都蘭山居手帖:「情欲の深淵:孟東籬の独白と、実存を賭けた『愛欲の記』」
ある日、彼は一台の軽トラックを駆り、安住の地を求めて都蘭の海岸線をあてもなく彷徨っていた。竹垣と樹木の向こうに見える流木の涼亭に惹かれ、彼は敷地へと足を踏み入れた。折しも、涼亭では共通の知人が恋人を伴い、お茶を楽しんでいた。それはまるで唐詩の一節――「童子に問えば、師は薬を採りに去れりと」――を地で行くような、古めかしくも穏やかな邂逅であった。
当時、私は屏東・霧台の山深くで取材に奔走していた。知人から電話が入る。「あんたを訪ねてきた客がいる。名を名乗っているが、どうやら顔見知りのようだ」。私は即座に返した。「夜には戻る。必ず会おう」と。私は南廻公路を駆け抜け、逸る気持ちを抑えながら都蘭の農舎へと急いだ。
四時間後、庭に舞い戻った私は、炭を熾し、客人を迎える支度を始めた。菜園からネギや葉物を摘み取り、冷蔵庫から羊肉を取り出す。その傍らで、文学を嗜む例の「酒肉の友」が、私の袖を引き、小声で問いかけてきた。
「おい、本当にあの孟東籬先生なのか? お前、そんなに親しいのかよ。……お前の暮らしはいつも型破りだが、まさか本人と繋がっていたとは。今日の肉は俺におごらせてくれ。先生に会えるなんて光栄だ。このまま残って、二人の話を聞かせてくれないか」
彼と知り合ってから、まだ一年も経っていない。輸入冷凍肉店を営む彼とは、肉の仕入れを縁として、いつしか涼亭で共に赤ワインを酌み交わす仲になった。私が不在のときでも、勝手に茶を淹れて「臨時主人」のように振る舞うような男だ。そんな気取らない関係だからこそ、私たちは互いを皮肉を込めて「酒肉の友」と呼び合っている。
夕闇が濃くなる頃、作家の友人が一人の長髪の女性を伴って現れた。その佇まいは、古の詩歌に詠まれるような、しとやかで雅な趣を湛えている。再会の挨拶もそこそこに、私たちは懐かしい名前に想いを馳せた。
「この一年、台東で根を下ろせる場所を探して、都蘭の界隈をあてもなく彷徨っていたんだ。ふと君の農舎が目にとまってね。この竹垣に、陶淵明のような風情を感じた。どうしても君と知り合い、腰を据えて語り合いたくなったのさ」
彼は実に率直で、飾らない男だった。夕暮れの酒から夜が深まるまで、庭に設えた火盆に薪をくべる。ゆらめく火の粉が煙となって立ち昇り、闇の中に人影が揺らめく。赤ワインの瓶が一本、また一本と空になるにつれ、饒舌な言葉の波は、長年連れ添った旧友の対話のように自然に溶け合っていった。
なぜだろう。あの夜、孟東籬は私に向かって、長年抱え続けてきた魂の彷徨と情欲の苦悩を吐露した。白髪の混じる髪を揺らしながら、彼は静かに語り始めた。
「今もなお、私は情欲に抗えない。情欲だけが、内に渦巻く出口のない苦悶を解き放てるからだ。私は今もその熱に執着し、溺れている。ただ、抗いがたい渇望のままに、追い求め続けているに過ぎない……」
共通の友人と共に、私はその赤裸々な独白、否、彼という存在の根源に触れる生命の物語に耳を傾けた。傍らで聞いていた友人の恋人は、言葉を失ったかのように目を丸くしている。それはあまりに直接的で、いささかの飾り気も、作為も感じさせない真実の告白だった。人生の真実とは、往々にしてこのようなものだ。
中年を過ぎた今、私自身もまた、情欲に対して拭いきれぬ惑いを抱いている。欲望の深淵へ沈み込みたいと願う夜もあれば、形のない思念の彼方で漂うことに安らぎを覚える夜もある。あるいは、惹かれ合いながらも離れていく、その「つかず離れず」の危うい距離感に、ただ身を委ねるしかない。
数年後、別の作家仲間と欲望の深淵について語り合ったときのことだ。一人が相手を真っ直ぐに見つめ、こう言った。「君と交わりたい。許されるか」と。
人の数だけ、情欲という名の物語がある。そして、そのどれもが等しく、隠しようのない人間の性なのであろう。
なぜだろう。彼はなぜこれほどまでに、自身の情欲の深淵を私にさらけ出したのか。「情欲という呪縛から逃れられない。性欲、激情……それらを渇望して止まないのだ。私の内面は情欲という空虚で満たそうとしても底が抜けている。不安でたまらず、無窮の情欲によって、心に居座る虚無と苦悶を埋め合わせるしかない……」
十年後、台北で書籍編集の要職にある友人が、ふとこんな話を漏らした。「孟東籬から六冊もの分厚い手稿を託されたんだ。中身はすべて情欲の記録だった。出版してもしなくてもいいと言われたが……一生の愛欲を、これほど克明に、その細部まで書き綴るとは。ただただ驚かされたよ」
私はその話を聞きながら、日本の浮世絵師たちが命を削った「春画」の世界を想起していた。彼らはひたすら観察と模写を繰り返し、愛欲の繊細な美を鮮烈に描き出した。身体のしなやかな曲線、恍惚の表情、交わりの刹那に宿る生の鼓動。それらを描き出す営みは、官能という名の「絶頂の芸術」に他ならない。来る日も来る日も愛欲の極致を捉えようとした職人たちの執念には、胸を打たれるものがある。孟東籬にとって、それこそが最もリアルな実存の証だったのだろう。彼は絶頂の淵で、実存主義的な虚無を突き詰めていたのだ。
愛欲の深淵に溺れることも、あるいはひとつの人生の選択かもしれない。双方が最後の高みに達しようと決めたその瞬間、人は一生忘れられず渇望し続けた「究極の情景」に出会うのだから。
