【小説・ヴィーナス症候群】(126)銀座「岡星」で究極のメニュー
赤坂のドレスブランド「Felice」本社アトリエ、総務課の一角。書類棚の影から、軽い調子の声が飛んできた。
「また大女レンタル案件来た。恵比寿の〈ア・ミューズ〉」
武隈莉子は、言われ慣れた“あだ名”に少しだけ苦笑しながら、受け取った紙を目で追った。
「……下着屋さんかぁ」
そう言った声はむしろ明るかった。
「最近、金欠だったから助かる〜。行く行く。で、これ撮影もあるの?」
「うん、フィッティングとスチール両方。単価はなかなか。さすが肌もの」
「肌、張ります!」
莉子は声を弾ませて笑った。Feliceではドレスの試着や展示に立つことが多いが、外部ブランドからの“レンタル”は気分が変わって楽しい。とくに高身長を必要とされる場面では、ほとんど身長172cmの自分に声がかかる。総務の連中が“大女枠”と冗談まじりに呼ぶのも、それだけ需要がある証拠だ。
ヴィーナス児──生まれつき両腕のない身体。莉子はその条件に加え、姿勢がよく、足も長く、布にとって“静かな背景”でいられる。そのぶん、自分が動く必要はない。ただ、正しく立つだけで、布がどこへ流れ、どこで留まるかがはっきりする。だから、インナーのような繊細な製品に「トルソーさん」はうってつけだった。
***
恵比寿の裏通り。古いビルの3階にあるアトリエ〈ア・ミューズ〉は、外観の地味さに反して中は明るかった。生成りの床、白く塗られた壁、静かに鳴るスチームの音。整った空間は、布と向き合うためだけに存在しているようだった。
「着替え、お済みでしたら入っていただいて大丈夫です」
若いスタッフの声にうなずき、義手を外してその両腕のない肩を露わにした莉子は鏡の前に立つ。身に着けたのは、淡いピンクのレースがあしらわれたブラとショーツ。背中側でホックを留めてもらい、姿勢を整えた瞬間、鏡の中の自分が“布そのもの”に変わっていくような感覚があった。

「……やっぱり、ここ少し浮きますね。脇線」
「うん。でも、莉子さんでこれだけ浮くなら、一般のお客さんにはもっとズレる。修正入れよう」
隣にいたパタンナーが頷きながら言った。測定表を見ていたもう一人のスタッフがぽつりと漏らす。
「腕なんてノイズだよね。こんな現場だとさ」
莉子は思わず吹き出した。姿勢が少し崩れ、「あ、失礼しました」と笑う。
スタッフも「あっ、すみません……失礼しました」と頭を下げたが、空気はどこかやわらかくなっていた。
布にとって何が不要で、何が必要なのか。彼女の身体はその答えを、ただ静かに示す道具でもあった。
***
Feliceのトルソー控室。いつもの撮影用ドレスを脱ぎかけた同じ「トルソーさん」の夜久野由美が、戻ってきた莉子を見て声をかけた。
「おかえり〜。大女レンタルだった?」
「もう、言い方!」と莉子は笑いながらタオルで首を拭う。「恵比寿のアミ」
「ああ、今日はアミか……」と雑誌をたたんでいたやはり「トルソーさん」の檜皮谷奈緒が顔を上げる。「ブラとかパンツ?」
「そうそう。体張ってきたら、けっこういいお金になってさ」
「じゃ、なんか奢ってよ」と由美。
「それでね、銀座の岡星、予約してみたら──なんと、3人分取れちゃったの!」
「えー!?」と奈緒が身を乗り出し、
「岡星って、あの東西新聞ドットコムの“究極のメニュー”の……?」と由美も目を丸くする。
「行く行く!」
こうして3人のトルソーは、夕暮れの地下鉄に飛び乗り、銀座の夜へと向かった。
銀座の裏通り、「岡星」の暖簾が静かに揺れていた。岡星は小さい店ながら、旬の素材を柔軟に扱う創作割烹として評判の店だ。大将は高校を中退して関西へ渡り、割烹から精進、洋風のアレンジまで幅広く修行した人物だという。
白木のカウンターに通された三人の前には、冷たい前菜が整然と並んでいた。湯葉とほうれん草の白和え、賀茂茄子の揚げ煮、炙った鰆に黄身酢を添えた小鉢──器は控えめだが、盛り付けには一切の乱れがない。
由美が、茄子をひと口食べて驚いたように目を開く。
「……なにこれ。揚げてあるのに、全然重くない。汁も油っぽくないし」
奈緒は鰆を口にし、黄身酢の味をしばらく確かめてからうなずいた。
「魚が魚じゃなくなる感じ……匂いを消すんじゃなくて、まったく別の動きをするっていうか」
莉子は湯葉をゆっくり噛みながら、穏やかに言う。
「すごいな……。味が自己主張してないのに、ちゃんと通じる。“言わなくてもわかってる”って感じ」
箸を動かすごとに、緊張がほどけていく。
「モデルってさ、服に合わせて身体を作るじゃん」と奈緒がぽつりとつぶやく。「布のために立つ存在って……豆腐っぽいな」
「どんな例え」と由美が笑う。
そのとき、包丁の音が止まり、カウンターの奥で大将がふと顔を上げた。
「……失礼だけど、お嬢さんたち、モデルさん? そりゃみんな美人だけど……モデルって、できるんですか……?」
言葉は慎重に選ばれていた。腕のことに直接は触れず、だが気になって仕方がないという空気がにじむ。
莉子はちらりとふたりを見て、控えめに笑った。
「いや、あの……雑誌とかに出るモデルじゃないです。私たちは、ドレス工場で試着するだけの、地味なモデルなんで……」
大将はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口にした。
「いやいや、障害があっても体一つで勝負する。大したもんです」
調理場の人間にしか出せない重みのある言葉だった。三人の表情が少し和らぐ。
しばらくして、大将が白い器を三つ、丁寧に並べる。
「じゃ、今日はサービスしちゃおうかな。豆腐ならこんなのもやってるよ」
器の中には、豆乳と百合根のすり流し。芽葱が散らされ、ほのかに白胡椒の香りが立っている。
由美がひと口すすり、思わず声を漏らす。
「……うわ。豆乳って、こんなに甘いの? 百合根の味と混ざって……あ、白胡椒、最後にピリッて来る」
奈緒も口にして、小さくうなる。
「これ、出汁使ってない……よね? 火加減だけで、豆乳が崩れてない。百合根の甘さを、何にも邪魔してない」
莉子は一瞬、椀の中を見つめてから呟いた。
「なんか……“固まらない豆腐”って、布と似てるかも。まだ形になってないから、余白がある」
「余白、わかる。香りの動きが静かで、でも芯はある。うわー……これはちょっと、感想を忘れてしまう……」と由美。
「食べたあとに、身体が“はい”って言ってる感じ」と奈緒が静かに笑った。
銀座の空気が、料理とともに、そっと彼女たちを受け止めていた。
