「明日の授業でHIROSHIMAをやるけど、あなたには受けない自由がある」とMrs.Leeは言った
2025年8月8日。広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日から80年と2日。
先日、「8月ジャーナリズム」のことをnoteに書いた。8月になると打ち上げ花火のように盛り上がり、8月が終わると萎んでしまう「戦争と平和」関連の発信と関心。けれど、「8月が書かせる」側面もある。大事なのは、その熱を持ち続けること。
note「8月ジャーナリズムを保温する」の最後に、こう書いた。
《だから、また書こう。書き続けよう。8月も、そうでない月も。戦後80年も、その後も》
いつか書こうと温めていることも箇条書きにした。その中の一つ、《留学したとき、アメリカ史で原爆の授業をやる前日、「授業を受けるかどうかはあなたが決めていい」と先生が言ってくれたこと》をnoteに書きたい。
日本人がマイノリティだった高校で
「先生」とは、39年前、1986年の8月から翌年の7月にかけて、交換留学でアメリカにホームステイし、現地の高校で学んだときのアメリカ史のMrs.Leeのことだ。
ホームステイ先は、レーガン・ミュージアムが設立されたカリフォルニア州シミバレー市(Simi Valley)。よく似た屋根の形と壁の色の家が立ち並ぶ住宅街は、わたしが育った大阪府堺市の泉北ニュータウンの建売住宅地と雰囲気が似ていた。大きく違うのは、庭にプールのある家が多いことだった。裕福な家には、より大きなプールがあった。
白人が圧倒的に多い街だった。わたしが学んだSimi Valley高校では、アジア系の生徒はかなり少なく、1000人を超す生徒のうち日本人は留学生のわたしともう一人、家族でアメリカに移ってきた男の子だけだった。
百科事典のように分厚い教科書は貸与で下の代へと引き継がれる。わたしが使った教科書に「日本の皆さん頑張りましょう」という日本語のメッセージが書き込まれていた。添えられた名前がその男の子と同じ名字だったから、お兄さんなのかなと思った。お兄さんはアメリカ滞在歴が浅くて、より苦労したのかもしれない。
ガム塚と授業にカルチャーショック
トイレは落書きだらけで、壁の上で白人と黒人の喧嘩が繰り広げられて、わたしはそこで「生きた汚い言葉」を学んだ。大っぴらな乱闘や暴力を見かけることはなく、窓ガラスが破られたりバイクが乗り回されたりすることもなく、授業中に暴れる生徒もいなかった。ガムを噛みつつ、キャンディバー(SnickersやBarnoneなど)を食べつつ、先生の話を聞いたり聞かなかったりした。
何気なく手をやった机の下(収納部分の底)が凸凹していて、それが噛んだ後のガムが貼り付けられてできたものだと知ったのは衝撃だった。貝塚ならぬガム塚ができていた。
キャンディバーは部活の資金稼ぎに部員が売っていて、わたしもスキー合宿やヨセミテ公園合宿の参加費用をキャンディバーを売って稼いだ。授業中には商売していなかったと記憶しているが、バレンタインデーには授業中に告白の花一輪を届けるサービスがあり、生徒会の活動資金になっていた。note「愛とは、ワタシってこと」に詳しく書いている。
授業の進め方の違いにも驚いた。先生が一方的に話すのではなく、生徒にどんどん発言させ、授業を転がしていく。正解を答えさせるのではなく、「自分はどう考えるか」を問われることが多かった。板書してノートを取るスタイルに慣れていたので、鉛筆を持つ手を動かすより口を動かす授業が新鮮だった。
時間割は固定で、月曜から金曜まで同じ授業を受けた。学習進度と希望進路と興味や趣味にあわせて、かなり自由に選択できた。大学のような感じだ。わたしは英語を母語としない生徒向けの補習、美術、演劇、数学、アメリカ史、スピーチのクラスなどを取った。美術は2コマ取っていた。前期(first semester)と後期(second semester)で選択し直したと記憶しているので、一部入れ替わりがあったと思う。
アメリカ史のMrs. Lee
アメリカ史のMrs. Leeは生徒にとても人気があった。下の名前がNancyで、「今日のナンシーも可愛かった」と女子生徒たちがキャッキャしていた。愛玩動物を愛でるノリだ。栗色の髪と青い瞳。小柄でお人形さんのようで、仕草が愛らしくてお茶目だった。当時30代半ばくらいだっただろうか。白人は皮膚が薄くて皺が出やすい。笑うと目尻にちりめん皺が寄って、くしゃっとなる。それもまた素敵だった。
