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東博の池がなくなる前に─なぜ水は人を賢くするのか?

上野・東京国立博物館の本館前の池が芝生に改修されるという発表がされました。

もちろん驚いた。驚きと共に、あの池がなくなることに思っていたより寂しさを感じた。
SNSで色々な方の反応を見ると、賛1:否9くらいに感じる。なんなら喜1:哀3:怒6といった感じでしょうか。怒りの部分はもはや憤怒。その多くが「みんなが来たくなる博物館」というコンセプトで作られる謎の舞台と開かれるというコンサートやビアガーデンがあまりにも不要な試みである(それが諸々の資金に回されるとしても悪趣味)、というものです。

◯東博と池

池の管理が大変だから芝生にするくらいの変更だったらまだしも、ここまでの改悪具合を見せられてしまうと、今まで当たり前だと思っていた池がどれほど博物館の品位を保つ魅力的な存在だったか思い知らされた、という方も多いのではないでしょうか。

池に映る、本館・表慶館の姿が好きだったという方も多いでしょう、もちろんなすにきびもその一人です。やっぱり日本人は水面に何かが映るということが好きなんだなー!とここで思うわけです。逆さ富士ならぬ、逆さ東博がもう見れなくなってしまうと思うと、その後にできるものがどんなに良いものだとしても一つの素晴らしい情景が失われることに変わりはないわけです。

さらに池の魅力を考えるにおいて博物館の展示を見る前、見た後はなるべく心は静かな状態でいたい、という感覚も真っ当だと思います。水面の煌めきや小さな揺らぎは、私たちの脳の動きを落ち着かせ、色々な情報を吸収する準備、また見た後整理するための手助けになるでしょう。美術館や博物館に行くと、なんだか勉強した気持ちになるけれど、それは水の効果が大きな役割を担っていると思います。

◯日本人と水

そもそも日本人は“水を見る”ことで思考の筋肉をほぐす文化を持っているのかもしれない。美術館で言っても水が設置されるところが多いですが、公共空間の噴水に、神社の御手水や庭園の水、、、枯山水という概念だけの水でも日本人の心を落ち着かせる力を持っている。温泉なんかも視覚や聴覚の触れていない知覚の時点でもたらすリラックス効果が大きい。

1/Fゆらぎなどよく言いますが、水が人間の頭からノイズを消して落ち着かせてくれるのは生物的にも筋が通っている。それが博物館や美術館に適応された時私たちは賢くなった気がする、そういう効果はあるのでしょう。日本人だけ特別この仕組みが伝統レベルで浸透しているのかな?

◯反射人気の印象派

なぜなら、視覚のみ水という括りの中で考えても日本人は水の絵が大好きだから。モネの睡蓮が展覧会をひらけば大盛況!というほど日本人の心に深く根ざしているのもこの文化の延長と言えそうです。水のイメージによる癒し効果と、水面だけが続いているという情報のシンプルさ、その反復とリズム、しかも反射も描かれているとくれば、全てが日本人に刺さる要因。

印象派の「反射」と言えば、ギュスターヴ・カイユボットもすぐに浮かびます。オルセー美術館にでは、カイユボットの《床削り》が日本人に特に人気で、多くの人が作品の前でじっくり眺めていくそうです。

また、もう一つの代表作、シカゴ美術館にある《パリの通り、雨》も素晴らしい反射作品。反射を描かせたらカイユボットの右に出る者はいません。都市の雨の情景が人を落ち着かせる現象は、都市という情報がパンクして脳が休まらない空間が、水によって整理される癒し効果がより分かりやすくなっている感じがする。また、反射を見ることが世界を別角度で再認識でき得る行動としても成立していて、それも人が賢くなる(なったように感じる)体験と言えるかも。

◯水面のゆらめき

水面の作品といえば、最近国立西洋美術館の常設展にクリムトの風景画が初展示され話題になりました。

グスタフ・クリムト《アッター湖の島》。
画面奥側から徐々に寄せてくる水面のゆらめき。鑑賞者が静かな世界にぐっと入り込めるような構図と、クリムト的な色彩で描かれる抽象化された揺らぎのリズムが楽しい。画面手前側では揺らぎ成分が大きく、奥側では向こうの島と山並み?が映し出されているようにも見える、反射も同時に感じられる作品です。

