「タイ感」を隠すのに必死だった
小学校の保護者同士の輪に馴染めず、どうすればいいか一人で困っている母を見ていた。
そんな彼女を不憫だと思う余裕なんて、当時の私にはなかった。代わりに、そんな母を持つ自分の境遇をただ憐れんだ。
・・・
私の母は、タイ人だ。
今でこそ「多様性」という言葉が挙がるかもしれないが、当時まだ幼かった私にとって、母が「周りのお母さん」と違うことは、誇りではなくただただ隠しておきたい弱点だった。
日本人の父は、単身赴任で家にいないのが常だった。家の中の「日本」を一手に担うはずの存在の不在。そのしわ寄せは、すべて私が引き受けざるを得なかった。
母の日本語はたどたどしく、文字は小学校も中学年になると私の方が上手になった。母が署名したプリントをクラスメイトに見られるのが嫌で、誰の視界にも入らないよう隠しながら提出した。やがて連絡帳は自分で書くようになった。母に学校行事に来なくていいと言った。外にいる時にタイ語で話さないでほしかった。そうやって、隠せるだけ彼女の存在を隠そうとした。
母の存在だけでなく、家の中にある「タイ」も、外の世界では隠すべきものだった。当時の日本では、タイ料理は今ほど受け入れられていなかった。特にパクチーなんて、まるで臭う食べ物の代表格のように扱われていた。「タイ料理を日常的に食べている」なんて到底言えなかった。好きなものを好きと言えない。出る杭になる勇気なんて、あったはずもない。
母が誰かに不完全な日本語や文字を否定されたり、怪訝な顔をされたりするたび、私は自分の半分を否定されたような感覚に陥った。
「お母さんが否定される」=「私のルーツが否定される」=「私自身が、否定されている」
そんな負のスパイラルの中に、私はずっと閉じ込められていた。出口が見えなかった。早く大人になって自分の力で、この欠落を埋めてしまいたかった。
大人になり、タイで暮らし始め、二つのルーツを抱き合わせながら生きられるようになった今。それでも、私は当時の自分を幼かったと切り捨てることはできない。今でも、オモテで整った自分を見せようとしてしまう癖の裏側には、あの頃の「変だと思われたくない」「ちゃんとしていないと」「みんなと同じでありたい」という焦燥が沈んでいる。
自分の半分を恥じていた時間は、私の一部として消えることなく残った。今の私は生まれ変わったのではなく、あの頃の私の延長線上にいる。
理想の母ではなかった母と、彼女をルーツごと恥じていた自分。約25年経った今、不思議と当時の場面が鮮明に思い出される。
隠して生きた時間を、私の味方にできるだろうか。
mari.
長い間、なかったことにしていた記憶に目を向け直してみました。
♢この文章は、三章構成の連載の一編です。 はじめての方は、第一章ガイド記事からどうぞ。
