人事部付 真田雪乃の議事録<2-6 推しの名は。>
前回までのあらすじ
シロヤマ・コーポレーション人事部付、2年目の真田雪乃は、数字だけでは測れない「営業評価」のあり方に疑問を抱き、別途アンケートの導入を検討していた。その答えを求めて訪ねたのは、南花営業所の夏目エリア長。だが、予想外の営業同行を通じて、雪乃は一人のお客さんの人生に寄り添う経験をする。
「売上には、お客さんの選択が、全部詰まっている。」
夏目エリア長の言葉とその姿に触れた雪乃は、やがて「アンケートは必要ない」という、自分なりの答えに辿り着くのだった。
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第二章 営業がわからない
第六話 推しの名は。
家事男子の朝は早い。
朝四時半にセットしたアラーム通りに起きると、枕カバーとシーツを剥がし洗濯カゴに放り込む。家具周りについた埃を全て払い、床に落ちたのを見届けるようにしてからそれら全てを掃除機で吸い取る。その後は全ての床と窓にアルカリ電解水を吹きかけて空雑巾で念入りに拭き取る。トイレ、洗面所、風呂、も同様だ。そうはいっても、毎日行われる行為なので、大きく汚れることはないのだが…。
オタク男子の朝は、その次に早い。
全ての部屋の掃除を終えた朝五時。ここから次の儀式が始まる。推しのアクスタやグッズ周りには特別な清掃を施すのだ。いくらアクリルケースに入れてるとはいえ、すぐに埃が溜まってしまう。柔らかい布で傷つけないように、缶バッジが入った袋やアクスタ、CD、その他諸々…を丁寧に拭き取らなければならない。こうして推しには毎日の清潔が保たれるのだ。
自分の身支度なんて二の次。まずは部屋、そして推しを整える。
それが直哉のルーティンだ。
床を拭きながら思い浮かべるのは、大体その日に案内するお客さんのことだ。
直哉は、もう5ヶ月の付き合いになる蜂谷芳樹さんを、今日もまた案内する予定となっていた。
蜂谷さんは41歳の単身男性だ。
心機一転、引越しがしたいという理由で出須賀営業所を訪れ、直哉が内見を担当した。
しかし、約5ヶ月経っても物件が決まらない。
通常、賃貸を探す客は1ヶ月程度で決まるものだし、急ぎでない場合は、探しているうちにフェードアウトしてしまうことも多い。しかし、蜂谷さんは、約2週間に一度は直哉のいる出須賀営業所を訪れては、物件の情報提供を求めるのだった。
蜂谷さんには条件が多い。
駅徒歩5分以内、南向きは絶対、築3年以内、リビング6畳以上…
合っていないと、「このチェックリストに合ってないじゃないか。」と自分で作ったチェックリストを指で突く。
そして、条件に合わない、気に入らない、納得ができない…と言いながら帰っていった。
「物件ですから…どうしても理想通りというのは難しくて…優先順位を教えていただければ….」と言っても、
「もういい。理想の物件が出てくるまで、俺は住まないから。」と突き放してその日は終わってしまう。
それなのに、またしばらくすると直哉宛に「新しい物件は出たか、また情報教えてくれ。」と連絡が来る、その繰り返しだった。
いつも蜂谷さんに主導権を握られてしまい、家事動線の提案どころではない。そして、決まらない蜂谷さんの案内で半日は費やしてしまうため、周りからも同情の目で見られていた。
「もうあの人は冷やかしなんだよ。決まらないんだから、あんまり追客しても無駄になるだけだ。」と言う人もいた。
担当を変えればうまくいくかもしれない…と、所長に相談して蜂谷さんに言ったが、「俺が気に入らないっていうんですか」と逆に怒られた。
所長も同情的になり「仕方がない、決まるまで付き合ってやるしかないよ。」と言った。
下村さんはその度にからかってくる。
「あのお客さん、きっと直哉のことが好きなんだよ。」
「やだなあ…僕にその気持ちはないですよ…」
「そうじゃなくてさ、なんていうか、推してるんだよ。直哉のこと。」
「推し」という言葉に、直哉は苦笑してしまう。
自分は本気で推しを推しているのに…最近、あまりにも「推し」が気軽に使われ過ぎている。
