今夜オフィスでごはんを食べよう 第一話 出会いのたけのこ
<あらすじ>
28歳の真木亜由美は、大手食品会社から地方の食材を扱う小さな企画会社『Creative Partners 結』に転職して3ヶ月。人の懐にぐいぐい入ってくる社長シンと、彼の明るさがそのまま空気となって流れるオフィス。人に心を開くのが苦手な亜由美は、その雰囲気に馴染めずにいた。
4月の朝。亜由美はオフィスのキッチンで、たけのこを茹でる瀬戸彩子と出会う。シンと家族のように親しい彩子は、彼に頼まれその夜たけのこ料理をふるまうことに。
彼女の料理に心動かされた亜由美は、少しずつ自分や過去と向き合っていく。
オフィスのキッチンという空間を舞台に、料理を通じて人と人がつながり、大切なことに気づいていく物語。
+++
電車を降り、人波に流されながら、中目黒駅の改札を抜ける。
「はあ~」と大きく息を吐くと、月曜朝の憂鬱な気持ちがちょっと軽くなった。目の前の信号を渡り、いつものコンビニに立ち寄った。
店内は朝食や昼食を求めに来たひとたちで混雑していた。
おにぎりの棚の前で足を止める。梅と、鮭。野菜ジュースも忘れずに。
赤いカップのミネストローネが視界に入った瞬間、胸の奥がちくりとした。口には出さず、心の中でつぶやいた。
――まだあるんだ。
大学卒業後、5年勤めた大手食品会社で手がけた商品だった。懐かしい、と感じたのはほんの一瞬で、すぐにあの頃の苦い記憶が蘇ってきた。
人と話すより、数字と向き合う時間のほうが多かった日々。オフィスで笑ったことなんて、あっただろうか。
スープをそっと棚に戻して、何もなかったようにセルフレジへ向かう。会計を済ませて外に出ると、少し風が吹いていた。
アスファルトの歩道には、桜の花びらが少しだけ残っていた。28歳になる直前に転職して3ヶ月、まだ緊張もあるけれど、目黒川沿いのこの道を歩くときだけは、すこしだけ心がゆるむ。
住宅街の奥まった路地を抜けた先に、私の勤める小さな会社がある。
古い鉄筋コンクリート3階建てのアパートを無理やり改築した建物は、ちょっと斜めっていて、住宅街のなかに馴染んでいない。外壁は白く塗り直されているけれど、窓枠はどこか古く、ところどころペンキが剥げかけていた。
Creative Partners 結
と書かれた看板だけが、やたらと今風だ。
『Creative Partners 結』は、地方の食材や文化を都市とつなぐ、15人ほどのスタッフが働く小さな企画会社だ。農家と協力しての商品開発、地域の特産品を紹介するECサイトの運営が主な仕事。地方の自治体と協力して都内でマルシェを開くこともある。
人と食をつなぐ、地方再生の仕事。と言えば聞こえはいいが、実際は、地味で手間の多い毎日だ。
鉄扉をぐいっと押し開けた。玄関を入ってすぐ、まっすぐ伸びる廊下があり、左手にラウンジとキッチン、右手には、2階のオフィスへと続く階段がある。
私は、いつものように階段を上がろうとしたが、その足をふと止めた。
「あれ?」空気が、昨日までと違っていたのだ。
ラウンジに入ると、土と湯気、少し香ばしいような、懐かしい匂いが漂っていた。
ラウンジの奥にあるカウンター。その向こうにキッチンがある。大きめのシンクに三口のガスコンロ。商品を使った試作もできるよう設計された、おしゃれで広々としたキッチンは、4、5人が並んで作業するのに十分なスペースがある。ふだんはスタッフがコーヒーを淹れたり、電子レンジでお弁当を温める程度にしか使われていないが、今日はまるで「台所」のような気配をまとっていた。
ラウンジ中央の長テーブルには新聞紙が広げられ、土のついたたけのこがごろんごろんと、何本も転がっている。ほのかな土の香りが漂い、春の気配を感じさせた。
オフィスにたけのこ?
