第4話サファイアガラスの腕時計 中編:貴方のプリヴィレッジ、夢の東京医科工科大学 【間宮真の機能的ロココ探偵事務所】
7月31日、午前8時。
春一が、弁当を持参して、雑居ビル6階の俺の自宅兼事務所を訪れた。俺がここに開業してから毎日続けられている習慣である。朝食を終えた俺が食器を洗う傍らで、楽しげに手動式コーヒーミルで粉を挽き、ネルドリップを始めた。
ローズオーロラ大理石の鏡面キッチンカウンターの下にある白蝶貝の象嵌で彩られた抽斗からネルを取り出し、淑やかにお湯をくぐらせる。熱湯の蒸気がふんわりと立ちのぼり、端整な彼の指先が、挽きたてのコーヒー粉をそっとネルの上に均す。
ゆっくりと熱湯を注ぐその手つきは優美そのものである。最初の少量は、粉をじっくりと蒸らす時間。粉が静かに膨らみ、ネルの目を通してゆっくりと液体が滴り落ちるのが見えた。
次に螺旋を描くようにお湯を注ぎ、150秒。抽出を終えたら、ネルを丁寧に洗い、水滴を拭う。相も変わらぬ八面玲瓏な所作で淹れてくれた珈琲を、俺に手渡した。
珈琲を味わう俺の対面に座る春一は、カフェオレを注いだマグを手に、嬉しそうに微笑んでいる。
◆
7月31日、午前9時。
俺の事務所の応接椅子に、似鳥結衣子が前回同様、わずかに緊張した面持ちで腰を下ろしていた。
今日は、似鳥結衣子の許可を得た春一も同席している。彼ほどポンパドール様式の肘掛け椅子が似合う人間はまずいないだろう。
机の上には昨日若宮から受け取ったUSBと、その中身を開いたノートPC。
「昨日の件、スマホから証拠が出ました」
そう切り出すと、彼女は小さく身を乗り出す。
「まず、あなたのスマホの中身を丸ごとコピーして、安全な場所で調べました。これは〝中を覗いて壊したり、消したりしない方法〟だと思ってくれれば」
俺は言葉を選びながら、あえて穏やかな声を保った。
似鳥はコクリと頷く。
その頷きは、理解よりも安堵の意味が強かった。
「その結果、あなたのスマホにインストールされていたLocaWatchがどのように働いていたかが分かりました」
「……そう、なんですね」
彼女が小さく呟く。声が震えているのは、怒りか恐怖か。たぶん両方だろう。感情が渦を巻くと、人の声は細くなる。
「このアプリは、あなたがどこにいるかを記録して、外に送るものです。通話の相手や時間、SNSのメッセージも同じ」
俺は画面に並んだ位置履歴や通話記録のスクリーンショットを示す。
「例えば、この地図。先週日曜日、27日の夜、あなたが自宅にいたことも、そこから何分ごとに位置を送ってたかも全部残ってる」
似鳥の肩がわずかに震えた。唇が固く結ばれている。
「これは消してはいません。消すと、後で『そんなものなかった』と言い逃れされる可能性がありますから。この状態なら必要となったときに、警察にも関係者にも、証拠としてそのまま渡せます」
「……じゃあ、親に見せられるんですか?」
「ええ。これは証拠になります。〝思い込み〟ではなく、〝事実〟として話せる」
似鳥は唇を噛んだあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……お願いします。親に見せてください」
これで方針は決まった。次は、何を話すべきか、似鳥と詳しく打ち合わせ、母親との直接対話に臨むだけだ。はっきりと、彼女の本音を引き出しておく必要がある。
「私からお母様にお話しをする為に、まず、似鳥さんの率直なお気持ちを聞かせてください。お母様やご家族に対して、伝えたいことや言いづらいことはありますか?」
「……監視アプリは、許せません。それに、友達と自由に出かけられないのも辛い。門限7時は絶対撤回して欲しいです」
やはり、最初に出てくるのは行動の自由だ。大学生という肩書きも、彼女にとっては鎖の一部に過ぎない。
「今の生活で、特に不快や不自由に感じることは?」