昨晩、雪乃も「推し」というワードを使っていたのを思い出した。
雪乃からLINEの電話がかかってきた。直哉が社員総会の打ち上げの時に話した、顧客満足度アンケートの件が実現しそうにない件を平謝りされたのだった。
「や、大丈夫だよ!ありがと!理由がわかって、僕もすっきりした…それにしても、夏目エリア長と同行か…営業としては、正直うらやましいな。」
そう直哉が言うと、雪乃は電話越しに明らかに照れていた。
「すごい優しくてかっこよかった…憧れ超えて、推し…ってこんな感じなのかなぁ…」
「推し…って!社内の人なのに!」
直哉は吹き出した。
「…エリア長の言葉、たくさんメモしてる!えっとね…例えば、『自己開示は呼び水』…って、すごいかっこよくない?お客さんに話してもらうために、すこーしだけ自己開示するんだって。」
「推し」と「自己開示」
2つの言葉が直哉の中でつながった。
(彼女に…賭けてみるか。)
直哉は、アクリルケースの中から拭いたばかりのCDケースを取り出した。
*
薄いピンクを背景に、5人の女子が飛び跳ねているジャケット写真を、直哉は、ついチラチラと見てしまう。
まさか「パンナコッタ・パニャニャンダー」のCDを会社に持ってくるとは思わなかった。パンナコッタ・パニャニャンダーとは、シュガレッタ・エンターテインメントに属する女性アイドルグループの一つだ。
ジャケット写真の右から2番目で、一番高く飛び跳ねている竹之内杏は、「あんぷりん」と呼ばれて、親しまれていた。
そして、あんぷりんこそが、直哉の 「推し」だったのである。
平日休みなので、頻繁にライブに通えるわけではない。ただ、彼女の配信があれば必ず視聴する。そして、毎回数千円かの投げ銭をするのが直哉なりの「推し活」だった。ツインテールに、弾けるような笑顔が愛らしいあんぷりんは、あらゆることに板挟みになった心を癒してくれていた。発展途上のアイドルと自分を重ね合わせて、一緒に頑張っている気持ちになっていた。
蜂谷さんが来店する前に、社用車に「パンナコッタ・パニャニャンダー」のCD…せっかくなので、あんぷりんがセンターを務める代表曲「とろけるパンナコッタ」が最初に流れるようにセットした。
やがて、蜂谷さんが来店した。
そして、少し雑談した後社用車に案内する。
エンジンをつけた途端、「とろけるパンナコッタ」のイントロが流れ、直哉に緊張が走った。通常、FMラジオを流している社用車内で、こんな曲を流すのは異例のことだ。
とろけるパンナコッタ
作詞・作曲:春元崇
ねぇ キミのまえでは いつも素直じゃない
ほんとはね とっくに
とろけそうな 恋してる
アイスみたいに溶けるの やだな
ゼリーみたいに震えるの やだな
でもきっと(ふわり)きみも同じなら
こわくないよね?
とろけるパンナコッタ 甘いきもち
ミルク色の ヒミツをあげる
ふれてしまったら もう戻れないよ
キミだけに このとろける想い
蜂谷さんの反応を伺うと、不機嫌そうな横顔だった。
そして、「この曲…今流す曲じゃないだろ?」と咎めるような口調で言った。
「そうですよね!失礼しました、他の曲に…」
蜂谷さんは、慌てる直哉を静かに制した。
「どうせシュガレッタなら…ロンケンだろ…!」
直哉はハンドルを握りながら、思わず蜂谷さんの顔を見た。彼は、フロントガラスを見据えるのみで、相変わらず何を考えているのか分からない。
しかし、一つ確信したことがある。
蜂谷さんは、きっと…
シュガレッタ・エンターテインメントのもう一つのアイドルグループ、「マカロン研究所」のファンだ。
ファンじゃない限り、マカロン研究所をロンケンと略したりしない。
「…誰推しですか?」
「…しずったん、いや、若宮しずく推しだ。」
「しずったん」と言いかけて、言い直したことに直哉は吹き出しそうになった。直哉の「あんぷりん」呼びも大概だが、「しずったん」呼びは相当なオタクである。マカロン研究所のエース、若宮しずくのことも直哉は知っていた。色白で大きな瞳が印象的な正統派美人で物静かな性格、都内の現役大学生という才女で、クイズ番組でも活躍している。合理的、完璧主義な蜂谷さんが好みそうな優等生タイプだ。