理由が浮かばないまま、肩にかけていたバッグを下ろして椅子に置き、コートを脱いだ。
換気扇のぶわんぶわんという音が響いている。
その下を見ると、背中の丸い小柄な女性が、大鍋の中をのぞき込んでいた。白いシャツに鮮やかなオレンジのエプロンをつけ、頭に巻いた手ぬぐいは後頭部できゅっと結ばれていた。
「わ、びっくりした!」
私に気づき、女性が振り向いた。目を丸くして笑う。
「早いのねぇ。まだ8時ちょっと過ぎたとこよ。いつもこんなに早いの?」
私より少し背が低く、ふっくらした女性だった。母と同じくらいの年齢だろうか。彼女の穏やかな笑顔に、少し心がざわついた。知らない相手に、にこやかに話しかけられると、余計に構えてしまう。
「はい、朝の、誰もいない時間が好きなんです。あの、どちら様ですか」
少しだけ固く冷たい声で聞いてしまった。
「おはようございます。瀬戸彩子です。シンちゃん、――あ、ごめんなさい、社長さんが子どもの頃からの知り合いなんです。
『実家からたけのこが山ほど届いて困ってるねん』って昨夜連絡がきてね。じゃあ、私が下茹でしてあげようかって話になったんです。急におじゃましてごめんなさいね」
彼女はそう言うと、ていねいに私にお辞儀をした。私も慌てて、軽く会釈した。
「あ、おはようございます。真木亜由美です」
「亜由美さん。よろしくね」
言い終えると、彼女はまた鍋のほうを向いて火を弱め、流し台でたけのこを洗いはじめた。
ぶくぶくと沸く音とともに、鍋から湯気が立ちのぼっている。たけのこの香りがふっと濃くなった。
初対面、加えて母親のような年代の女性と朝のオフィスで二人きりという気まずさから、そっとキッチンから離れようとしたときだった。
「おはよう!」
沈黙を破って、ちょっとしゃがれた大きな声が聞こえた。シンさんだった。
「おー、亜由美ちゃん、今日も早いね。彩子さん、朝早うからすんません。でも助かるわあ」
くしゃくしゃの髪、Tシャツにジャケットを羽織っただけの、いつものスタイルのシンさんがいた。180センチの長身で、学生時代サッカーをやっていたという筋肉質な体型を、今もちゃんと維持している。私より7歳年上の35歳。社長だけど、気取ったところがまるでない。
「彩子さん、たけのこ、どないです?」
「大きくて立派やわ。一度に全部は無理やから、今、順番に茹でてるところよ」
社長の実家からたけのこが届いて、それを会社で茹でる。そんな朝を想像したことがなかった。
「そうや、紹介してなかったな。えっと、こっちが真木亜由美さん。1月からうちに入ってくれてて。で、こっちは瀬戸彩子さん。実家がある大阪の団地に住んでた頃から、ずっとお世話になってる人やねん」
シンさんが言い終わる前に、
「さっき、ちょこっとごあいさつしたのよね」
瀬戸さんがいたずらっぽく笑い、湯気の向こうからこちらをのぞいた。
私は小さくうなずいた。笑顔を返す余裕は、まだなかった。
でも、目の前のやりとりを見ていたら、ふと胸のあたりがゆるんだ気がして、気になっていたことを、思いきって口に出してみた。
「このたけのこ、シンさんのご実家で育てておられるんですか?」
シンさんはちょっと照れたように笑って、懐かしむような表情で、ゆっくり話し始めた。
「実家がある団地の周りに、かなり大きい竹林があってな。オレのおとん、昔からそこの保全ボランティアやってるんや。
毎年たけのこの時期は、団地に住むひとたちでたけのこ掘りやるんやけど、今年はえらい豊作でな。
『東京で社長やってる息子にも送ってやれ』ってボランティア仲間や団地の人らに言われて、送ってきてくれたんや」
「あの竹林、まだ残ってるのね。懐かしいなあ。うちの息子が小学生の時は、毎年たけのこ掘り大会があってね、息子と一緒に行ったのよ。
たけのこ見つけてもなかなか掘り出せずにいたら、シンちゃんのお父さんが手伝ってくれたのよね」
ふたりが懐かしそうに話す『団地』という言葉から、遠い記憶が浮かんだ。5階建ての四角い建物がまっすぐ並んでいた、あの場所。祖母がひとりで暮らしていた、単身者向けの小さな部屋。
住宅街の中にあったその団地は、敷地内にまっすぐな広い道路が通っていて、歩道もゆったりとしていた。
子どもの頃、自転車でその道を風のように走るのが好きだった。2つあった公園はどちらもきれいに整備されていて、昼間は親子連れでにぎわっていた。
