【小説・ヴィーナス症候群】[201]座間でザマア
第1章:ザマア、再び
「今度の現場、神奈川の座間だってさ」
長居紳助は、事務所の卓上カレンダーにメモを走らせながら、何気なく言った。
矢野恵麻はソファの背もたれに肩をあずけたまま、顔をしかめた。
「……座間で?」
「そう。しかも、“ザマア”歌ってくれ、だってさ」
「……あのザマア……?」
「あのザマア。お局が破滅してザマア、意地悪な隣人が転落してザマア。正義も悪も描かれない、ただ誰かが失敗して気持ちよくなるやつ」
「いい加減、忘れたい仕事だったのに」
恵麻はぽつりと呟いた。
以前、そのスカッと系ドラマに使われた挿入歌──通称「ザマアのうた」。(第101話)
そのコーラス録りに、彼女はなぜか呼ばれ、
気がつけば、岩手の山奥の牛舎でもその「ザマア」を歌わされていた。(第163話)
「乳の出が良くなるから、って。そんなことあります?」
「でもあの時はギャラ良かったでしょ?」
「まあ……ギャラが出るなら歌いますけどね……」
第2章:各駅停車の座間へ
小田急線の車窓は、どこか曖昧な初夏の光に包まれていた。
本厚木の手前で急行が先へと滑り去り、各駅停車に揺られるかたちで、恵麻と長居は座間駅へ向かっていた。もちろん、快速も急行も通過する駅。静かなホームには、自販機とベンチと、それをじっと見つめる老人の背中だけがあった。
「ここが、ザマアの地……ってわけね」
「何その実況みたいな口調」
長居がやや呆れ気味に言う。
待ち構えていたのは、一台の軽トラック。ドアに貼られたステッカーには「とんとことん座間養豚場」と書かれていた。
「ザマアの歌手を連れてきたよ!」

運転席の若者が恵麻に向かって、無邪気に叫ぶ。
え、まさか……と一瞬体が固まる。今度は豚小屋で歌うのか?
助手席に収まりながら恵麻は尋ねた。
「もしかして……牛舎の次は、豚舎ですか?」
若者は満面の笑みを浮かべて答える。
「どうも!座間で『とんとことん』って養豚場をやってる吉岡といいます!岩手じゃ法領田の牛舎でザマア歌って乳の出がよかったんですってね!」
「……なにそれ、知ってるの?」
長居が驚いたように訊く。
吉岡は照れたように笑った。
「法領田とは岩大で一緒だったんです。僕はここの出身ですが、宮沢賢治に憧れて岩手大学に進んだんです。宮沢賢治は岩手大学の前身の盛岡高等農林学校の出身ですからね。それで『高座豚』の再興に取り組むことにしたんです。この辺りが豚の産地だなんて知らなかったでしょ?横浜あたりのレストランじゃ評判なんです」
「へえ……」
「へえ……」
恵麻と長居は同時に相槌を打ったが、頭の中は同じだった。
(話の長い奴だな……)
トラックは緩やかな坂を下り、小さな丘を抜けて、養豚場にたどり着く。
そこには、真新しい白い長靴と作業着が整然と干されており、背後では豚たちが「ぶーっ」と一斉に声を上げた。
「ということでですね」
吉岡は手を合わせて言う。
「今日は豚舎で“ザマア”を歌ってほしいんです。やっぱり動物の潜在意識に語りかける何かがあるんだと思うんですよ。あの歌には」
恵麻は、わずかに眉をひそめた。「……潜在意識、ですか?」
「そう。意識じゃないんですよね、反応って。例えば、牛も豚も人間の言葉を理解してるわけじゃない。でも、音の波動とか、語気とか、そういうもので無意識に影響されるってこと、あると思うんです。たとえば、機械音でもストレスになったり、逆に子守唄みたいなリズムで落ち着いたり」
「なるほど……」
「で、音の力って、人間でも影響されてると思うんです。無意識のうちに反応して、たとえば、運動会で流れる音楽にテンション上がったり。あ、僕ね、小学校のリレーでアンカーだったんですよ。でも、最後の最後で転んじゃって。しかも転び方が派手でさあ、クルッと一回転して、ちょっと鼻血も出して」
