生命としての「干し柿」の美味しさ
干し柿は、発酵を続ける。高額な和菓子にもかなわない美味しさが生まれる。ほぼ一ヶ月である。夜は露に濡れ昼は冬の日差しに乾く。
干す場所を浮遊する「マイクロバイオーム=微生物・細菌」は柿の表面にたどり着く。柿を好むマイクロバイオームは干し柿の中心に向かいそこで生命のコロニーを作る。代謝を続けて柿であったこともわからないくらいにまで変えていく。

表面にたどり着きながら、柿を好まないマイクロバイオーム達は昼の日差しと乾いた空気に乾燥して離れていく。柿がお口に召さないのだ。
濡れた後で上手く乾かないとカビが生える。
風が大事な要素のような気がする。母の家のベランダは池に面していて日当たりが悪くいつも幾つかはカビていた。
恐ろしく複雑なプロセスが美味しい干し柿を作るのである。
梅干しや味噌も同じである。
生命はどの2つとして同じものはない。
「発酵学」という学問が「ピンコロの人生」の為に役に立たないのは、金にならない世界の現象を腐敗と呼び嫌悪する「ヒト様中心の生命観」にある。
そして商品化された食事に「政治的に正しい権威付け」を行う。
愚かなことである。世界はマイクロバイオームが常に変える。「生命というコロニー」の内側でもいつも変わりながら生きていくのだ。
彼らは「消化・吸収・同化」と現象を呼ぶがあまりにヒト様中心である。セックスも食事も同じ「律」を持ちマイクロバイオームは私達を突き動かす。
「発酵・腐敗」とは常温での生化学物質の変化の事を呼ぶ。その意味では私達の身体の内側で繰り返される「生命のダンス」と同じ「律」を持つのだ。いたく宗教的である。
今くらいの干し柿はまだ「柿のエグミ」が残っている。妻は好むが僕はもう少し「歳のたった干し柿」が好きだ。

もう少し経つと柿だったということも言われなければわからないくらいまで内部の「発酵・腐敗・代謝」は進む。美味いんだから。
食べる時期の好みも人によって違う。これこそが大事なのだ。自分というコロニーが「食」を選び、「食」は次に生きる場を選ぶ。「輪廻転生」とはマイクロバイオームからみた生命観と一致する。
100くらいある干し柿をチマチマと少しずつ食べる。
年が明けたくらいになると中の方まで乾燥が進みまた違った味わいになる。「僕」が生きている世界と同じ空間で「干し柿」は生きている。呼吸をするたびに僕の身体の内には空気中のマイクロバイオームがダンスしに集う。
自分の家で作った発酵食品が美味しいのには訳があるのだ。「手前干し柿」である。
「商品化された食べ物」は本来の味を殺す。賞味期限という商品にマストな属性は「発酵・腐敗」を嫌う。しかし、マイクロバイオーム食らいつくこともない食事を僕らは毎日食べているのだ。


僕は「ガイア思想」が嫌いである。「生命:自然」という言葉でなにか大きな調和が存在するかの如き宗教としか思えない。何よりも彼らの悟りきった目つきが嫌い。
私達が自然などと呼んで崇拝する物は、この地表のごく上っ面に生えたカビのようなものである。地球の99%はドロドロに溶けたマントルと冷たい岩石でできているのだ。こんな小さな石ころに何の価値がある。時にそんな思いに駆られることもある。
しかし、僕は自分や誰かの価値を信じている。
いかに異なって見えても、生命の価値はその内側にあるのだ。そして、それを社会化することは可能だと信じたい。

他の生命を「利」して生きるというのは当たり前に見ることのできる「律」である。高いところにいる誰かが導いてくれているものではないのだ。
月に見えるクレーターの数と同じくらい地表には隕石が落ちている。そのたびに自然は崩壊してまた作り直されているのだ。
環境保護やら温暖化防止などという「政治的な言説」はキャピタリストが富を得るためのものであり、笑い飛ばすに限るのだが、笑えない現実がある。
大昔に読んだ「剣と魔法のSF」を思いだす。
不老不死の魔法を使う主人公が自分を狙う敵を倒すために「魔法を使わずに鍛えた短剣」を使うのだ。
その短剣は魔法同士の戦いで殺される寸前の主人公に勝機を与える。
その短剣には『そしてこれもまた過ぎ去るべし』と刻まれている。
「医学や栄養学という魔法」も過ぎ去るべきものなのである。
今度、包丁に刻んでおこう。

お湯入れて作るものも食べた。マユと妻とわけた(笑)。流石に一つ食い切るほど飢えてはいない。マユに悪いことをした



今日の調理はこれだけである。少し忙しい。何をしている?

イチジクの葉が落ちていっている。



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