生徒たちが声を揃えて言う"I love you, Mrs. Lee"を何度も聞いた。「先生のそんなとこが好き♡」という感じで、合言葉のように言う。他の先生の授業では見られない現象だった。
話し方は、おっとりしていた。教卓に片肘をついて、「Folks(皆さん)」とやわらかく語りかけた。百科事典みたいな分厚い教科書の、明日授業でやる部分を読んで要約してくるのが宿題で、授業は説明ではなくディスカッションに費やされた。
それぞれの歴史的出来事(例えばBoston Tea Party)について「どう思う?」とMrs. Leeが問いかけ、生徒が口々に意見を言う。挙手して当てられるのではなく、思いつくまま口にするのをMrs. Leeが拾ってコメントする。それを聞いて別な生徒が意見を言う。
教室での発言に尻込むタイプだったわたしは、言葉の壁もあり、聞く専門だったが、活発に意見が飛び交う光景に刺激を受けていた。
「授業を受けない自由」に面食らう
そんなある日のこと。授業が終わると、"Masako"とMrs. Leeに呼び止められた。「ちょっと」という感じでわたしに手招きする。他の生徒たちは次の授業へ移動し、教室にはわたしとMrs. Leeが残された。
「明日の授業でヒロシマをやります。授業を受けてもいいし、受けなくてもいい。あなたには選ぶ自由があります」
そのようなことを言われた。広島への原爆投下を扱うことは宿題でわかっていたはずだから、"You know"(わかっていると思うけれど)と前置きした上での確認だっただろうか。
「授業でヒロシマをやる」は英語でどう表されたのだろう。Mrs. Leeは言葉を大切にし、その影響を考える人だった。生徒が汚い言葉を使うと、眉根を寄せて悲しそうな目で訴えた。その目を見ると、生徒は「こっちっすね」という感じで自発的に言い直した。だから、あのときも慎重に言葉を選び、単語を区切りながら話してくれたはずだ。わたしの英語力と話題の重さに合わせて。
覚えているのは、Mrs. Leeの青い瞳が一度も逸らすことなく、わたしの目を見ていたこと。どんな風に切り出そうか、どう伝えようか、考えた上でわたしを呼び止め、伝え、返事を待っている目。
一方のわたしは、ぽかんとしていた。
ヒロシマのことを聞くのが辛かったら、授業に出なくてもいい。
そんなことを言われるとは思っていなかった。授業でヒロシマのことを聞いて辛くなることは想像していなかったし、授業に出なくてもいいと先生から提案されることが意外だった。
被爆国から来た自覚
アメリカ史はアメリカ側から語られる。原爆を投下した側が語る広島。それを投下された国の留学生が聞く。教室に日本人は一人。もしかしたら、いたたまれなくなるかもしれない……。
そんな想像を働かせ、授業を受けるかどうかの選択肢を示す。Mrs. Leeの先回りの配慮は、当時のわたしには進歩的すぎた。
明日は広島のことをやるのだなと知っていたわたしは、それ以上は深く考えていなかったと思う。
Mrs. Leeは「被爆国からの留学生」としてわたしを気遣ってくれたが、わたしにはその自覚がなかった。自分がそのように見られているということにも想像が及んでいなかった。
「大丈夫です」とわたしは伝えた。"I'm OK"とか何とか。その前にお礼を言ったかもしれない。
授業を受けることに抵抗はなかったし、HIROSHIMAがどのように語られるのか、どんな意見が交わされるのかに興味があった。
アメリカ史の中のHIROSHIMA
百科事典ほどの分厚い教科書で、広島への原爆投下についての記述は左右2段組の左側の10行ほどだったと記憶している。短く、事実が述べられていた。投下を正当化するようなことが書かれていたかは覚えていない。3日後に長崎に原爆が投下され、戦争が終わったことは書かれていたように思う。
翌日受けた授業のことも、よく覚えていない。特にショックを受けるようなことも気まずい思いをすることもなかったのだろう。
いつものように意見が交わされたはずだが、原爆投下の是非を問うディスカッションにはならなかったように思う。日本人留学生がいることに配慮あるいは遠慮した生徒もいたのだろうか。
現実だったのか、夢だったのか、わたしが教室で立ち上がり、話しているイメージが時々蘇る。「個人と個人の友情が国と国の友情になる」といったことを話している。あの日の授業での出来事なのか、あの日言いたかった言葉が熟成されているのか。
40年近く前のことで記憶は曖昧だ。はっきりと覚えているのは、授業の当日ではなく、その前の日のこと。HIROSHIMAがアメリカ史の授業でどう扱われたかではなく、その授業を日本からの留学生がどう受け止めるか、想いを馳せてくれた先生のことだ。
