見出し画像

卒業の日 #14 サヨナラ、ニッポン

3/31 20:01

店のガラスに、外の暗さが映っていた。

レジの前に立ちながら、彼は声を出す。

「イラッシャいマセ」

名札には「スタッフ」とだけ書かれている。
本当の名前は、ここにはない。

少し前の客のことを、思い出していた。
入って来た時には、元気がなかった。
髪の毛はぼさぼさで、何日も洗っていないようだった。
力なく歩く様子が気になった。

彼は、グミを一つだけ買った。
それだけ。
でも、店を出るときには少し元気になったように見えた。
何か重荷を下ろしたかのようだった。

(重荷か……)

日本に来たとき、夢があった。
それが、重荷だとも思っていなかった。
新しい環境で、新しいことを学びたくてここまで来た。
けれど現実は、思っていたよりも厳しかった。

言葉は通じる。
コンビニの仕事もできる。
それでも、自分を避けるように引かれる線。

いつからだろう。この国にいるのが嫌になったのは。

「おい、ちゃんと聞けよ」

レジの前で、若い男たちが言った。
少し酔っているようだ。

彼の発音を真似て、笑う。
もう、何も言う気が起きなかった。

ただ、レジを打つ。

「アリガトウゴザイマす」

それだけを言った。
客が出ていったあと、時計を見た。
この国での終わりの時間が、近づいていた。

今日が最後の勤務だ。
これが終わったら、給料をもらってそのまま祖国に帰れる。

3/31 20:30

店を出た。
荷物は、このリュック一つにまとめた。
もう部屋も引き払っている。
このまま、飛行機に乗って帰る。

少しだけ遅くなった。
小走りに駅前のロータリーに出る。
タクシーのライトが近づいてきた。
手を上げる。車はすぐに止まった。

「どちらまで?」

「クウコウまで、オネガイシマす」

「お急ぎですか?」

「エ?」

「いや、少し息が上がっておられるので」

車は、静かに走り出した。
信号をいくつか抜ける。
スピードは上がるが、不思議と怖くなかった。

「日本は、長かったのですか」

運転手が、ふと聞いた。

「……五年デス」

「おお。そんなに長く。大変だったでしょう」

「エエ……」

なんだろう。
ふだんなら、自分から話しかけることはない。
なのに、彼はぽつりと話し始めた。

最初は、言葉が通じなかったこと。
笑われたこと。
必死に勉強して、コンビニでも、
うまく仕事ができるようになったこと。
だけど、やっぱりこの国にいるのが、
つらくなって帰ること。

言葉は、止まらなかった。

高速道路のランプが運転手の顔を何度も通過する。

空港が見えてきた。


――最後に、やっと『日本語』で話せた。

彼は、鏡越しに運転手の顔をじっと見た。
運転手はやさしくうなずいているようだった。

明るい光が近づいてくる。
タクシーは、第1ターミナルのタクシー降り場に到着した。

「着きましたよ」

「アリガトウゴザイマす」

さっきもらった給料から、料金を払った。
降りようとしたときだ。運転手が後ろを振り向いた。

「これ、よかったら」

QRコードのついた、小さな名刺だった。

MAHOROBA TAXI:MATSUI TARO

「また来たときに、使ってください」

松井さんは、にこやかだった。

「日本、いいところですよ」

(ニッポン、いいトコロ)

「……ハイ」

少し考えてから、彼も笑顔を見せた。

手続きを済ませる。
飛行機に乗った。
窓の外、滑走路の光が流れていく。

やがて、軽い浮遊感。

一気に街の灯が、小さくなった。
日本で過ごした日々が、街の明かりのように浮かんでは消える。

“Would you like something to drink?”

客室乗務員のやわらかい声だった。

「……おネガイします」

無意識に日本語で答えていた。
そして、遠ざかる街の光を
じっと見つめるその目は、
少し笑っていた。


(第14話 了)

📚ZAPPING POINT
タクシーの運転手の話→#17 真昼の卒業

#卒業の日
#短編小説
#小説
#連作短編
#物語
#卒業
#外国人労働者
#日本語
#日常の物語
#静かな物語
#一条詩紋

いいなと思ったら応援しよう!

一条 詩紋 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 物語があなたの癒しになれば幸いです。 チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。