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都蘭山居手帖:「記憶の漂流:涼亭に坐し、かつて捨てた名前を拾い上げる夜」

流木の涼亭は、いつしか都蘭山の「伝説」として語られるようになった。だが、噂の中身など私はあえて問わない。それは風に吹かれて漂い、やがて消えゆく霧のようなものだ。 

今の私にとって、この涼亭はかけがえのない生活の舞台である。階下はリビングであり、ダイニングであり、そして静謐な書斎でもある。食卓と執筆机を兼ねた大テーブルで、一人読書に耽る時間。時には友人を招き、肉を炙り、酒を酌み交わす祝祭の時間。長年疎遠だった古い友人が、台北から恋人を連れてやってきて、蚊帳を吊り、寝袋に潜り込んで一夜を明かしたこともあった。彼らもまた、私と同じように都蘭湾の青に魅せられてしまったらしい。以来、この青い海岸の余韻を確かめるかのように、定期的にこの場所を訪れるようになっ

外での仕事を終え、ふらりと戻るたび、私はまっすぐこの涼亭に座り込み、ただぼんやりと空を仰ぐ。ここは、彷徨い続けた私にとっての真の「帰るべき家」となった。ここから毎日眺める青い彼方こそが、人生という漂流の果てにたどり着いた郷愁そのものである。 

涼亭は、私が孤独と自由を呼吸するための聖域だ。台東へ流浪して三年、ようやく手にした、生命が思うままに息づく場所。この流木の涼亭は、生命の漂流であり、空間の漂流であり、想いの漂流であり、そして放逐という名の漂流でもある。 

私は漂流そのものであり、漂流こそが私という存在のすべてなのだ。 

■ ロビンソンの城と霧の中の不条理劇 —— 六時間の記憶の空白

ある日の午後、涼亭で読書に耽っていると、鮮やかなグラフィティに覆われた一台のトラックが、農舎の前をゆっくりと通り過ぎた。ふと顔を上げた先、運転席の男と視線がぶつかり、一瞬だけ時が止まったように凝視し合う。

トラックは一度減速し、ゆっくりとバックして戻ってくると、そのまま路肩に停車した。男は車を降り、庭に入ってくるなり私の名を呼ぶ。私は呆気にとられ、咄嗟にその正体を掴めない。彼は極めて豪快に、私がなぜ都蘭へ至り、なぜ山で暮らしているのかと問いかけてくる。共通の知人や過去の断片を辿るうちに、話は午後から黄昏時まで途切れることがなかった。話題は次から次へと溢れ出すのに、私の脳裏には依然として、彼という存在を示す霧が晴れぬままであった。

後日、彼が都蘭に借りている住居を訪ねた。工作室の片隅で、彼は一冊の作品集を私に手渡しながら、悪戯っぽく笑う。「まだ思い出せないのか」――少しばかりの気まずさを抱え、私は作品集のページを繰った。巻末の年譜に目が止まった瞬間、ある一行の文字が脳裏を強く撃ち抜いた。

「陳明才作品:一九九一年『七彩渓水落地掃』、台大校門口」

その名を見た途端、「陳明才」という記憶の欠片が、霧の中から鮮やかに浮かび上がってきた。強烈な印象として脳裏に刻まれていた、あの芝居の光景。ドキュメンタリー制作に奔走していたあの年、私は台大校門前での彼の舞台をこの目で追い、フィルムに収めていたのだ。それこそが彼との出会いの原点であり、物語が動き出した最初の交差点であった。

不思議なものだ。私の人生には、生涯で数えるほどしか顔を合わせたことのない知人が多い。滅多に会わぬ仲でありながら、再会すれば決まって旧知の友のように打ち解け、周囲からは長年の親友だと誤解されることさえある。映画や演劇への情熱、文化芸術への眼差し、あるいは生と死についての思索。そうした関心を共有する者たちが集えば、会話は自然と熱を帯びる。阿才との再会もまた、漂流の果ての対話であった。それは、閉ざされた記憶の扉を叩く、唯一の鍵のような時間であった。

阿才は演出家として天賦の才を持つ怪才である。彼は私の瞳の奥から、私が「この男は一体誰だ」と悶々としていることを見抜いていたのだろう。何より滑稽なのは、私が六時間もの間、その問いへの答えを出せないまま、彼と他愛のない雑談を交わし続けていたことだ。彼は私を追い詰めることもなく、私がいつ記憶の糸を掴むのか、ただ静かに待っていた。六時間という長い対話の果て、最後に一冊の作品集を突きつけ、「これでも思い出せないか」と問いかける。

「陳明才」という名を目にしてもなお霧の中を彷徨い、「七彩渓水落地掃」という一行を見つけてようやく視界が開けた瞬間、私は自らの記憶力の不確かさに苦笑し、膝を打った。なんという、いい加減でデタラメな再会劇であったことか。

この再会を脚本に仕立て上げれば、不条理で滑稽な舞台となるだろう。互いに何者であるかを確信できぬまま、断片的な記憶を紡ぎ合わせる二人。話題は焦点を結んではぼやけ、記憶の深淵を彷徨いながら、相手の輪郭を掴もうと手探りを続ける。三度推測を外し、的外れな回答を繰り返すうちに、二人は己の過去というものの「不確かさ」に戦慄し始める。共有していたはずの記憶さえも幻影ではないかと疑い、やがて「自分自身の存在」さえも足元から崩れ去るような眩暈に襲われるのだ。

「私は何者なのか」「現実とは一体何だ」「あの記憶は、本当に私たちのものだったのか」


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