何も解決していないのに、笑ってしまった日
「死にたい」
息子がそう言った。
その日は5年生になってからの
初めての土曜参観だった。
学校で言われた言葉を、
息子は一つずつ話してくれた。
お父さんお母さんが坂道を登って学校へ向かう。
いつもは子どもたちでいっぱいの坂が、
その日は大人ばかりだった。
私たちはその波を避けながら、
坂道を降りていった。
先生は話を聞いてくれた。
言った子たちも認めた。
謝りたいと言ってくれた。
それでも息子は教室に入れなかった。
帰宅すると、私はもう動けなかった。
ソファに身体を沈めて、窓の外を見た。
桜の木に、カラスの巣がある。
三週間前の嵐の日、まだ小さな雛だった。
風に巣ごと揺れていた。
今はもう大きくなって、枝に出てみたり、
慌てて巣へ戻ったり、
羽をぱたぱたさせたりしている。
飛びたいのか。飛びたくないのか。
そんなことを繰り返していた。
疲れたな、と思った。
息子だけじゃない。
私も疲れていた。
学校へ連絡する。
職場へ連絡する。
先生と話す。
息子の話を聞く。
考える。
考える。
考える。
隣の部屋から、YouTubeの音がした。
本当は約束していた。
ドラマが終わったら、
少し身体を動かしてから見ようね、と。
息子は律儀に守ろうとしていた。
でも、もう耐えられなかった。
「ごめん。ちょっと静かにして」
息子は怒った。当たり前だと思う。
でも、すり減った私の神経は、
外野の音に支配されることを拒絶した。
私は言い返す力もなく、
ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ザーザーと降る雨音だけが部屋に響いていた。
窓の向こうは茶色くくすんで見えた。
心まで濁っているみたいだった。
掃除なんてする気力はなかった。
でも、窓の汚れが気になって休めなかった。
「……しゃーない。やるか。」
私は立ち上がった。
幼稚園の頃にDAISOで買った
機関銃の形をした水鉄砲を担いで、
ベランダに出た。
窓枠の一番上を狙って、
バシュッ。
もう一回。
バシュッ。
背中から雨粒を浴び、
正面からはしぶきが返ってきた。
バシュッ。
バシュッ。
雨なのか、水鉄砲の噴射なのか、
はたまた涙なのか。
誰にも分かってもらえない。
こんなに動いているのに。
こんなに頑張っているのに。
なんで私ばかりなんだろう。
撃ちながら泣いた。
鼻水も出てきた。
もう、
雨なのか。
涙なのか。
水鉄砲なのか。
自分でも分からなかった。
それでも撃ち続けた。
バシュッ。バシュッ。バシュッ。
ワイパーで拭くと、
茶色い水が下へ下へと流れていった。
風の中に前髪が舞う。
その時だった。
窓の向こうに、息子の顔が見えた。
泣いていた。
「ママがいなくなっちゃうと思った」
私は水鉄砲を握ったまま、息子を見た。
まだ胸の奥は熱かった。
怒りも。
悲しさも。
悔しさも。
何一つ消えていなかった。
息をひとつ吐いた。
「……一緒にやる?」
部屋へ戻り、もう一つの水鉄砲を持ってきた。
幼稚園の頃に買った、
新幹線こまちの水鉄砲だった。
「はい。」
息子に手渡す。
「窓に向かってさ。」
構える。
バシュッ。
怒りを込めて、
バシュッ。
窓に当たる。
「ねえ。雨の日に窓掃除なんて、普通しないよね。」
息子が笑った。
灰色の空からは大した光が届くわけもないけれど、ワイパーで汚れを拭けば、
それなりに透明感を感じることができた。
息子は水鉄砲を空へ向けた。
思いきり放たれた水が、雨と一緒に降ってくる。
「うわっ!」
顔に当たる。
冷たい。
前髪から水がぽたぽた落ちた。
Tシャツにも水滴模様が滲んでいく。
今度はわざと私の方へ飛ばしてくる。
「うわっ!」
思わず笑った。
「ねぇ。やっちゃう?
雨ん中、ずぶ濡れになって撃ち合うの。
楽しそうじゃない?
あとで、あったかいシャワー浴びればいいじゃん。」
息子が目を丸くした。
「え? いいの? ママもやるの?」
私は返事の代わりに、水鉄砲を息子へ向けた。
狙いを定める。
バシュッ。
「きゃっ!」
すぐに撃ち返される。
「うわっ!」
また狙う。
ひょいと身体をよけられた。
バシュッ。
「うわっ!」
今度は私の肩に命中した。
私は撃ち返した。
バシュッ。
今度は息子の肩に当たった。
「やったな!」
笑った次の瞬間、
また撃ち返される。
「うわっ!」
後ずさりした拍子に、
レモンの鉢へぶつかった。
幼稚園の頃、
一緒に植えたレモンだった。
「あっ。」
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫。」
また笑った。
バシュッ。
バシャッ。
雨が降る。
水が飛ぶ。
もう、どれが雨で、
どれが水鉄砲なのか分からない。
髪の先から水がぽたぽた落ちる。
Tシャツが肌に張り付く。
ベランダには水たまりが広がっていく。
ぎゃははは。
ぎゃははは。
バシュッ。
雨が顔に当たる。
レモンの葉から、
しずくが落ちる。
また撃つ。
また笑う。
笑いながら撃つ。
笑いながら撃ち返す。
風が吹いていた。
六月の湿った風だった。
問題は何一つ解決していない。
月曜日が来れば、また学校のことを考える。
教室に入れるかも分からない。
何も終わっていない。
「死にたい」と言った言葉も、
消えたわけじゃない。
それでも。
風が吹いていた。
水が飛んでいた。
笑い声がしていた。
桜の木では、
雛が枝の先で揺れていた。
ああ。
今日という日は、ちゃんと生きていた。
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安心して神経を休められる場所を大切にしたい
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この日にすでに
悲しみは始まっていたのかもしれない。⏬️
水鉄砲で遊んだ夜の日のこと
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