「せっかくなので、しずったんがセンターの曲にしましょうか。」
直哉はCDを停止し、スマホを動画サイトに切り替えた。しずくがセンターを務める、『シトラス・フレーバーの約束』を検索し、再生ボタンを押す。
明るくて快活な曲調中心のパンナコッタ・パニャニャンダーとは対照的に、マカロン研究所は上品で叙情的な曲がメインだ。『シトラス・フレーバーの約束』は、しずくがセンターを務める曲であると同時にマカロン研究所の代表作でもある。
シトラス・フレーバーの約束
作詞・作曲:春元崇
ガードレール越しの川 ふたり歩いた帰り道
制服の袖が少し 風に揺れてた
スマホの地図にないよ あの日見つけた場所なら
夕焼けがビルの窓 宝石に変えた
どんな夢も 怖がってたね
でも笑って 「平気」と言えた
君が指差した あの灯りが
まだ知らない 明日(あす)を照らすよ
約束しなくても 心にある
シトラス・フレーバーの未来
柔らかなしずくの声が叙情的な歌詞をなぞり、直哉の心もじんわりとさせた。
「いい歌ですよね。」
すると、蜂谷さんが口を開いた。
「この歌詞の聖地…ここの近くにあるらしい。」
「へっ…そうなんですか?」
「ガードレール越しの川とか…、よくありそうな風景だが、実は調べてみたらちゃんと聖地がある。作詞春元崇となっているが、しずったんがセンターになるにあたり、しずったんが幼い頃に見た原風景を尋ねたそうだ。だから実質の作詞はしずったんなんじゃないかと、俺は思っている。」
聞けば聞くほど…危ないオタクだ。
「大丈夫ですか…?現住所とか知ってたりしませんよね…?」
「心配するな。そこは一線を引いてる。」
5ヶ月間、蜂谷さんとやりとりをしていてこんな会話をしたのは初めてだ。しかし、このまま物件に行って、また決まらなかったら…いつもの繰り返しになってしまう。
直哉は、思い切ってみることにした。
「物件に行く前に…その聖地、行ってみたいです。場所、教えてくれませんか?」
蜂谷さんは「ああ。」と言って、スマホのメモ帳から住所が記載している画面を直哉に渡した。カーナビに入力すると、車で20分ほどで、直哉がいつも何気なく通り過ぎている場所だった。こんなところにアイドルになった女性の原風景があり、オタクに「聖地」と呼ばれるなんて、不思議な気持ちだった。
「聖地」の近くの駐車場に車を停めた。夏はまだ始まったばかりなのに、外に出た途端に汗が滲んでしまう。歌詞にある通り、白いガードレールが陽光を跳ね返して光り、川がゆっくりと流れていた。
「しずったんは、この景色を見て何を思ったのか…俺はいつも考えている。」
「そうですね、気になりますよね…。」
直哉は周りを見回した。昔ながらの静かな住宅街だ。立ち並ぶ戸建てからは鉢植えに生い茂った草花が見えて、ぽつぽつと古いマンション・アパートも建っている。その中に、見覚えのある、白い看板が立っていた。
それはまさに、シロヤマ・コーポレーションの管理物件だった。
「あ…あの、近くにうちの管理物件があるんですけど、せっかくなので見てみます?」
言いながら「しまった」と思った。まず築年数からして蜂谷さんの条件から大幅に外れている。駅からも遠い。それだから検索条件から外したのだというのに、つい口が滑ってしまった。しかし、蜂谷さんは表情を変えずに、言った。
「どうせ暇だし、あるんだったら見てみよう。」
この物件の303号室が空いていることを確認し、近くまで車を走らせた。
そのマンションは、ベージュを基調としたどっしりとした構えで、20年前のトレンドが現前していた。そして、そもそもファミリー向けなので、単身の蜂谷さんには広すぎるということも気になっていた。
「こちらが、ハニードロップマンションです。」
「……」
蜂谷さんは、少しハッとした表情をしたが、何も言葉を発さなかった。
しばらく無言のまま、空いている303号室へ案内する。
303号室の室内はクリーニング前のようで、少し埃っぽかった。
