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私の台湾農舎生活:「書き、かつ動く:都蘭の農舎で手に入れた『仕事の調律』」

丸二、三ヶ月の間、私は独りで農舎の修繕という終わりの見えない課題と格闘していた。大学院の期末レポート、委託案件の調査報告、そして崩れかけた農舎の修復。工匠の手配から資材調達に至るまで、泥沼のような瑣事が次々と押し寄せる。農舎の内外で途切れることのない要求に時間は寸断され、その都度、思考と肉体を強制的に切り替える必要があった。
だが、そうした状況下で私は「仕事の調律」を覚えた。重労働と軽作業、そして頭脳労働を緻密に配分し、生活のペースを調えていく。肉体を酷使しすぎず、かといって弛緩させない。執筆に行き詰まれば外へ出て鎌を振るい、皮膚を流れる汗に意識を向ける。書くことと、動くこと。この両輪がもたらす興奮は、極限に挑むスポーツにも似た高揚を私に与えた。何年も経た今、この「書き、かつ動く」というリズムは、心身を解き放つための不可欠な術となっている。
たっぷりと汗をかき、水をあおって体を清めた後の休息は、何にも代えがたい。そんな折、土虱が教えてくれた「竹の酒」が疲労を癒してくれる。新鮮な竹筒に米酒を注ぎ、しばし寝かせる。すると安酒の刺々しい香りが竹の清涼な気配に吸い取られ、まろやかな「竹の薬酒」へと変貌を遂げる。
大学時代、山の四季村でタイヤル族の宴に招かれた際、彼らが竹の杯で酒を酌み交わしていた姿が忘れられない。あの時、喉を通り抜けた清廉な竹の香りが、記憶の中で鮮やかに蘇る。樹枝に吊るした竹筒を傾け、ちびりと喉に流し込む。水で喉を潤し、薬酒で神経を呼び覚ます。そうして再び、農舎の日常へと戻っていく。このささやかな儀式が、疲弊した精神を静かに、かつ確実に引き上げてくれるのだ。

早朝、上半身裸のまま側溝に足を踏み入れ、竹垣を編んでいた。そこへ一台の生コン車が通りかかり、突如としてクラクションが鳴り響く。驚いて振り返れば、トラックは既に遠ざかっていた。運転手が窓から左手を突き出し、親指を立ててこちらを称えるように合図を送って去っていく。その背中を見送りながら、私は不意に笑みをこぼした。
釈迦頭農家の主が、バイクのエンジン音を響かせながら通り過ぎる。「飯は食ったか!朝っぱらから精が出るな!」「昼だぜ、休めよ!そんなに根詰めるな!」――そんな朴訥(ぼくとつ)な呼びかけが、朝の気配に溶けていく。隣人のバイクが遠ざかる音を聞きながら、私は彼らとの間に確かなつながりを感じていた。この土地も、この農舎も、ようやく私という存在を受け入れ始めたのだろうか。そんな実感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
夜、窓を開け放てば、山林が運ぶひんやりとした気息が寝室を満たす。そのまま、深い眠りへと落ちる。これほど心地よく、深い眠りに就けたのは何年ぶりだろうか。この農舎に移ったあの夜から、私の夜は途切れることなく、静かに朝へと繋がるようになった。
明け方、目覚めとともに深呼吸を繰り返す。活力が身体の隅々まで満ち、頭も体も極めて清明だ。そのまま新しい一日を始める。その愉悦は、都会では決して味わえなかった、言葉にするのが惜しいほどの喜びであった。


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