見出し画像

言語化できる層と腐った空気の物語との付き合い。観客の私は影絵芝居にしがみつく

※このnoteは前回記事のような論と提言のようなものではなく、おおむねエッセイです。

言語化できる層は、なぜ不快感を抱えながら物語に付き合い続けるのか。

前回の記事で、言語化できない層が静かに離れていく話を書いた。

今回はその裏側だ。

言語化できる層には、五つの力学が働いている。
もちろん人それぞれなので、これらがあてはまるが全てではない人もいるだろうが並べてみる。

一つ目。
不快感を言語化できるから、「まだ解釈の余地がある」と思えてしまう。
言語化とは、対象を整理することだ。
整理できると、「自分の読み方次第で意味が変わるかもしれない」という可能性が残る。
可能性が残る限り、離れにくい。

二つ目。
愛着があるから、裏切られるほど執着が強くなる。
これは逆説的だが、感情の投資量が多いほど、損切りのコストが上がる。

三つ目。
不快感そのものが、考え続ける燃料になる。
「なぜこうなったのか」という問いは、対象への関与を続けさせる。

四つ目。
「自分が正しく読めていないだけかもしれない」という疑いが残る。
言語化できる層は、自分の読みへの自覚がある分、その読みへの懐疑も持ちやすい。

五つ目。
言語化して吐き出す場所を持てる。
SNS、考察記事、二次創作。不満を外に出せるから、内側の圧力が下がり、離れずに済む。

ただし五つ目だけ、非対称な状況がある。

SNSで吐き出すと、擁護粘着、反論の外装をまとった意見の押し付けが来る。これは観察できる事実だ。

結果として、言語化できるにもかかわらず吐き出せない人が増える。不快感が内側に溜まり続け、この力学のいくつか、あるいは一から四すべてが、より長く続く。
言語化能力が、皮肉にも「離れられない」を強化している。

息苦しい空気から離れた。ではなく、物語の空気を言語化して物語から離れた人もいるだろう。

ここでは「離れられない」を考えたいので、もう少し踏み込みたい。
言語化できるということは「吐き出している人が何故、不快な物語から離れないのか」も、言語化できるはずだ。


ここで、前回も登場したMLPの話を少し続ける。

シーズン6第16話、「The Times They Are a Changeling」(スパイクが偏見に立ち向かい、成長を描いた好評回)で、Spikeはこんな趣旨のことを言う。
自分はずっと失敗を重ねてきた、と。

Princess Spike(スパイクが暴走し、式典を混乱させる回)もEquestria Games(大競技会でスパイクが空回りし続けるコメディ回)も、Spikeの口から拾われた。
なかったことにされなかった。

これにより、二つの失敗回はSpikeの物語の一部として回収された。不快感がカタルシスの燃料に変換された。私の感想は「遅いよ、もっと早くやれよ。でもSpikeがちゃんとSpikeだったのでヨシ」だった。
それで十分だった。

ただし、条件がある。

「なかったことにしない」「キャラクター自身に拾わせる」——この二つを満たしたときだけ、変換が起きる。

そしてもう一つ条件がある。不信感の総量だ。

不信感が一定量を超えた状態で、良いものを出されても「今回は良かったけどさ」どまりになることがある。これもまた、観察できる事実だ。
変換は起きない。燃料は燃料のまま、くすぶり続ける。


ここで、少し古い話をする。

「少女革命ウテナ」
1997年のアニメだ。

ざっくりと抽象化する。ある構造・枠組みの中に閉じ込められたお姫様がいる。その構造の中でしか自分でいられない。主人公ウテナはその構造を否定し、お姫様を救い出そうとする。お姫様はウテナを刺す。ウテナは刺されて尚、手を伸ばす。

おせっかいな希望の物語だ。

私はこの作品の熱烈なファンだったことは一度もない。本放送を途中から見ただけで、全編通して視聴したこともない。それでも、この作品の骨格は私の中に残っていた。


前回の記事を書き終えたとき、ある程度「くるしい」から回復状態に入ったとわかった。

公式でDが「刺された」後からしばらく離れていた、それまで毎日見ていたZとDのファンムービーを、久しぶりに視聴した。


その中でDはZへ手を伸ばす。苦境の中で、それでも手を伸ばす。

「そうだ、何度でも手を伸ばそう」と思ったとき、ウテナがふいに来た。

三十年近く前に断片的に見ただけの物語が、この瞬間に機能した。


後から気づいたことがある。

私が書いている漫画シリーズの構造を、ウテナと同じ方法で抽象化してみると——構造・枠組みの中で自分でいられるZ。その構造を否定し、救い出そうとするD。ZはDを認めず、DはZに一度は決別した。それでも手を伸ばす。

ほぼ同じだった。

意図して引用したわけではない。ウテナが私の作品の骨格になっていたと気づいたのは、昨日のこと。プロットを完成させて3か月以上経過した後だった。

受け継いでいた、と思った。


物語の失敗、違和感、不快感は、カタルシスに変換できる。

ただし条件がある。
なかったことにしないこと。
キャラクター自身に拾わせること。
不信感が限界を超える前に、動くこと。

ウテナは、そのどれも関係なかった。

条件なしに、およそ三十年たった物語が支えてくれた。

刺されて尚、手を伸ばした話を、断片的にしか知らない私のところまで届いて、支えてくれた。

ZもDも主人公ではないから、物語にでしゃばる必要性は皆無だ。
しかし、公式のZとDの関係は今、三十年経っても人の心を支えてくれる物語になるポテンシャルを秘めている。
これほど不快感の輪郭をはっきりさせた今でも、公式の物語を見続ける理由は単純だ。
私はそれが見たい。

冒頭で挙げた五つの力学は、言語化できる層を「離れられない」状態に縛る。しかしもう一つ、見落としていた力学がある。

言語化できる層は、物語のポテンシャルを読んでしまう。

ポテンシャルを読んで、不快感がカタルシスに変換される時を待ってしまうのだ。

失敗した描写の中に、本来あるべき姿を見る。
「ひょっとしたら次の展開で、あるべき姿が示されるかもしれない」という期待や願望。
不快感の輪郭をはっきりさせるほど、「こうであればよかった」という像が鮮明になる。その像が、離れることを許さない。

そしてときに、三十年前の物語がその像を肯定してくれる。

物語とはそういうものだと、私は思っている。だから描く。

止まった私の手は、再び動き出した。

いいなと思ったら応援しよう!