11月の海に飛び込むあやつと、夕方の匂いがする部屋
月曜日の夜6時、
黒光りする小さな箸が
テーブルの上にポトリと落ちた。
カーテンの隙間から、
最後の夕暮れが少しだけ差す。
「学校に行きたくない」
湯気の立っているお米を口に運んだばかりの私は、目を見開いて首を上げた。
その言葉を、この一週間で
何度聞いただろう。
辛い、
しんどい、
頭が痛い、
お腹痛い
食べ終わった食器を片付けて、
宿題をやる時間になっても、
息子はつらいを繰り返していた。
この子は今、何に苦しんでいるんだろう。
何て言葉を返したらいいんだろう。
必死で考えて私は無表情になる。
正解みたいなものを探していながら、
でもその一方で、心の奥では、別の声もしている。
(ここでぐちゃぐちゃ言ったって、それで何かが変わるわけでもないじゃん。その前に、目の前の宿題やれよ)
もちろん、口には出さない。
出せない。
でも、そう思った自分が少し嫌になる。
母親って、
いつも綺麗な言葉だけでできているわけじゃない。
休む理由を探すかのように、
息子は朝が来るたび体温計で何度も熱を測った。
小さな体温計を握る指先だけが、
やけに真剣だった。
平熱を見るたび、小さなため息をついた。
帰宅してマイクラをしている時は笑っている。
でも翌朝になると、また身体が重くなる。
私も頭ではわかっている。
新しい教室は生徒の数が13人も増えた。
ざわつき増して、息苦しい。
図書委員も一人で対応しないといけないと、
ずっと緊張していた。
でも、一番苦しいのは、
言葉にはできない、正体不明な何かなんだろう。
私も無理をさせたいわけではない。
ただ、
「行きたくない」
だけで終わらせてしまうには、
まだ早い気もしていた。
まだ見ていない景色を、
この子自身の手で閉じてほしくなかった。
私は、息子にこう言った。
「学校って、休んじゃいけない場所ではないんだよ。休んでもいいし、行ってもいい。決めるのは、最終的にはあなたなんだよ」
でも、そのあとに、こうも言った。
「ただ、行きたくない気持ちだけで決めるんじゃなくて、行かないことで起きる“その後”のことも、いろんな角度から考えて決めた方がいいんじゃないかな」
その時、私は、
息子にも伝わりそうな言葉を探した。
「行かないって決めるのも同じだと思うんだ。ガリガリ君だって、本当に食べたい時に食べる一本と、ただ食べたい気分で食べる一本は違うでしょう?」
「うん」
息子はそう言って、少しだけ考える顔をした。
その顔を見ていたら、
十一月の海に突然飛び込んだ時を思い出した。
「泳いだら寒いよ。風邪ひくよ」
一度はそう伝えたけれど、
それ以上は止めなかった。
息子は、海に足を入れては、こちらを見る。
少し進んでは、またこちらを見る。
私は、(さあ、どうするかな)と思いながら、
黙って見ていた。
でも最後は、
(もう、いいや。やっちゃえ!)
みたいな勢いで、
そのまま海へ飛び込んでいった。
しばらくして戻ってきた息子は、
寒さで震えていた。
唇が紫色になっていて、白い息が漏れていく。
私は、バスタオルで身体を包みながら、
温かいお茶を差し出した。
「冷えた身体にしみるでしょう?」
息子は、震えながらコクコク頷いていた。
でも二週間後、
あやつはまた同じことをした。
風邪なんて、何日か寝れば治る。
だったら私は、
「やってみたい」と思った気持ちを、
とことん追いかけさせてやりたかった。
自分で考えて、 迷って、 選んで、
自分の手でつかむところまで。
私は、それを浜辺からそっと見ていたかった。
でも、今、目の前にいるのは別人だ。
布団から出ることさえ怖そうにしている。
「ママ、お願い。
お布団の上で、大丈夫だよって、頭を撫でてほしい」
か弱い声で、
ぽそりと床に落とすように言った。
息子の髪を撫でていると、
不思議と別の子どもの感触を思い出した。
それは昔の私だった。
安心して存在していい子ども時代を、
あまり持てなかった時。
学校から帰ると、
「子どもは外で遊ぶもんだ」
と言われて、すぐ家を追い出された。
疲れて帰ってきているのに、
家の中に、一息つける場所がなかった。
人気(ひとけ)のない道路を、てくてく歩く。
誰かとつながりたい思いを指先に溜めながら、
私は、友達の家のピンポンを押していた。
ある日、あこちゃんの家へ遊びに行った時だった。
「どうぞー」
と普通に部屋に通されて、
私はあこちゃんと遊んでいた。
あこちゃんの部屋は、夕方の匂いがしていた。
すると、しばらくして、
あこちゃんのお母さんが
お盆におやつを乗せて入ってきた。
おやつは、コンビニのおにぎりだった。
海苔がプラスチックに入っていて、
フィルムを引っぱりながら食べる。
うちでは、当時ほとんどコンビニで
何かを買うことがなかったから、
その仕組みに少し驚いたのを覚えている。
今思えば、どこの家にもある普通の光景だった。
でも私は、あの部屋の空気を今でも覚えている。
「ああ、私はここにいていいんだ」
そう思った。
傷ついて帰ってきても、
安心して神経を休められる場所。
あの夕方の匂いがする部屋で感じた、あの場所を。
息子の髪を撫でる手を、
私はまだ止められずにいる。
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この話には、続きがあります⏬️
辛い日々が初めて涙に変わった日
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息子の良さを、息子に思い出して欲しかった
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