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卒業の日 #9 朱肉の匂い

3/3 19:02

桜井美月は、病院の仕事が長引いてしまった。
今日は早く帰れると思っていた。
そのつもりで、夕食の準備もしていない。

乗り換えの駅で電車を降りる。
エキナカのコンビニの明かりが目に入った。

(陽斗、お腹空かせてるだろうな)

総菜をいくつか手に取り、急いで会計を済ませる。
袋を持ったまま、急いで次の電車に乗った。

家のドアを開ける。

「ただいま」

靴を脱ぎ、しんとした廊下を歩く。

台所の方に明かりがついていた。

(そうだ、お風呂と洗濯たたみもしなきゃ)

通りがかりに風呂場を見る。

(え?)

浴槽がきれいに洗われている。

リビングへ入る。

(え?)

ソファーの上に洗濯物がきれいに畳まれていた。
炊飯器が蒸気を上げている。

(まさか……)

美月は立ち止まった。

「おかえり」

陽斗がキッチンから顔を出す。

「……陽斗が、全部してくれたの?」

「帰りが遅いみたいだったから、待ってるのもなんだなと思って」

美月は、しばらく言葉が出なかった。

「もう中学生だし、これぐらいのことはできるよ」

陽斗は少し照れくさそうに笑った。

(もう、中学生……あれから三年か。)

三年前。
夫は家を出た。

『別居』というかたちのまま、時間だけが過ぎていた。

離婚届は、書類入れの中にずっとある。
まだ、はんこを押せていない。

「父がいない」

そんな負い目を負わせたくないと思っていた。
そうやって、ずるずると時間だけが過ぎた。

「ね、お腹すいた。何か買ってきたんでしょ」

「あ、そうだった。コンビニで買ってきた。ハンバーグとお魚どっちがいい?」

「ハンバーグ!」

食事をしながら、陽斗が言った。

「今日さ、体育館で卒業式の練習が始まったんだ」

「もうそんな時期か」

「呼びかけとか、歌とか」

陽斗は楽しそうに話す。

誰が何を言うのか。
どんな歌を歌うのか。

「それで、陽斗はなんていうの?」

「内緒!卒業式のお楽しみ」

「えー、なんだろう?」

「お母さん、泣くかも」

「そんなことないよ。お母さん泣かないよ」

陽斗は、まだ話している。
身振りを交えて、楽しそうに。
美月はその様子を見ながら思った。

三年間。

自分だけが、あの日で止まっていたのかもしれない。

美月は、書類入れの方をじっと見つめた。

3/19 6:30

まだ陽斗は眠っていた。
美月はタンスの上の書類入れをそっと開けた。
陽斗の手の届かない、一番上にある書類。

離婚届。

三年前から、そこにある。
しまってから、一度も出していなかった。

美月は静かに取り出した。

じっと見つめた。
朱肉を取り出した。
ふたを開ける。
朱肉の匂いが薄く漂う。

トントントン。

朱肉にはんこをつけた。

息を整えてから、一気にはんこをつく。

はんこが、紙につくかすかな音。
はんこが紙を離れた瞬間、美月の心の中の何かも、すっと離れていった。 

「おかあさん、おはよ」

振り向くと、陽斗が立っていた。

「起きてたの?」

「うん」

少し、間があいた。

「どうしたの」

「うん……おかあさん、今日までありがとう」

美月は目を見開いて、思わず聞き返した。

「誰にそんなこと言えって教わったの?」

「先生に教えてもらった」

陽斗は笑った。
その笑顔につられて美月も笑った。

「さ、じゃあ朝ごはんにしようか。今日の呼びかけ楽しみ」

美月は、炊飯器のふたを開けた。


(第9話 了)

📚ZAPPING POINT
陽斗の学校の先生の話→#11 ふたつの卒業文集


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