卒業の日 #14 サヨナラ、ニッポン
3/31 20:01
店のガラスに、外の暗さが映っていた。
レジの前に立ちながら、彼は声を出す。
「イラッシャいマセ」
名札には「スタッフ」とだけ書かれている。
本当の名前は、ここにはない。
少し前の客のことを、思い出していた。
入って来た時には、元気がなかった。
髪の毛はぼさぼさで、何日も洗っていないようだった。
力なく歩く様子が気になった。
彼は、グミを一つだけ買った。
それだけ。
でも、店を出るときには少し元気になったように見えた。
何か重荷を下ろしたかのようだった。
*
(重荷か……)
日本に来たとき、夢があった。
それが、重荷だとも思っていなかった。
新しい環境で、新しいことを学びたくてここまで来た。
けれど現実は、思っていたよりも厳しかった。
言葉は通じる。
コンビニの仕事もできる。
それでも、自分を避けるように引かれる線。
いつからだろう。この国にいるのが嫌になったのは。
*
「おい、ちゃんと聞けよ」
レジの前で、若い男たちが言った。
少し酔っているようだ。
彼の発音を真似て、笑う。
もう、何も言う気が起きなかった。
ただ、レジを打つ。
「アリガトウゴザイマす」
それだけを言った。
客が出ていったあと、時計を見た。
この国での終わりの時間が、近づいていた。
今日が最後の勤務だ。
これが終わったら、給料をもらってそのまま祖国に帰れる。
*
3/31 20:30
店を出た。
荷物は、このリュック一つにまとめた。
もう部屋も引き払っている。
このまま、飛行機に乗って帰る。
少しだけ遅くなった。
小走りに駅前のロータリーに出る。
タクシーのライトが近づいてきた。
手を上げる。車はすぐに止まった。
「どちらまで?」
「クウコウまで、オネガイシマす」
「お急ぎですか?」
「エ?」
「いや、少し息が上がっておられるので」
車は、静かに走り出した。
信号をいくつか抜ける。
スピードは上がるが、不思議と怖くなかった。
「日本は、長かったのですか」
運転手が、ふと聞いた。
「……五年デス」
「おお。そんなに長く。大変だったでしょう」
「エエ……」
なんだろう。
ふだんなら、自分から話しかけることはない。
なのに、彼はぽつりと話し始めた。
最初は、言葉が通じなかったこと。
笑われたこと。
必死に勉強して、コンビニでも、
うまく仕事ができるようになったこと。
だけど、やっぱりこの国にいるのが、
つらくなって帰ること。
言葉は、止まらなかった。
高速道路のランプが運転手の顔を何度も通過する。
空港が見えてきた。
――最後に、やっと『日本語』で話せた。
彼は、鏡越しに運転手の顔をじっと見た。
運転手はやさしくうなずいているようだった。
*
明るい光が近づいてくる。
タクシーは、第1ターミナルのタクシー降り場に到着した。
「着きましたよ」
「アリガトウゴザイマす」
さっきもらった給料から、料金を払った。
降りようとしたときだ。運転手が後ろを振り向いた。
「これ、よかったら」
QRコードのついた、小さな名刺だった。
MAHOROBA TAXI:MATSUI TARO
「また来たときに、使ってください」
松井さんは、にこやかだった。
「日本、いいところですよ」
(ニッポン、いいトコロ)
「……ハイ」
少し考えてから、彼も笑顔を見せた。
*
手続きを済ませる。
飛行機に乗った。
窓の外、滑走路の光が流れていく。
やがて、軽い浮遊感。
一気に街の灯が、小さくなった。
日本で過ごした日々が、街の明かりのように浮かんでは消える。
“Would you like something to drink?”
客室乗務員のやわらかい声だった。
「……おネガイします」
無意識に日本語で答えていた。
そして、遠ざかる街の光を
じっと見つめるその目は、
少し笑っていた。
(第14話 了)
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いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
物語があなたの癒しになれば幸いです。
チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。