「……はあ」
「そしたら、遠くの観覧席から“ザマア!”って誰かが叫んで。それ、僕の人生で初めて言われた“ザマア”だったんですよね。でも、あのとき不思議と傷つかなかったんです。“あ、これが世界か”って思って。ある意味で、無意識の底から何かが反応したというか、むしろ開き直れたというか……」
「……いや、それ、潜在意識じゃなくてトラウマでは?」
「そうかもしれません。でも、動物にも、そういう“開き直り”みたいな境地、あるんじゃないかなって……」
「……」
「だから、あの“ザマア”って歌には、きっと、開き直りの波動があるんだと思うんです!」
「まあまあ、では仕事にかかります」
恵麻はさすがに遮るように笑って言った。
「ごめんなさい、僕、話し出すと長くなっちゃうんです!」
第3章:とんとことんの青年
豚舎の中は意外にも清潔だった。
木材と白いポリタンク、最新式の自動給餌装置。そして、その合間を縫うように歩く豚たち。どこかのびのびと暮らしているような空気だった。
「こちらが、“今日の舞台”です」
吉岡が胸を張って案内する。
舞台とはいっても、ほんの少し広めの通路で、向かい合うように豚たちが柵の向こうからこちらを見ていた。
「じゃあ……ここで、あの“ザマア”を?」
「はいっ。あの、あの感じのままで大丈夫です。テレビで聞いたときから、きっとウチの豚にも効くって思ってたんです」
「はあ……」
恵麻は目を閉じ、小さく息を吸った。
岩手の牛舎で歌ったあの日を、なんとなく思い出す。
どうして自分がそんな役を引き受けることになったのか、もはや説明もつかない。
ただ、あの時も確かに──牛たちはおとなしくなり、乳の出が良くなったという。
(今回も、何かが起きるのかしら……)
静かな豚舎の中に、あの「ザマア」のメロディが流れはじめる。
歌詞はなかった。ただ、あのスキャットのような、皮肉と余韻だけが響くフレーズ。
哀愁でもなく、明るくもない。それなのに、奇妙な癖になる旋律。
“だれかが転んで、視聴者が気持ちよくなる”──そんな映像に合わせて作られたあのメロディ。
豚たちは、しばらく黙って聴いていた。
それから、数頭が静かに歩き始め、鳴き声が柔らかくなる。
奥の豚が、寝転がったまま、喉を鳴らすように「ぶーっ」と声を漏らした。
吉岡は目を丸くして見つめていた。
「やっぱり……!やっぱり噂は本当だ!動物の潜在意識に語りかける何かがあるんだ……ありがとうございます!」
「ええ、まあ、慣れてますから。豚も牛も一緒です」
恵麻はさらりと言ってみせた。
「いやあ、感激しました……!」
吉岡は鼻の奥をすすりながら言った。
その横で、長居が財布をちらと見てから言う。
「じゃあ、ギャラの方は──」
「あ、はい!もちろんです。あと……よろしければ、うちの豚肉、1kgずつですが、お持ち帰りいただけますか?」
第4章:帰り道と肉1kg
座間駅の改札を通り抜けたころには、陽はすっかり傾いていた。
手には、保冷パックに入った「とんとことん」製の高座豚・肩ロースと、無言の達成感。
恵麻がぽつりとつぶやいた。
「……ギャラのほかに豚肉1キロって、けっこうな待遇ですね」
長居がにやっと笑う。
「歌って、感謝されて、肉までもらえるとは思わなかったよな」
「こんなにもらったら、この先しばらく毎日ポークソテーですね。しょうが焼きにしてもいいけど」
「俺はカツにしようかな。冷凍しておけば、けっこうもつでしょ」
「“ザマアの歌手は肉付きがいい”って言われちゃいそうですね……」
二人は顔を見合わせて笑った。
日が傾き、駅前の風が少しだけ涼しくなっていた。
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