司令官ボードリクール【後編】行け、成るように成れ
(※本記事は『司令官ボードリクール【前編】王太子の名において』の続きです) 前編では、ヴォークルール守備隊長ボードリクールが、「王廷と結びついた冷徹で有能な実務家」ではないかという推論を書きました。 時が過ぎて1428年。後半ではボードリクールが、なぜ「神の啓示」を聞いたと公言する村娘ジャンヌを王太子のもとへ送り出したのか考えてみたいと思います。
4. ジャンヌとの出会いは奇跡の始まりだったのか?
伝説において、ヴォークルールにおけるジャンヌ・ダルクは「見ず知らずの貧しい村娘が、奇跡的な熱意によって何度も最前線の司令官と面会し説得に成功した」と語られがちです。この場面について検証してみたいと思います。
1423年の公文書(※Siméon Luceの著作による)によれば、ジャンヌの父ジャック・ダルクは貧しい農民ではなく、ドムレミ村の筆頭者(doyen)でした。さらに重要なことに、1427年、ジャック・ダルクは村の住民を代表する「全権代理人(procureur fondé)」として、まさにヴォークルール守備隊長であるボードリクールの前で、村の重大な訴訟手続きを行っているのです。※父ジャック・ダルクのこの時期の記録については別記事を書こうと思います。

つまり、ジャンヌが初めてヴォークルールを訪れた1428年5月頃の時点で、ボードリクールと彼女の父ジャックは、行政官と村の代表者として「すでに直接の面識を持つ仕事相手」でした。
重要な仕事上の関係者の娘が自分を訪ねてきたら、それは話くらいは聞いてみることでしょう。
ボードリクールが初回でもジャンヌを無下に追い返さなかったのは、神の導きなどではなく、「自分の管轄下にある村の代表者の娘が訪ねてきたから」という現実的な理由だったのです。
高山一彦訳『復権裁判』のデュラン・ラクサールは、この最初の面会でボードリクールの反応をこう証言しています。
「ロベール(ボードリクール)は私に、娘を充分ひっぱたいたうえ父親の家に送り返せ」と。
この言葉は、「あのジャックの娘が何をバカなことを言っているのだ。さっさと親父の元に送り返せ」という、呆れだったように思えます。
5.ボードリクールは何故手のひらを返してジャンヌを送り出したのか?
1429年、もう一度ヴォークルールを訪れたジャンヌとジャン・ド・メスが接触します。(参考:ジャン・ド・メス-聖女の奇跡に投資した男)
同2月、ヴォークルールで段々評判を高めつつあったジャンヌがロレーヌ公に召喚され、ロレーヌ公訪問が実現します。(参考:ジャンヌ・ダルクのロレーヌ公訪問について)
その後、ロレーヌ公国から帰ってきてすぐの3回目の面談でボードリクールは態度を急変させます。
ボードリクールはジャンヌのシノン行きを許可し、数々の支援を用意します。
伝説では「ジャンヌが遠方での敗戦(ニシンの戦い)を予知したからだ」と語られます。しかし、人間が未来を予言することは不可能です。
ここではその奇跡は、後からジャンヌの神聖性を高めるために付け足された演出であったと解釈します。
では、どうして彼は急に手の平を返したのでしょうか?