俺の問いに彼女は小さく息を飲み、静かな沈黙の後、やっと言葉を絞り出す。
「……私、今の大学に行きたくなかった。私の希望じゃない進路を母が決めたこと、それがとても、嫌、です」
言葉の端がわずかに震えた。怒りというより、長年積み重なった無力感がそこにあった。彼女の声がわずかに途切れ、沈黙が落ちた。
ここから先は、家族の物語だ。俺は静かに促す。
「大学は、東京医科工科大学でしたね。何故、お母様がその大学に固執されたか理由は分かりますか?」
大学は、彼女と母親の間に横たわる象徴だ。母親の影と、自分の自由の欠片。彼女の胸中に渦巻く葛藤。
「父の母校なんです。……すごくいいところだから、そこに通うべきだって。……母は高卒で、家の方針で大学進学ができなかったって何度も聞かされました。英太叔父さん、叔父から聞いた話だと、母は、母の実家の近くの法律事務所に事務員として就職したらしいです」
似鳥は、少しだけ視線を落として続けた。
「……それで、私は、歩いて通えるところに父の母校の国立大があるのだから、私は絶対そこに通うようにって、私の気持ちが、全部、後回しにされて、それが本当に嫌なんです」
俺の横で、似鳥結衣子の話を黙って聴いていた春一が、声を発した。「ごめんなさい。少しお訊ねしてもいいですか?」
俺と似鳥結衣子が肯くと、春一は、ゆったりと彼女に問い掛けた。
「結衣子さん、本当に、大学に行きたくなかったんですか?」
彼女は、それに強い口調で同意した。
「そうです。私の希望じゃありませんでした」
だが次の春一の言葉に、似鳥結衣子の表情が変わる。
「?……なら、お母さまに譲って差し上げたら良かったのに」
「え?でも」
彼女の、困惑、混乱、そして、僅かな苛立ちを含んだ声。
「大学には、俺も行っていません。でも働けていますよ」
ああ、そうだ。春一は、大学に行っていない。俺は、何故それを忘れていたのだろう。
「それは……、でも」
もどかしそうな似鳥結衣子に、春一は、少し首を傾げながら続けた。
「お母さまは、ずっとずっと大学に行きたくて、結衣子さんはそうでもなかった。だったら、どうして?」
春一は、似鳥結衣子を責めているわけじゃない。ただ、本当に不思議でならない。そんな表情で見つめていた。
「大学は、高校卒業資格があれば、何歳でも入学できるんです。結衣子さんのお父さまは、1人なら、経済的に無理なくご近所の国立大学になら進学させてあげられるんですよね」
俺は、本当に愚かだ。度し難いほど視野が狭い。だから何度でも間違える。俺は今回、似鳥結衣子の視点からしか物を見ていなかった。
自分基準でモノを見る癖。それは、探偵として、人間として致命的な欠点だ。こうして自分に失望するのは何度目だ。
大学に進むことは、当たり前ではない。 進まないという選択もある。望んでも叶わない人間も少なくない。
俺は、親から経済的支援を受けて大学へと進学した。それを今も常識としていた。……春一も榊原も高卒だ。代崎は短大卒。それを知っていたのに?
似鳥の母親は、心の底から大学進学を望んでいた。そして叶わなかった。その深い傷が、娘への愛情と絡まり、似鳥結衣子の進学問題や大学生活への過干渉として表出している。俺はそう推理した。……推理した、だけだった。
「結衣子さん、あなたのためにも、お母さまのためにも。どうしてもお父さまを説得することは、できなかったんでしょうか?」
この依頼を真実、解決するために必要なもの。俺は最初から前提を間違えていた。
似鳥結衣子は、母親を憎んでいるわけじゃない。 絶縁したいわけでもない。
ならば俺が向き合うべきは、母親の執着ではない。俺が対処すべきは、その源泉となっている傷だった。
そんな簡単なことに、今更、気がついた。
黙り込む似鳥結衣子に困った顔をした春一が俺に問いかけた。
「ねえ、真さん。大学ってどんなところなの?俺、行ったことないから。毎日とても大変で忙しい?」
思わず言葉に詰まる。どこから説明すべきだ?