だが、シンさんと彼女が話している団地は、私が知っている団地とはかなり違う。竹林があった、なんて、結構田舎の団地なんだろうか。
「亜由美ちゃんは、団地って聞いてもようわからんか」
シンさんに言われて、ちょっとむきになって答えた。
「わかります。祖母が横浜のK区にある団地に住んでいましたから。でも、シンさんのご実家がある団地とはずいぶん違いますけど」
「そうやろなあ。オレらが住んでたんは、60年以上前に大阪のT市とS市にまたがってできたニュータウンの団地や。もともとでっかい竹林があってな、そこを開発してできたニュータウンなんやけど、竹林の一部はそのまま残されたんや」
シンさんたちが話す団地からは、土の匂いがする。それは祖母が暮らしていた団地にはなかった気配だった。
「ええなあ。懐かしい春の香りや。今年はみんなで花見できんかったけど、たけのこで春を呼び込めたな」
シンさんはそう言うと、茹で上がったばかりのたけのこに鼻を近づけた。
シンさんを見ていると、他人との距離感が、このひとには存在しないんじゃないかと思うことがある。
そんな彼が社長だから、だろうか。うちの会社に流れる『文化』は、この人の性格そのまま。ちょっと雑だけど、あたたかく、ひとの懐にぐいぐい入りこんでいく。この会社で働き始めて3か月の私には、前職の文化と違いすぎて、まだ馴染めずにいる。
「そうや」
なにかいいことを思いついた子供のような顔で、シンさんが瀬戸さんのほうを向いた。
「彩子さん、もし無理でなかったらやけど。このたけのこで、今夜なんか料理してくれへんかな。今年は花見もできへんかったし、みんなでたけのこ料理食べて、春の味楽しめたらええなあって思って。今日の夕方からやったら、みんなも集まれそうやし……」
シンさんが「お願いします!」と手を合わせて瀬戸さんを拝んでいる。彼女は少し驚いたように目を見開き、そして笑った。
「えぇ? 今日の夜、ここでたけのこ料理を作れって? まったく。シンちゃんの急な思いつきと、その『お願い!』は、昔から変わらないわね」
少しだけ考えるように視線を上に向けてから、ゆっくりと言った。
「でも……まあ、今日の午後は家のこともそんなにないし。一度家に帰って支度して、夕方早めに買い出しに行けたら、なんとかなるかな。私の家は、ここから電車と歩きで15分くらいだから、それほど時間もかからないし」
「ほんま? 彩子さん、助かるわ! ありがとう!」
シンさんが嬉しそうにまた手を合わせると、瀬戸さんは「まったくもう」と笑いながらも、その目は、少し楽しそうだった。
その突然で強引な誘いに、私は戸惑っていた。
「でも、みなさんご予定あるんじゃないの?」
瀬戸さんが遠慮がちにチラッと私のほうを見て言った。私はとっさに視線を外した。
シンさんの無邪気な明るさを見ながら、私は少し戸惑ってしまった。
歓迎会はやんわり断ったし、忘年会や新年会が流れたときは、正直ほっとしたくらいだ。
人と食事をし、会話を交わすことが私は今でも苦手だ。それは、子どものころからずっと変わらない。
たぶん、あの頃からだと思う。
私が6歳の頃両親が離婚し、母との二人暮らしが始まった。仕事で忙しい母に代わって、祖母が夕食を作りにきてくれるようになった。祖母とふたりで夕食をとり、食べ終わるころに母が帰ってくる。そんな毎日だった。
だが、中学2年のときに祖母が亡くなってから、夕食をひとりで食べる日々が始まった。
母は毎日仕事で帰りが遅く、音のない食卓にテレビの声だけが流れていた。
それが当たり前になって、人と向かい合って食べる時間が、苦手になった。
食べるだけじゃない。
話すことにも、どこか肩の力が入ってしまう。
「みんなで食べよう」
その一言に、私は心が固くなった。
「よっしゃ! 決まりや! 彩子さん、オレ買い出し一緒に行くから、あとで待ち合わせ時間と場所相談しよう。あ、お礼はちゃんとさせていただきますんで」
瀬戸さんの言葉が聞こえていなかったのように、シンさんはひとり盛り上がっていた。
「やっぱりここだ。シンさん、亜由美ちゃん、朝の打合せ始めますよ」
先輩社員のノブさんがラウンジのドアを開けて、大きな声で私たちを呼んだ。
「お、もう9時か! ノブ、すまんすまん。すぐ行くわ。彩子さん、ほな、またあとで!」