私の思う要因は以下の4つです。
①ロレーヌ公(あるいはアンジュー家のネットワーク内)による面会
ロレーヌ公からの自領地への招待はジャンヌに一定の箔をつけたはずです。アンジュー家の身内から評価を受けたのですから、その部下であるボードリクールも評価を変えざるを得ません。
②ジャンヌの身元と広告塔としての価値
ジャンヌは自身の領地の有力者の娘です。
身元がはっきりしています。しかもヴォークルール内で評判が上がっている時期であり、そのカリスマ性の片鱗が見えています。
先行して接触したジャン・ド・メスも彼女を認めました。また、ロレーヌ公訪問で長距離移動も経験しています。それらの報告から彼女を「使える」と判断した可能性は高いと思います。
③王の急使(コレ・ド・ヴィエンヌ)の存在
前編で示した王廷とのネットワークの結果か、何らかの意図が既にあったのか伺い知れませんが、その時ヴォークルールには王の急使(コレ・ド・ヴィエンヌ)が居ました。彼の案内と自身の部下が付けば、ジャンヌをシノンに送り届けられるかもしれません。
④当時の差し迫った状況
コレがヴォークルールにいたという事は、ボードリクールにもオルレアンの窮地は確実に伝わっていたでしょう。彼は「王太子派が危ない」という情報を誰よりも詳しく知る事が出来たはずです。また、ヴォークルールの周囲はブルゴーニュ派が増え、自領地も危ない状況です。(実際、この少し後の1431年にこの地でルネ・ダンジューは敗戦し捕虜になります。)
ジャンヌはそんなピンチに現れた低いリスクで切れる手札だったはずです。
出発の際、ボードリクールがジャンヌにかけた言葉として証言に残されているのが以下の言葉です。
「行け、そして何が起ころうとも成るように成れ(Va, et advienne que pourra)」
彼は、奇跡やその場の雰囲気でジャンヌを送りだしたのではありません。
その時の状況を現実的に判断し、安全策を十分に巡らせ、人事を尽くした上でジャンヌというカードを切ったのだと思います。
6. 結論:復権裁判における不在と、王家に尽くしたその最期
時が流れてジャンヌの死後、1450年代に開廷された復権裁判において、ヴォークルール時代のジャンヌを知る多くの者が証言台に立ちましたが、そこにロベール・ド・ボードリクールの姿はありませんでした。
彼が復権裁判で証言を残さなかった理由を、彼が歴史の表舞台から消え去ったと解釈するのは誤りです。
私が知る限り、彼が歴史上に登場する日付は1454年8月20日のものです。
当時、彼は王の顧問官という重職にありました。
そして、フランス王の特命全権大使としてクータンス司教と共にボヘミア・ハンガリー王ラディスラウスに面会するため、神聖ローマ帝国のラティスボン(レーゲンスブルク)へ向かう途上にありました。
彼はこの極めて重要な外交任務の最中、あるいはその帰路において死亡したと推定されています。(レオン・ジェルマン(1902)「1432年から1454年までのロベール・ド・ボードリクールの事跡に関する研究」より)
最期の瞬間まで国王シャルル7世の為、最前線の外交官として奔走していた事実からは、彼が単なる辺境の粗野な軍人ではなく、王廷から最も重用される「冷徹で有能な実務家」であったことを思わせます。
彼の息子ジャンがその後フランスの元帥になった事からもそれはうかがえます。
ヴォークルールは辺境の田舎ではなく、フランス王国の東の要だったのです。
ロベール・ド・ボードリクールは、1420年の絶望的な包囲網の中からヴォークルールを守り抜き、現実主義的な計算と判断によって、一人の少女を歴史の表舞台へと誘いました。
そこには予言や奇跡ではなく、過酷な前線を生き抜いた軍人達の合理的な判断がありました。その「戦術」こそが、のちの劇的な逆転劇の端緒を開いたと言えるのではないでしょうか。
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参考文献
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』(白水社)
高山一彦訳『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(白水社)
シメオン・リュス『ドムレミのジャンヌ・ダルク』(Siméon Luce, Jeanne d'Arc à Domremy; recherches critiques sur les origines de la mission de la Pucelle, accompagnées de pièces justificatives, 1886)※1420年の使節団襲撃に関する公文書テキストの出典として
レオン・ジェルマン「1432年から1454年までのロベール・ド・ボードリクールの事跡に関する研究」(Léon Germain, « Recherches sur les actes de Robert de Baudricourt, depuis 1432 jusqu'à 1454 », in Bulletin mensuel de la Société d'archéologie lorraine, 1902.) ※ボードリクールの最後について