いや、そもそも自由度は格段に高いのだ。
責任ある役職に就き、常にスキルと集中を求められる職場で働きながら、弟のために多くの家事を担う春一と比べれば。
一般的な大学生は、ずっと可処分時間は多く、責任も軽い。
「俺はお仕事が終わったら、弟のお夕飯の準備があるから寄り道しないけど……。結衣子さんのお家では、ご飯の準備は全部お母さまがなさっているの?」
春一の毎日は、思えば、過酷である。弟の生活に合わせて毎朝5時に起きて朝食と弁当を作り、仕事が終われば夕食作りと、翌日の調理の仕込み。
料理というタスクは、実際に取り組めば、時間も手間もかかる。献立を考え、必要な食材を買い揃え、時間等の制約のなかで調理し、適切に使い切る。高度な知的労働であり体力もスキルも求められる。
似鳥の母親は20年から30年前に、高校卒業後に近所の法律事務所で事務員として働き始めた。残業がなければ、終業は午後5時か6時頃。外注やミールキットなどない時代だ。
似鳥結衣子の母親が18歳当時は、実家暮らしの女性は家事労働の戦力とされ、就労しながら家事をこなすことも一般的だった。家庭の方針での就職という似鳥の母親も、一日働いて、その後に家事をこなしていたはずだ。
大学生活など知らない母親に、大学生の自由と制約は理解できない。悪意は、なかった。おそらく、どこにも。
大学生の娘に門限7時を課すその理由は、大学時代を知らない母親の無知と誤解の産物だ。
春一の言葉を受けてから、じっと左手首の腕時計を見つめていた似鳥結衣子が、ぽつりと呟いた。
「私は、大学に進んで当然だと思っていた。周りもそうだったし、親だって大学くらい出してくれるのが普通だと、どこかで思い込んでいた。……でも、〝普通〟って、誰の目線の話だったんだろう」
ぽつりと漏れた言葉に、俺は反論せず、ただ続きを待った。
似たような経済水準や進学志向のコミュニティでは、大学進学は当然であり、その〝普通〟が絶対的な基準になってしまうのだ。
自分の努力や能力とは直接関係なく、社会構造や生まれ持った条件によって得られる有利さ。社会的な特権はしばしば気づかれない。環境が盲点を生み、視野を狭める。
「学費も生活費も、親が出してくれるのが普通だって。……でも、それは私の周りだけの〝普通〟だった」
その瞬間、彼女はようやく、自分の立っている場所を上から眺めたのだろう。
似鳥結衣子は、家事の免除も、通学の近さも、将来に奨学金ローン返済の負担もないことも。全部、空気のように受け入れていた。
特権の存在は、経験しないと想像しにくい。社会的成功を努力の結果と信じたい心理が、他者に同じ前提がないことを疑わせない。
似鳥結衣子の友人もみな大学進学組だろう。授業もサークルも、学歴を前提にした人間関係。そうでない人の苦労を実感したことなど、なかった。……俺と、同じく。
「私、親のおかげで大学に進学できたのに。……でも、そこに〝感謝〟も〝負担〟も感じていなかった」
環境による常識と価値観の固定。人間は、自分と似た価値観や背景、考え方を持つ人々との関わりが多いほど、その環境内の常識や当たり前が絶対的な基準のように感じられてしまう。
「私、自分が進学することを当然のことだと思ってた。でも、それって、当然じゃなかったんだ」
社会的特権の優位性への無自覚、Invisible Privilege。俺も似鳥結衣子も、その中にいた。
思考を整理し終えたらしい似鳥は、俯きながらも、しっかりとした声で、今の彼女なりの結論を教えてくれた。
「大学は、楽しいんです。すごく。……だから、それを当然だと思ってたのは、たぶん、間違ってました」
俺は短く頷いた。
「その気づき、これからの話し合いで役に立ちます」
彼女は小さく息をつき、視線をこちらに戻した。
「その気持ちを、話し合いで大事にしましょう。まずは似鳥さんがどう思っているのかを正直に伝えられるよう、私もサポートします。一緒に準備していきましょう」
俺は、似鳥結衣子に静かに告げた。
「……事実確認と今後の生活への影響を整理するために、次回はお父様とお母様もご一緒にお越しください。誰かを責めるためではなく、同じ情報を全員で共有し、納得できる形にするためです」
春一の周囲は、多くが大卒だ。俺も、そして春一の弟も。