そう言うと、シンさんはラウンジを出て階段を駆け上がり、2階のオフィスに向かった。
「いつも早い亜由美ちゃんが、めずらしくデスクにいなかったからさ。シンさんとふたりで何話してたの?」
瀬戸さんに軽く会釈をしたノブさんと私は、急ぎ足で階段を上がった。
「ええっと。たけのこについて。くわしくは、シンさんからお話があると思います」
「キッチンにいたあの女の人、誰? シンさんの知り合いなの?」
ノブさんに答えようとしたとき、
「おはよう!早速やけど、みんな、今夜空いてる?」
オフィスからシンさんの大きな声が聞こえてきた。
+++
仕事がひと段落した夕方、時計を見ると午後5時を過ぎていた。
「わかりました! そしたら今から伺います。20分でそちら着くと思いますので、のちほどまた」
シンさんがスマホを手にお辞儀をしていた。
「亜由美ちゃん、すまん、お願いや」
なにか仕事を振られるのか。今日は残業だなと思っていたら、シンさんは私が想像していなかったことを頼んできた。
「ちょっと、キッチンの彩子さん、手伝ってきてくれへんか? 一緒に買い出し行ったあと夕方から料理も手伝う約束しててんけど、急な打合せが入って、今から恵比寿まで行かなあかんねん」
シンさんが両手を合わせて私を拝んでいる。
「え、私、そんなに料理得意じゃないし……」
断ろうとする私に、
「大丈夫や。彩子さんに聞いたら教えてくれるわ。7時には戻ってくるから」
そういうと、デスクに広げた書類をまとめて、ノートパソコンを閉じて、ビジネスリュックに入れると、あっという間にオフィスを出て行った。
隣の席で、ノブさんが笑いをかみ殺していた。
「シンさん、相変わらずの無茶ぶりだよなあ。亜由美ちゃん、今日はいいよ。急ぎの仕事あったら僕がやるから。料理手伝ってきてあげて」
「じゃあ、なにかあったら呼んでください」と言って、私はパソコンの電源を落として、キッチンへ向かった。
キッチンを覗くと、瀬戸さんが一人、台所に立っていた。
髪を後ろでまとめ、白いシャツの袖を肘までまくって、たけのこを切っていた。とん、とん、という静かな包丁のリズムと、煮物の湯気が立つ音が聞こえた。
「ごめんね、お料理まだ出来上がってないのよ」
振り返った瀬戸さんが、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「あの、シンさんに言われて手伝いにきました」
本当は来たくなかったんですけど、という心のなかの声が彼女に聞こえたかもしれないと思い、自分の不機嫌な物言いを少し後悔した。
「助かるわあ」
瀬戸さんの明るい声と笑顔に、私はほっとした。
「あの、なにすれば……」
そう言いかけた時、ピーっと炊飯器が炊き上がりの合図を鳴らした。瀬戸さんが炊飯器の蓋を開けると、ふわーっと湯気が立ち上った。ふわりとたけのこの香りが鼻をくすぐる。
炊飯器の中では、細かく刻まれたたけのこと薄揚げが、昆布といっしょにふっくらと炊き上がっていた。
「たけのこごはんはね、昆布とお酒、あと薄口醤油ちょっと入れて炊くと、色がきれいに仕上がるのよ」
瀬戸さんが炊き上がったごはんを下から大きく混ぜると、美味しそうなおこげが顔を出した。いい香りだ。炊きたてのたけのこごはんなんて、何年ぶりだろうか。
「亜由美さん、そのお鍋の中にあるたけのこ、フライパンで軽く焼いてくれるかな?」
瀬戸さんに言われて、大きなアルミ鍋の蓋を開けると鰹節の香りがふわっと立ちのぼる。だし汁、酒、みりん、醤油で煮たというたけのこには、鰹節がたっぷりかかっていた。
これでも十分美味しそうと鍋の中を見て思ったが、言われた通り、ガスコンロの下にある収納からフライパンを出して、火にかけた。強火でフライパンを温めて、油を少し入れて、フライパンを回して油を広げる。火を少し弱めて、鍋のたけのこをフライパンに入れていく。バチバチッと油がはねてドキッとしたが、すぐにおさまった。
「煮汁をきっておかないと、油がはねるのよね。ごめんなさい、先に言っておいたらよかったわね。やけどしなかった?」
「はい、大丈夫です。あの、これ、どれくらい焼いたらいいですか?」
「そうねえ。亜由美さんが美味しそうって思う焼き目がついたら、最後にさっとお醤油をまわしかけて、こっちの大皿に入れてくれたらいいわ」