「申し訳ありません…クリーニング済みの物件ならイメージが…」
「いや、いいんだ。どうせこの後掃除するんだよな?」
直哉は顔を上げた。蜂谷さんは物件のクリーニング状況にも厳しかった。「住むイメージが湧かないんだよ」と却下になった物件もある。
ハニードロップマンションは全て、3LDK…つまり居室が3つの部屋で構成されている。そのため通常は子供が2人以上いるファミリーが住んでいるのだ。
玄関を開け、白いスリッパを置いて蜂谷さんを案内すると、彼は直哉を追い抜いて足早に全ての居室に入っていった。
あっけに取られていると、今度は直哉の方に向かって早口で尋ねた。
「この物件って家賃いくら?」
「え…13万です。…ご予算からは…」
希望家賃から3万円もオーバーしていたので直哉は言い淀んだ。
「わかった。ここにする。」
「えっ…」
蜂谷さんに出会ってから聞いたことがないような即決の言葉に、直哉は喜びよりも驚きの気持ちが勝ってしまった。
「なんで『えっ』なんだ。空いてるんだよな?」
蜂谷さんがまた不満げな口調になったので、直哉は慌てた。
「失礼いたしました。ありがとうございます。でも、どうして…。」
「この部屋の窓。」
直哉は指さされた窓の外を見て、納得した。
先ほど訪れた「ガードレール越しの川」に風がたなびいている。
そして、遠く西の方にはオフィスビルが見えた。きっと夕焼けがこのビルの窓をキラキラと照らすのだろう。
「ここにしずったんが住んでいたのかは分からない。でも、しずったんはどこかでこの風景を見ていた、記憶にあったんじゃないかって思う。俺はしずったんと…記憶を共有したいんだ。」
蜂谷さんが、もしお客さんでなかったら、「気持ち悪いオタクだな」と軽口を叩いていたかもしれないような発言だ。でも、蜂谷さんの目は真剣だった。
自分はあんぷりんと記憶を共有したいと思うだろうか…あんぷりんの原風景をいつでも見られるなら、使いやすい家事動線を投げ出せるだろうか…。いや、無理だろう。オタク同士ですら、こんなにも分かり合えない。
兎にも角にも、今日、蜂谷さんとの5ヶ月間の物件探しは、幕を閉じたのだった。
申し込み手続きを終えて報告すると、所長や下村さんからは、どうして単身男性がこの物件に…?と聞かれた。少し迷って、「偶然…ものすごく気に入られたみたいです。」と言い、詳しいことは話さなかった。
*
自宅に戻り、また帰宅後のルーティンを行う。不在の間にまた家具や床に落ちた埃を全て吸い取り、床を拭き上げると、白いフローリングは電球に照らされてまばゆい光を放つ。
そして、CDジャケットをまたアクリルケースの中にそっと戻した。
(今日は、連れ回しちゃってごめんね。)
自分の心の声が、静けさにこだました。
帰宅後に床掃除をしながら思い浮かべるのは、今日の仕事で起こったこと、お客さんのことだ。
(やっぱり、営業はわからない。)
でも…考えてみれば、わからないのなんて当たり前だ。お客さんも、一人一人違うんだから。成長とか、進化とか…逆に未熟とかって思ってる方が傲慢なのかもしれない。
ずっと、わからなく…ありつづけてもいいのかもしれない。
わからなくありつづけたい。
不意に思い出した。社員総会の打ち上げの時、雪乃に「営業以外に行きたい」とか、言ったこと。今となっては、あまり話したことがない同期に甘えてしまったことが、すごく恥ずかしくなる。それでも、雪乃と茉莉也は真剣に、聞いてくれて、どうすべきか一緒に考えてくれた。あの二人に、話してよかったと思う。
そして、雪乃は魔法のノートを持っていた…。
なんでも願いが叶って、誰かを召喚できるらしい…。
慌てて床掃除を中断し、雪乃にLINEを送った。
直哉:営業から外れたい…って、ノートに書いてたの…って、消せる?
すると、程なくして既読がつき、LINEが返ってきた。
雪乃:最初から、書いてないよ?
きっと本気じゃないんだろうな、って思ったから(笑)
(第二章終わり:第三章第一話に続く)
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