自分で蒔いた種だけど、初対面の自分の馴れ馴れしい振る舞いを思い出すと、われながら情けなくなった。次にMARSに行ったとして、同じように演技できる自信もなかった。それに、MARSにいる私がガラス越しに帰宅時の母に見られる可能性を考えると、面倒だった。こうした理由以外にも、行けない理由をいくつも思いついた。体調や気分のせいにした日もあれば、学校の課題のせいにした日もあった。
絶対に行かなければならない、支払いという理由が一つあったのに。エイジさんの、聞こえなかった「またおいで」の口パクを何度も思い出した。
卒業式の数日後、私がピアスを開けて二ヶ月がたったころ、MARSのエントランス側の窓に突然ポスターが貼り出された。間違いなく、昨日まではなかったはずだった。
「バレンタインフェアー」と全く同じデザインで、「ホワイトデーフェアー」。いや同じではない、白とピンクが反転している。もしかして「ホワイトデー」だから、白を強調したのか。その安易すぎる発想、パソコンに向かって目力を出すエイジさん。想像すると、最高に喜劇的な場面だと思った。ほとんど無意味な色の変化が馬鹿馬鹿しくて、可笑しくて、くだらなかった。エレベーターに乗ってから降りるまで人と一緒だったから、笑いをこらえるのが大変だった。
家に入るなり、今日は私が行くと母に宣言し、ゴミ捨ての予約を取った。あのポスターをもう一度見て、笑いたい。夕食を終え、手際よく家のゴミをまとめあげ、エレベーターに意気揚々とむかった。
エレベーターを降りると、私はゴミ袋を持ったまま、エントランスでしばらく立ち尽くした。ポスターが二枚になっていた。
アルバイト急募
条件
・やる気問わず
・年齢 高校生が望ましい
・ピアスが似合うこと
・時間帯 学校帰りにふらっと
待遇
・応相談
・勉強時間の確保はお約束いたします。御承知の通り、暇ですから。
店主
これには笑えなかった。電撃に打たれて髪が逆立ったような気がした。サンダルでパーカーをはおり、ゴミ袋を持った私は、一体どうすればよかったのだろう。でも、この電撃のような衝動を受けたいま、行かない理由は一つもなくなった。
MARSの店内は明かりを落としていた。レジの向こうにかすかに人影が揺らめくのが見えた。
袋を右手に持ったままドアを左手でひいて、こんばんは、と言った。
まもなく、空っぽのショーケースの下から、背のすごく高い女性が現れた。バレーとかバスケットの選手みたいに大きい。エイジさんよりもはるかに大きい。190センチ、いやもっとありそうだった。MARS全体が小さくなった錯覚を覚えた。彼女の前のレジはおもちゃみたいだった。とにかくそんなに大きい、そして美しい女性を私は初めて見た。
その人は、綺麗な長い髪を後ろに束ねて、やや胸元の開いた艶のあるオレンジのワンピースを着ていた。そして左手首から左肩、鎖骨にかけて、びっしりとタトゥーが入っていた。私は言葉も出ないくらい驚いたけれど、彼女は、満面の笑みで迎えてくれた。目元も、口元も、笑っていた。まるで、私が来ることがわかっていたかのようだった。
以上で高1女子とピアスとカフェの話を終わります。
『シェルター』2025年版、約13000字、最後までおよみくださったみなさま、本当にありがとうございました。
「あとがき」がわりに、このお話の背景や解説(?)のようなものを、次回は書いてみたいと思っています。