瀬戸さんから3分とか5分という答えがかえってくると思っていたのに、美味しそうって思うまでと言われ、困った。
だが、一心にたけのこをみじん切りにしている彼女に声をかけるのもためらった。
フライパンのたけのこをじっと見つめ、じりじりという音を聞く。焦がすのがこわくて、なんどもたけのこの下に箸をいれて覗いて確かめる。まだ『おいしそうな焼き目』とは思えない。
そろそろと思ったタイミングでひっくり返すと、うすいこげ茶の焼き目がついていた。思わず「あ、おいしそう」と口に出てしまった。
「ほんまに、ええ色やね。全部ひっくり返して、もう少し焼いたら最後にお醤油さっと回しかけといてね」
瀬戸さんが隣に来て、フライパンを覗きながら言った。さっと回しかけるって、どれくらいの醤油をかけたらいいんだろう? 昔祖母がしていたのを思い出して、フライパンに大きく円を描くように醤油を入れた。
ざっと混ぜて火を止めると、醤油の焦げた香りが広がった。いい匂いだ。満足して大皿に並べていると、「亜由美さん、お料理上手なのね」と瀬戸さんに言われた。お世辞とわかっていても、ちょっとうれしい。
瀬戸さんが両手をパンと叩いた。なんだろうと思ったら、爽やかな青い香りがひろがった。
「これね、木の芽。こうして叩くと、香りがよく出るのよ。これを乗せて、木の芽焼きのできあがり」
ああ、おいしそうだなあ。今日はデスクに置いているおやつ、食べそびれたんだったと思い出した。
「じゃあ、次はたけのこラー油お願いしようかな。そのフライパン、洗って使いましょう」
瀬戸さんに言われて、シンクでフライパンをていねいに洗った。この職場で、自分が使ったマグカップや皿以外を洗うのは初めてだ。
会社のキッチンで料理している。そんな非日常に、少し心がふわっとした。
フライパンをガスコンロに乗せ、火をつける。瀬戸さんはフライパンにごま油を回し入れて、みじん切りのニンニク、生姜、長ネギ、それに唐辛子を加えた。ジューッという音と、ニンニクとしょうがの香ばしい香りが広がる。唐辛子の辛味がちょっと鼻に入り、くしゃみが出てしまった。
「亜由美さん、たけのこのみじん切りも入れてくれる?」
ゆで卵の殻をむきながら、瀬戸さんがこちらを向いて言った。
ざっとフライパンに入れると、ジャーっという音が心地よく響いてくる。
酒、醤油やお酢を、瀬戸さんがフライパンに回しかける。計量スプーンなど使わず、迷うことなく入れていく。
「おばあちゃんもこうやって料理してたな」と、思い出していた。今日は久しぶりに祖母のことがよく思い出される。瀬戸さんとシンさん、家族のようなふたりのやりとりが、祖母と私が過ごした静かであたたかな時間と重なったのかもしれない。
「そろそろ火を止めてもらおうかな。たけのこラー油。これ、簡単なのに美味しくてね、瓶に詰めておくと日持ちもするのよ」
細かく刻まれたたけのこに、にんにくや生姜、長ネギの香りと唐辛子の赤が混ざって、つやつやとしていた。香りはラー油そのものだが、たけのこが入るとどんな食感になるんだろう? 想像するだけでお腹が空いてきた。
瀬戸さんを見ると、大きなガラスのグラタン皿に薄切りのたけのことゆで卵を並べていた。
「今日は缶詰のソース使うけど、こうしてちょっと焼くだけで、ごちそうになるのよ」
そう言ってホワイトソースをかけて、最後にチーズをのせていた。オーブンにグラタン皿を入れて、そっと閉めた瀬戸さんの手元が、妙に印象に残った。いつもはレンジの温め機能しか使われていないオーブンが、今日は大活躍だ。
「なんとか7時には全部出来上がりそうだわ。もうすぐシンちゃんも戻ってくるでしょう。亜由美さん、ありがとう。手伝ってくれて助かったわ」
「いえ、そんな。大した事してないので」
そうだ。私はただ、瀬戸さんに言われたことをしていただけだ。けれど、自分の手を動かして、たけのこが美味しそうに焼けていくのを見たり、木の芽の香りを感じたり、ラー油の味を想像したり──そのひとつひとつが、自分でも驚くほど楽しくて、新鮮だった。仕事で使う言葉や数字では伝えられない世界が、そこにはあった気がした。
誰かが、誰かのために、丁寧に料理をする。その姿を見るのも、久しぶりだった。瀬戸さんの手の動きも、包丁の音も、静かに心に残った。
今朝会ったばかりなのに。あのときは、警戒心の方が勝っていたのに。今はとなりにいて安心する。そんなふうに思っている自分に、少し驚いていた。
