【小説・ヴィーナス症候群】[174]火星馬券
舘合翠は、両肩に装着した義手でキーボードを打っていた。
生まれつき両腕のないヴィーナス児で、大手広告代理店・鎮貪舎に障害者採用で入社し、庶務課で働いている。
直属の上司である西松係長は、かつては第一線で広告を動かしていたらしいが、今は簡単な伝票処理さえ任せられず、実質的に「介護対象」とされていた。出勤も不定で、連絡もつかない。放浪癖があり、ときどき思いがけない場所で発見される。
その日も、西松の席は空いていた。しかし特に驚く者もいなかった。
「まーたあの西松の野郎、どっかほっつき歩いてやがるな」
プリンタから紙を抜きながら、翠がこぼす。
課長が椅子を軋ませながら口を開いた。
「そうか。舘合さんは、西松さんがバリバリやってた頃を知らないんだね」
「みたいですね」
翠は手を止めずに聞いていた。
「昔はさ、パリとかニューヨークとか。大手クライアント回してたよ。今の姿からは想像つかないかもしれないけどね」
課長の声は特に感傷的でもなかった。ただ事実を並べているだけだった。
外線の電話が鳴った。課長が受話器を取り、名乗ったあと少し間を置いた。
「……はい、鎮貪舎・庶務課……ええ、私が課長ですが……ああ、西松……はい……湾岸警察署?」
翠はキーボードから指を離した。
課長の声がわずかに硬くなる。
「ええ、大井競馬場で……はい、保護された……叫んでいた……? 何か様子がおかしかったと……はい、暴れてはいないけど……ええ……身分証がなくて……はい、名刺から……ええ、わかりました。引き取りに向かわせます」
受話器を置いた課長と目が合う前に、翠は立ち上がっていた。
「行ってきます。外勤扱いでお願いします」
「頼む」
課長の声は変わらなかった。
翠はロッカーからバッグを取り出した。中には鎮静剤と、折れた背表紙のエロ雑誌がすでに入っている。こういうときの定番だった。
「湾岸署か……まあ、いつだったかみたいに青ヶ島よりはマシだけど」
独り言のようにつぶやいて、エレベーターに乗った。
外は晴れていて、湾岸行きのバスは混んでいなかった。最後部に座ると、義手を膝に戻し、窓の外を見た。
コンテナヤードの向こうに、白い警察署の屋根が見え始めていた。
都営バスを降りて、コンテナヤードの外れを歩いた先に、湾岸警察署はあった。建物の外観は古く、ガラスの自動扉には海風で舞った砂がこびりついていた。

受付で会社名と名前を伝えると、制服の警官が一人出てきた。
「鎮貪舎の方ですね。タテアイさん。こちらへどうぞ」
言われるままについていくと、建物の奥のほう、小さな面談スペースのような部屋に通された。スチール椅子がいくつか並べられた、そのひとつに西松が座っていた。
シャツの襟はよれ、ズボンの前はジッパーが中途半端に開いていた。髪は乱れていたが、本人は気にしていないようだった。
その隣で立っていたのは、四十代くらいの警官だった。話しかける前に、翠を一瞥して名刺の束と照らし合わせた。
「この方、間違いないですね。そちらの西松さん」
翠はうなずいた。
警官は、資料を戻しながら言った。
「大井競馬場で、ノミ屋と揉めてたそうです。スタンドの下で寝そべってて、声かけたノミ屋にいきなり『火星の馬券は扱ってないのか』って絡んだらしいんですよ。
それで『火星の馬券が無いなんて火星を差別してる』とか、ずっと言ってたらしくて」
「ノミ屋、ですか……」
翠はバッグを抱え直した。
「そのノミ屋が交番に飛び込んできましてね。あんなチンピラみたいな奴が堂々と駆け込んでくるのも珍しい。『キチガイの相手だけは勘弁してくれ』って、泣きそうでした」
警官は腕を組んだ。
「本人が言うには、昔、新聞の拡張団で横浜の鶴見のアパート回ってた時に、精神に異常のある人にいきなり包丁で追い回されたことがあったらしくて。
あのときと同じ目をしてたって。ノミで捕まってもいいから、逃げたかったって言ってました」
警官は少し間をおいて、声を落とした。
「まあ、本来ならノミ行為そのものが違法ですけどね。賭博罪。建前上は取り締まりますけど、今回はもう、それどころじゃなかったです」
翠はうなずいた。
「本人は、名乗りもしなかったし、財布に身分証もなくて。名刺だけ。そちらの社名があったんで、確認させていただきました」
「助かりました」
翠は短く答え、バッグの中から雑誌を取り出した。表紙には水着の女が笑っていた。西松が、それにわずかに目をやった。
「……帰るぞ、オッサン」
返事はなかったが、腰を浮かせて立ち上がった。歩き出した西松の足取りは重く、靴は片方だけ紐がほどけていた。
警官は出口までついてきて、言った。
「何か札でもぶら下げといてもらえると、こっちも助かるんですけどね。身元わかるやつ。難しいですよね、そういうのって」
「ええ。難しいと思います」
警察署の自動ドアが開くと、強い潮風が吹いてきた。午後の日差しは白く、地面に長く影が伸びていた。
バス停までの道を、二人は並んで歩いた。西松は前を見ていなかった。翠は特に気にする様子もなく、そのまま歩き続けた。
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