そして、今回の展示ではおそらく類似作品としてアクセリ・ガッレン=カッレラの《ケイテレ湖》が横並びになっていました。

フィンランドから来た心が澄み渡るような反射作品。奥に山、右上の隅に島というクリムトの作品とかなり似ているところも気になりますが、こちらは反射成分強め。しかしよく見ると、ジグザグした水の流れの手前側に、水面の微細な揺らぎが描かれているのが分かります。クリムトの描く湖は
揺らぎ>反射
で、こちらのカッレラは
反射>揺らぎ
と言った感じでしょうか。個人的にはクリムトの作品よりもこっちの方がリアルで脳みそが安らぐ気がする。

そしてこの二つの並びから部屋の奥に進んだところにあるのが、お馴染みシニャックの傑作。

《ケイテレ湖》が水の反射に重きを置いた作品だとすれば、さらに水の反射ときらめきの光学要素だけをとことん追求したのがこの《サン=トロペの港》と言えるでしょう。この作品に限らず、シニャックが生涯かけて研究したテーマですが。

シニャックの点描画はスーラと比べて点が大きくタイルのようにも見えるので、近づいた時にデザイン的な楽しみ方もできるという唯一無二性が好きです。その要素はクリムト的でもあります。のちにフォービズムに分類される画家たちがシニャックに倣って描いた点描ほど大雑把ではなく、しかし見えないほど小さくはなく、視覚と光学の理論とデザインの絶妙な塩梅。

※ アンリ・マティスの点描↓

ところで、先ほどの二つの水作品、《アッター湖の島》《ケイテレ湖》に戻ってじっと見ていると日本のあの絵が思い浮かばないでしょうか。

《漣》1932

日本画家、福田平八郎の《漣》。
こちらも文字通り池の水のゆらぎが追求された作品。反射の要素はほぼゼロと言っていいでしょう。先ほど二つの作品、特にクリムトの《アッター湖の島》を見た時、似ている!と思いました。なんか水面の傾きまで似た感じだし。

《アッター湖の島》から見るとゆらぎをさらに抽象的に、平面化するとこの《漣》になります。《アッター湖の島》は山の反射や、島の存在からまだ反射や奥行きの要素が確かにありましたが、対してこちらは完全に無駄な要素を排除した究極の揺らぎ絵。

見る人によっては初めは水とも認識しない、例えば李禹煥の作品のような抽象性をも持っているでしょう。視覚的な水ではなく、概念的な水と言えます。

李禹煥 《点より》1977

つまり今回あげたクリムト、カッレラ、シニャック、平八郎の水の絵を順番に並べてみると

視覚的な水←ーーーーーーーーーーー→概念的な水
シニャック←→カッレラ←→クリムト←→平八郎

となるでしょう。モネの睡蓮がここに入るならとクリムトの間くらいでしょうか。クリムト寄りで。

参考 福田平八郎《水》1958
こちらはモネの睡蓮を彷彿とさせる?

そもそも日本人の美的感覚には、視覚的にも屏風の伝統にはじまる平面的な水が根付いている。平八郎の感覚に近いクリムトの平面的なデザインは日本でも超人気です。また枯山水の例にも見られるように、「賢くなる水」を感じ取る時、視覚の認識では違う存在を概念的には水と認識する。そんな文化が強く根付いているのが日本人の特徴なのかもしれません。実際屏風に描かれる水も西洋の美術史から見ると全く水には見えないわけで。

そんな感じで、上野で見られる水から日本人の水意識について考えてみました(福田平八郎《漣》は大阪)。東博の水に関してはやはりなくなると寂しいですが、東博は改めて発表するということも言っているみたいなので、今後の意見の集まり具合によっては良い方向に進むことがあるかも!?続報を待つ!!

11月20日追記:
池の基礎はそのままに芝生にするだけなのでいつでも戻すことが可能だそう??イベントも常設化しないという大量の批判を受けて、一応の対応を発表しましたが、どうなっていくんでしょう、、、。

おわり

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なすにきび...勝手美術 偏った美術愛ですが、面白いなと思っていただけたら、いいねフォローなどよろしくお願いします。大変はしゃぎます。