それに外資系企業である職場は、基本的に社会的エリートばかりだろう。春一は、才能を見抜いたエリアマネージャーの独断スカウトにより転職し、結果を出して今がある。
しかし春一には、大学時代など、ないのだ。
どれだけ能力があっても、成果を出しても、評価されたとしても。
大学時代の授業、サークル、ゼミ、友人関係などの会話。学歴や大学文化に基づく、共通体験の欠如による疎外感は別次元で残る。
未経験の春一には、大学生の生活をリアルに理解は出来ない。内容が分かっても、ニュアンスまでは分からない。周囲が大学経験を前提に話すたび、春一は、精神的に孤立したはずだ。
俺は、なんでいままで考えなかったのだろう。大学生の依頼人に自己投影して共感をしていた。けれど大学は、人生の選択肢を確実に増やす。そして大学でしか得られない経験もある。
自らの選択であるなら良い。それは立派で気高いことだ。
だが、自らの選択ではなく、理不尽に、自分にだけ与えられなかったなら。傷になるのは、当然だろう。
「……はい」
似鳥結衣子は、静かに肯いた。
◆
8月2日、午前9時。
似鳥結衣子の両親らしき男女は、俺の事務所に一歩足を踏み入れ、無意識に天井を見上げ、壁に目をやり、足元へと視線を落とした。動きが見事にシンクロしている。夫婦仲は良好そうだ。
5灯の花のシャンデリアが咲く天井。シルク特有の光沢あるライラックの壁。乳白色のクレママーフィル大理石のフローリング。
そして再び、ドアのプレートに書かれた『間宮探偵事務所』の文字に目を戻す。
「え……本当に、ここ……?」
母親は、困惑したように、隣の似鳥結衣子へと問い掛けた。
◆
似鳥結衣子の父親の仕事の都合がつく土曜日に面談を設定した。彼女の要望で今回も春一が同席している。春一は今日も午後から勤務だ。午前ならと大丈夫だと快諾してくれたため、この日時となった。
困惑する似鳥結衣子の両親に、応接セット、ポンパドール様式の肘掛け椅子を勧める。
3人に、ゆったりと微笑んだ春一は、紅茶を淹れるため、優雅な足取りで給湯スペースへと向かった。
春一の美貌に呆気に取られた似鳥結衣子の両親は、背凭れのロカイユ装飾を撫でてから、おずおずと席に着いた。
似鳥の母親の、そっと周囲を見渡す姿には、確かな品があった。些か露骨な父親とは対照的に、失礼にならないように、という配慮を感じる。
探偵事務所という前情報からはどう考えても想像不可能な、ルイ15世様式家具に囲まれたロココ空間に対しても実行出来るあたり、想定以上に、しっかりとした人間である。
着ている五分袖ワンピースは、淡いライムグリーンのフィット&フレアシルエットのミモレ丈。足元は、軽いビジュー装飾のグレーのポインテッドトゥフラットパンプス。
アクセサリーは、8mm程度のあこや真珠の連なる40cmほどの長さのネックレスと、シンプルな腕時計、結婚指輪のみ。その手には、ベージュのトップハンドルバッグ。
TPO、年齢、体格、季節感、顔立ちの印象、その全てに行き届いた、上品な装いだ。
雑な服装は、相手を雑に扱っている証拠、というのは、若宮の言葉だったか。
……この面談について、詳しく話せていないと似鳥結衣子は言っていた。だが、この母親の装いを見る限り、この面談が娘にとって重要と感じていると考えるべきだ。そして、それだけ娘を愛しているのだとも。
父親は、グレーの無地のジャケットに白いシャツ、ネイビーのスラックス、光を抑えた控えめな黒の革靴。堅実さと落ち着き、それを体現するような無難かつ誠実な服装。
やや肩幅の広い体格で、身長は180cmはある。歩幅を妻と娘に合わせてさり気なく調整していた様子と合わせて、少々意外な印象だった。
似鳥結衣子は面談で父親について語らなかった。だから存在感の薄い父親像を想定した。だが、この男が家庭に無関心とは思えない。
椅子に腰を下ろす前にも、妻と娘の様子を確認していた。その所作からも、確かな妻子への思いやりが滲んでいた。
[Makoto Mamiya's Functional Rococo Detective Agency]
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