過去と他者への想像力
被爆国からの留学生を気遣ったMrs. Leeには、原爆を投下した側の国の人という自覚があった。アメリカ人として、アメリカ史の先生として、被爆国の痛みに寄り添ってくれた。
原爆投下の判断が正しかったのか、間違っていたのか、アメリカでは今も議論が続いている。仕方がなかったという意見。必要はなかったという意見。日本語のSNS上でも議論になっている。
◯か×か、白か黒か、どちらかに着地させようとするとき、異なる主張は封じられ、時には無視される。はねのける言葉は攻撃的になり、溝は深まる。「建設的対話」と対極にある「破壊的対立」。
「明日の授業でヒロシマをやります。授業を受けてもいいし、受けなくてもいい。あなたには選ぶ自由があります」
今だからわかる。Mrs. Leeがあの日かけてくれた言葉には、立場の異なる他者への想像力と敬意が詰まっていた。
「授業を受けなくてもいい」の含みがなく、「授業を受けなくていい」だったら、善意の押し売りになっていた。「被爆国から来た学生なら、聞いて辛くなるはずだ」と決めつけ、「だから、授業は聞かないほうがいい」と押しつけ、授業を受ける選択肢を排除してしまう。良かれと思っての気遣いが、ありがた迷惑になりかねない。
先生が違えば、別方向の「良かれと思って」が発動された可能性もある。「被爆国から来た学生だから、聞いて辛くなるかもしれない。だからこそ、聞くべきだ」と。そう言われて、「勇気を出して授業に出て良かった」となる生徒もいるだろう。でも、もし、わたしがそう言われたら、「どういう姿勢で授業を受けるか」を負わされているようで重く感じたと思う。
選択肢を示した上で、相手に判断を委ねる。決めつけない。押しつけない。「配慮とは」と考えさせられる機会が増えた今、お手本にしたいアプローチだ。
歴史を学ぶことは、他者から学ぶことだ。他者には、今を生きる人も含まれる。角度が変われば、見え方は変わる。光の当たり方が変われば、影のでき方は変わる。立場が違っても、歴史は分かち合える。
「授業を受けなくてもいい」と言ってくれた先生に、授業以上のことを教わった。
人と人から国と国へ
わたしが留学したプログラムは「米国政府高校生招致計画」、通称「府県交流」というもので、わたしは確か3期生だった。
先日、留学以来の再会を果たした久美ちゃんは、同期の一人。ドキュメンタリー番組のリサーチャーとなり、現在はNHK「映像の世紀バタフライエフェクト」を手がける彼女と話したことも、国と国の関係に目を向けるきっかけになった。
レーガン大統領と中曽根康弘首相の「ロン・ヤス外交」で「アメリカの50州と日本の47都道府県の高校生を交換留学させてはどうか」という話になり、実現した「府県交流」。アメリカからは50州の代表2名ずつの100名が夏休み期間(ひと月弱だっただろうか)の短期留学、日本からは都道府県から1名ずつの47名が年間留学で派遣された。
事前研修で日本の文化や歴史を紹介するプレゼンテーションを練習したが、「広島、長崎をどう伝えるか」については触れていただろうか。
被爆国からの留学生という自覚については濃淡があると思う。わたしが広島、長崎出身だったら、アメリカで原爆投下の授業を受ける意識は違ったかもしれない。わたしが小学生の頃は毎年8月6日は登校日で、皆で黙祷した後、平和について考える時間があった。それでもMrs. Leeの気遣いに面食らうほど、遠い出来事になってしまっていた。
留学プログラムの目的として「草の根の交流を相互理解と国際平和につなげる」といったことが掲げられていたと記憶している。当時はなかったインターネットやSNS、さらには生成AIの台頭で、分断を煽るスピードは加速している。対話を積み上げるのは時間がかかるが、壊すのは一瞬だ。それでも、いや、だからこそ、Mrs. Leeが教えてくれた他者への眼差しと思いやりが必要なのだと思う。
タイトル画像は桜と原爆ドーム
タイトル画像は、みんなのフォトギャラリーにて「原爆ドーム」で検索。原爆ドームの写真というと、夏に撮られたものが多く、桜咲く枝越しの姿を初めて見ました。
星の汀 / ほしのみぎわさん、ありがとうございます。千羽鶴の佐々木禎子さんには、小学生の頃、伝記絵本を読み、著者の方に感想を送ったところ、丁寧なお返事をいただいた思い出があります。
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目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。