卒業の日 #9 朱肉の匂い
3/3 19:02
桜井美月は、病院の仕事が長引いてしまった。
今日は早く帰れると思っていた。
そのつもりで、夕食の準備もしていない。
乗り換えの駅で電車を降りる。
エキナカのコンビニの明かりが目に入った。
(陽斗、お腹空かせてるだろうな)
総菜をいくつか手に取り、急いで会計を済ませる。
袋を持ったまま、急いで次の電車に乗った。
*
家のドアを開ける。
「ただいま」
靴を脱ぎ、しんとした廊下を歩く。
台所の方に明かりがついていた。
(そうだ、お風呂と洗濯たたみもしなきゃ)
通りがかりに風呂場を見る。
(え?)
浴槽がきれいに洗われている。
リビングへ入る。
(え?)
ソファーの上に洗濯物がきれいに畳まれていた。
炊飯器が蒸気を上げている。
(まさか……)
美月は立ち止まった。
「おかえり」
陽斗がキッチンから顔を出す。
「……陽斗が、全部してくれたの?」
「帰りが遅いみたいだったから、待ってるのもなんだなと思って」
美月は、しばらく言葉が出なかった。
「もう中学生だし、これぐらいのことはできるよ」
陽斗は少し照れくさそうに笑った。
(もう、中学生……あれから三年か。)
*
三年前。
夫は家を出た。
『別居』というかたちのまま、時間だけが過ぎていた。
離婚届は、書類入れの中にずっとある。
まだ、はんこを押せていない。
「父がいない」
そんな負い目を負わせたくないと思っていた。
そうやって、ずるずると時間だけが過ぎた。
「ね、お腹すいた。何か買ってきたんでしょ」
「あ、そうだった。コンビニで買ってきた。ハンバーグとお魚どっちがいい?」
「ハンバーグ!」
*
食事をしながら、陽斗が言った。
「今日さ、体育館で卒業式の練習が始まったんだ」
「もうそんな時期か」
「呼びかけとか、歌とか」
陽斗は楽しそうに話す。
誰が何を言うのか。
どんな歌を歌うのか。
「それで、陽斗はなんていうの?」
「内緒!卒業式のお楽しみ」
「えー、なんだろう?」
「お母さん、泣くかも」
「そんなことないよ。お母さん泣かないよ」
陽斗は、まだ話している。
身振りを交えて、楽しそうに。
美月はその様子を見ながら思った。
三年間。
自分だけが、あの日で止まっていたのかもしれない。
美月は、書類入れの方をじっと見つめた。
*
3/19 6:30
まだ陽斗は眠っていた。
美月はタンスの上の書類入れをそっと開けた。
陽斗の手の届かない、一番上にある書類。
離婚届。
三年前から、そこにある。
しまってから、一度も出していなかった。
美月は静かに取り出した。
じっと見つめた。
朱肉を取り出した。
ふたを開ける。
朱肉の匂いが薄く漂う。
トントントン。
朱肉にはんこをつけた。
息を整えてから、一気にはんこをつく。
はんこが、紙につくかすかな音。
はんこが紙を離れた瞬間、美月の心の中の何かも、すっと離れていった。
「おかあさん、おはよ」
振り向くと、陽斗が立っていた。
「起きてたの?」
「うん」
少し、間があいた。
「どうしたの」
「うん……おかあさん、今日までありがとう」
美月は目を見開いて、思わず聞き返した。
「誰にそんなこと言えって教わったの?」
「先生に教えてもらった」
陽斗は笑った。
その笑顔につられて美月も笑った。
「さ、じゃあ朝ごはんにしようか。今日の呼びかけ楽しみ」
美月は、炊飯器のふたを開けた。
(第9話 了)
📚ZAPPING POINT
陽斗の学校の先生の話→#11 ふたつの卒業文集
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