7時に料理がすべて出来上がった。
「うわー、いい匂い。これ、木の芽の香りだよね」
「すげー、グラタンもある!」
「たけのこごはんなんて、久しぶりだなあ」
「若竹煮だ。なつかしいなあ」
オフィスにいた13人全員が集まり、ラウンジは一気ににぎやかになった。
瀬戸さんとの静かな時間は心地よかったが、やはりまだ、私は賑やかな場で、会話しながら食事をするのは苦手だ。私はその場をそっと離れてオフィスにもどろうとした。
「亜由美さん、みんなと食べないの?」
瀬戸さんに声をかけられた。今日中に終わらせないといけない仕事あるのを思い出したので、と言うと、ちょっと待っててと引き留められた。
「忙しいのに、手伝ってもらってごめんなさいね。じゃ、これ。料理したひとの特権!」
瀬戸さんが渡してくれたお皿には、ひとりでは食べきれないほど、たくさんの料理が盛られていた。たけのこごはんは食べやすいようにおむすびにしてくれて、グラタンは小さなココットに入れてくれた。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言うと、私はラウンジをそっと出て、オフィスへの階段を上った。
「おお!ええタイミングで帰ってこれた! 彩子さん、めっちゃ美味しそうやないですか。やっぱり頼んでよかった!」
シンさんの明るい声とみんなの笑い声がキッチンに響いていた。
+++
1階のラウンジからにぎやかな声が聞こえている。壁の時計を見たら、8時を過ぎていた。
「亜由美ちゃん、せっかく瀬戸さんと一緒につくったのにラウンジでみんなと食べないの?」
デスクに戻ってきたノブさんに声をかけられた。
「今日中に先方に送らないといけない見積もりがあるの思い出しちゃって。あとで行きます」
とっさに嘘をついてしまった。
「そっか。じゃ、ちょっとだけでも顔出しなよ」
ノブさんはそれ以上なにも言わず、オフィスを出て行った。
「さすがにお腹空いたなあ」
デスクに戻ってから、引き出しにあるチョコレートを2粒ほど口に入れただけだった。
瀬戸さんが白い皿にたっぷりと盛り付けてくれたたけのこ料理。すっかり冷めてしまったが、箸を手に取り食べ始めた。
「まずは、私が焼いたこれから」
そう言って、たけのこの木の芽焼きを一切れ口に入れた。醤油の香ばしさと木の芽の爽やかな香りがふわりと広がり、しゃくっとたけのこをかむと、口の中が春になった気がした。
たけのことわかめの煮物は、祖母もよく作っていた。子どもの頃はそんなに嬉しくなかったのに、なぜか今夜は懐かしく思い出す。
瀬戸さんの煮物は、祖母のものと違い、見た目の色は淡い。関西の人だから味も薄いのかな。そう思いながら口に入れると、たけのこの風味が舌に広がった。そうか、薄口醤油だ。だから煮物の色が薄く、きれいなんだ。
たけのこラー油は、細かく刻まれたたけのこに、生姜やにんにく、長ネギの香りと唐辛子の赤が混ざってつやつやと輝いていた。瀬戸さんが丁寧にたけのこを切っていた姿を思い出した。
一口食べるとピリッとした辛味が舌にきて、そのあとにたけのこのシャクシャクという食感が続く。辛いものは得意でないが、これは、おいしい。白いご飯はもちろん、冷ややっこやスティック野菜にも合いそうだ――そんな想像が自然にふくらむ。
最後に、ココットに入ったグラタンにフォークを入れる。チーズが焼けた表面はすっかり冷めて固くなっていた。できたてを食べておけばよかったなと少し後悔しながら、フォークをぐっと刺す。とろりと絡んだホワイトソースが、あっさりとしたゆでたけのこを包む。ゆで卵と一緒に食べると、なんだか少し贅沢な味がした。
どれも初めて食べるのに、どこか懐かしい味がした。瀬戸さんが少し多めに盛り付けてくれた料理を、気づけばきれいに食べ終えていた。たけのこのおむすびだけは、今はお腹に入らない。あとでゆっくり味わおう。
「ごちそうさまでした」
小さな声でそう言って、手を合わせた。作ったひとのことを思いながら食べたのは久しぶりだった、と気づいた。
+++
食べ終えた皿を洗おうと、キッチンに降りた。
ラウンジでは大きなテーブルを囲んで、みんなが楽しそうに食べて、しゃべって、飲んでいた。
