触れないという作法
はじめに
前回の記事では、たった数文字「わかった。」から、こころが勝手に物語で埋めていく流れについて言及しました。これをパパンチャ(戯論)と言って、初期仏典に示された人の習性です。
そして、ひとりの物語がやがて社会に波及していく現状を描きました。
あれを、自分ひとりの厄介な癖だと思う方がいるかもしれません。
けれども、そうではないのです。わたしたちはみな、多かれ少なかれ、あの物語を勝手に作り出していく自分を知っています。
そして、知っているからこそ、恐れています。
パパンチャに関する3回目の今回は、わたしたちがパパンチャに対処するために選んだ解決策について言及していきます。
削られて行く言葉
恐れた先で、わたしたちが選んだのは、大胆な解決策でした。
こころが空白を埋めてしまうのなら、いっそ空白そのものを、なくしてしまえばいい。
これと同じ構造を持って、社会の局面が、コンプライアンスという名のもとに、消すことに躍起になっています。
人の意見の入りそうな余地を除いて行くのです。こうして、社会と言葉から余白が削られていきました。
意味の揺れる言葉、受け取り方の分かれる言葉は、だんだんと避けられるようになります。
正解が決まっていて、解釈の余地がないコンテンツ、例えば旅やグルメで占められている現在のテレビ番組構成や職場における過剰なマニュアル化が、その象徴です。
家族とは、愛とは、自由とは.....そういう、豊かな人の有様を象徴する一方で、人によって指すものが違ってしまう言葉は、誤解の温床として敬遠され、誰がどう読んでも一つにしか取れない、要件だけの言葉が好まれていきました。
「三時に駅~ 了解 ~ 確認しました。」
受け取って、それで終わる。問い返す余地のない、閉じた言葉です。
そして、削られていくのは言葉だけではありません。接触そのものが、控えられるようになります。
傷つけることを恐れて、世代を越えた声かけがためらわれ、踏み込んだ一言が発せることなく呑み込まれる。
叱ることも、誘うことも、立ち入ることも、すべて危険な賭けとして避けられていく。配慮の名のもとに、人と人のあいだに、薄い膜が一枚ずつ張られていきます。
ドイツ在住の哲学者ビョンチョル・ハンは、この時代の流れを、他者の追放と呼びました。
わたしたちは、思い通りにならないもの、抵抗してくるもの、異質で予測のつかないものを、暮らしから少しずつ締め出しています。
残るのは、摩擦のない、滑らかな、誰も傷つけない世界です。一見すると、それは平和の達成のように見えます。
失われたもの
けれども、ここで一旦問うてみたいのです。
摩擦のないところに、はたして深い出会いはあるのでしょうか。そして、人の関係とはいったい何なのでしょうか。
考えてみれば、わたしたちの考えが鍛えられるのは、いつも、思い通りにならない相手とぶつかったときでした。
関係が厚みを持つのも、こちらの予想を裏切る他者が、目の前にいるからこそでした。
相手を、単なる要件の送り手として、余談なく読みきれる対象に縮めてしまえば、もう驚きはありません。傷つきもしない代わりに、こころを動かされることもない。
安全に管理された関係のなかで、わたしたちはたしかに摩擦を失い、それと引き換えに、相手と出会うという経験そのものを、失っていきます。
読みきれない他者のいない世界とは、結局、どこを向いても自分の予想しか映っていない世界なのです。
しかも、余白を消すほどに、こころは弱くなります。
前回見た、わずかな空白にも耐えられず物語を増殖させてしまうこころは、空白を消された環境で、いっそう脆く育っていきます。
菌のない部屋で育ったカラダが、ひとたび外の風にさらされると倒れるように、一義的なやりとりに慣れきったこころは、いつか確定しない生身の他者に出会ったとき、かえって激しく動揺してしまうのです。
動揺するから、また避ける。避けるから、ますます弱くなる。膜は、こうして一枚ずつ厚くなっていきます。
まとめ
わたしたちは、誤解や対立を生み出すパパンチャを恐れるあまり、誤解されそうな言葉を選別し、理解しきれない他者との接触を避けてきました。
言葉から余白を消し、関係から摩擦を取り除けば、こころが勝手な物語を作る余地もなくなると考えたからです。
しかし、余白のない言葉に慣れ、予想を裏切る他者を遠ざけるほど、わたしたちのこころは、わからないものに耐えられなくなっていきます。
そして、ひとたび意味の定まらない言葉や、思い通りにならない他者に出会うと、今度はその空白を急いで物語で埋めようとし始めます。
「この言葉には悪意がある」
「この人は危険な側の人間だ」
と、相手に触れる前から意味を確定し、分類し、遠ざけようとするのです。
パパンチャを避けるために始めた言葉の選別と他者の排除が、結果として、さらに多くのパパンチャを生み出している。
わたしたちが恐れるべきなのは、言葉の曖昧さでも、理解できない他者でもありません。
曖昧さに触れたとき、何が起きたのかを確かめる前に、こころが物語を作り、その物語によって目の前の人を見えなくしてしまうことです。
必要なのは、誤解の起こらない言葉だけを残すことではありません。傷つかない関係だけを選ぶことでもありません。
言葉が揺れたとき、他者がこちらの予想を裏切ったとき、そこで始まる物語に気づきながら、それでも相手に触れようとすることです。
触れないことで守られるこころではなく、物語の始まりに気づきながら、それでも他者に触れようとするこころを取り戻すこと。
おそらく、いま必要なのは、そのための作法なのです。