シンクには皿やグラス、空になった鍋が置いてあった。私はスポンジに洗剤をかけて洗い物を始めた。ラウンジの会話が聞こえてくる。私はこれくらいの距離がちょうどいい。
「なんだか話聞いてたら、彩子さんたちが暮らしていたニュータウンの団地、うちの田舎に似てますね」
ちょっと酔ったノブさんの声が聞こえた。
「そうですよね。ぼくの実家の近くにも団地はあったけど、マンションと変わらない感じだったもんな。でもシンさんと彩子さんの話聞いてたら、なんだか下町の匂いがする団地で、いいですよね」
料理を食べ終えて、話題はシンさんと瀬戸さんが暮らしていた大阪の団地の話になっていた。みんないつのまにか、「瀬戸さん」でなく「彩子さん」と呼んでいたことに気がついた。
「あの団地、大人は『縦長屋』ってよう言うててな。下町の長屋みたいに、隣近所の付き合いがめっちゃ濃かったんや」
シンさんがちょっと得意そうに話していた。
「長屋を縦にした感じか。長屋自体見たことはないけど、ちょっと面白そうですね」
「私は落語好きなんで、よくわかりますよ」
みんながテーブルを囲み、笑いながら話す様子が見えた。誰にも話しかけられない私は、無意識にスポンジを強く握っていた。
「亜由美ちゃん、ありがとう。交代するよ。あっちで座って、なんか飲んでおいでよ」
いつの間にか横に立っていたノブさんに促されて、私はスポンジを渡して手を洗った。
「僕も手伝いますよ。亜由美さん座っててください」
控えめそうな若手の男性スタッフが、いつのまにか洗った皿を拭いている。
「では、お言葉に甘えて、お願いします」
――そう言って私は缶ビールを1本取り、ラウンジの端の椅子に腰を下ろした。
「じゃ、シンさんのコミュニケーション力って、団地暮らしで鍛えられたんですね」
みんなの笑いが起きた。なんだ。そう思っていたの、私だけじゃなかったんだな。心の中でつぶやくと、自然に微笑んでいた。ふと、瀬戸さんと目が合った。
「でも、大人もいろいろおってな。煙たがられてる人もいてたで」
「石井さん、やね」
瀬戸さんがぽつりと言った。
「うん。おかんが『彼女は余計な一言多い』っておとんに愚痴ってるの時々聞いてたし。公園で野球やってたら『小さい子にボール当たったらあぶないやろ! 学校でやりなさい!』ってよう怒られた。あのおばちゃん苦手やったなあ」
とシンさんが続けた。
「そういえば私、あの団地に引っ越して初めて、しそジュースを飲んだのよ」
しそジュース。瀬戸さんの突然の言葉に、祖母が毎年6月になると作ってくれていたことを思い出した。大量の赤しそを、水を沸騰させた鍋に入れて、しばらく煮だす。祖母が白砂糖どさっと入れると、「身体に悪いのに」と母は渋い顔をしていた。最後にクエン酸を入れると、煮汁がぱっと薄い赤色に変わる。それを見るのが好きだった。
「シンちゃんの家でしそジュース飲んだって、息子が喜んで帰ってきてね。私にも作ってって言われたんだけど、当時仕事が忙しくてできなかったの。そうしたら、シンちゃんのお母さんがおすそ分けしてくれて。それがほんとに美味しかったの」
瀬戸さんは、そのときのやりとりを思い出すようにやさしく笑っていた。
「やっぱり私も作ろうと思って、スーパーで赤しそ買おうとしてたら、石井さんにばったり会ってね。シンちゃんのお母さんにもらったしそジュースがとっても美味しかったって話したら、『あの人のは、甘すぎる。ちょっと酸っぱめのほうが身体にいい』って言われたのよ」
シンさんは苦笑いをしていた。
「あの時期、どの家でもしそジュース作ってて、みんな『オレんちのがいちばん美味い』『私がつくった方が美味しい』って言うてたなあ」
そうだ。私もおばあちゃんのしそジュースがいちばん美味しいって思ってた。
「その夜ね、石井さんがうちに来たの。『これ、私がつくったやつやから。酸っぱいけど、身体がしゃきっとするで』って。
私がお礼言ったら、石井さん、急にまじめな顔して、私のほうじっと見てね。
『働いて、ひとりで子供育てるしんどさってね、他人には見えへんもんよ。でも、彩子さん、よう頑張ってるわ』って言ってくれたの」
瀬戸さんは静かな声で続けた。
「離婚してから、人前では泣かないって決めてたんだけどね。石井さんの言葉で、ぷつっと張りつめてたものが切れて、泣いてしまったの」
それを聞きながら、母のことを思った。泣く姿を見たことはなかったけれど、緊張の糸が切れる瞬間はあったのかもしれない。そんな姿も、本当はあったのかもしれない。
「そんで、石井さんのしそジュースはどうやったん?」シンさんが聞いた。
「息子には酸っぱすぎたみたい。でも、私は好きだったわ。夏の夕方、疲れた身体にしみたの」
彩子さんがシンさんを見ながら言った。
「石井さんもね、私と同じだったの。離婚した後、あの団地に来て、息子さん育てながら定年まで銀行で働いてはったんよ」
シンさんはうつむいてぽつりとつぶやいた。
「石井さんのこと、オレ、ほんまは知らんかったんやな」
瀬戸さんが立ち上がり、「なんだかしゃべりすぎたわね。そろそろ失礼しようかな」と小さな声で言った。その言葉をきっかけに、みんながグラスや皿を片付け始めた。
私も席を立とうとしたとき、シンさんが声を上げた。
「帰る前に、ちょっとみんな聞いてくれへんか」
にぎやかだったラウンジが、しんと静まった。
+++
「このたけのこな、オレの実家から送られてきたもんを、朝から彩子さんがひとりで下茹でして、そのあと料理してくれたんや。彩子さん、ありがとうございました。亜由美ちゃんも、料理を手伝ってくれてありがとう」
「彩子さん、ごちそうさまでした」
「とってもおいしかったです」
「亜由美さん、ありがとうございました」
あちこちから声が上がった。
「こちらこそ。みなさんに喜んでもらえたことが嬉しいわ。ありがとう」
私はうまく笑えず、黙って頭を下げた。
その後、シンさんが話し始めた。
「さっきもみんなに話してたけど、彩子さんは、もともとオレの地元の知り合いでな。オレら家族が住んでた団地に、彩子さんと息子さんが引っ越してきはったんや。
オレの弟と彩子さんの息子さんが同級生で、おかんと彩子さんも気が合うて、すぐに仲良くなったんや」
シンさんの言葉にうなずきながら、彩子さんが続けた。
「離婚して、引っ越した先の団地で息子と二人暮らしを始めたばかりでね。あの頃、シンちゃん家族にほんとうに助けられてたわ」
瀬戸さんの言葉は、過去に触れながらも明るかった。
「お互いの家で晩ごはん食べることもようあったなぁ。彩子さんのごはんは、めっちゃ美味しかった。『今夜は彩子さんとこでごはん食べさせてもろて』っておかんのメモがあると、オレも弟も喜んだんや」
笑い声がまたテーブルに広がった。家族のような付き合い。だから、シンさんは遠慮なく彩子さんに今夜の料理も頼めたのか。
「今年の正月に実家帰った時、『彩子さん、今も東京に住んではるよ』っておかんから聞いてな。住所聞いたらこの会社の近くってわかって、久しぶりに連絡とったんや。
で、話の流れから、『今度うちの会社来て、彩子さんのうまい飯、作ってくれません?』って口説いてたんや」
瀬戸さんは、「口説いてたなんてオーバーやねえ」と瀬戸さんは笑っている。
その空気が、まるで親戚の家の晩ごはんみたいだった。『会社』でなく、あたたかい食卓を囲んでいるようだった。
「彩子さんの料理でいちばん美味しかったのは何ですか?」
ノブさんがそう尋ねると、シンさんはしばらく「うーん」と唸りながら考え込んだ。
「やっぱり春巻きやな。あれはほんま絶品やった。豚ミンチたっぷり、味はシンプルなんやけど、5本は軽くいけたわ」
「え、5本も食べられる春巻き⁈ それは食べてみたいなあ」
「よっしゃ。そしたら、次回は春巻きやな」
また、来月も? 今日だけだと思っていたのに。
ぬるくなった缶ビールをひと口飲んで、そっと目を閉じた。
私はまだ、輪の中に入れておらず、誰とどう話せばいいのか、わからない。ふたりの思い出話はあたたかくて、心に残った。
でも、それはどこか遠くの話のようでもあった。
「また来月もひとりで食べようかな」
口には出さず、心の中でつぶやいた。
+++
「おつかれさん」
誰もいないオフィスでパソコンに向かっていた私は、突然の声に驚いて顔を上げた。シンさんだった。私のとなりに自分の椅子をごろごろ持ってきて、「よっこらせ」と言って座った。手には2本の缶コーヒー。1本を私のデスクに置いてくれた。
「戸締りして帰ろうと思って2階に来たら、誰か仕事してるん見えてな。やっぱ亜由美ちゃんやったか」
「はい。あの、今日、みんなとたけのこ料理食べられなくって……すいません」
「ええよええよ。それより、彩子さんの料理手伝ってくれてありがとう。買い出しは行けてんけど、急に恵比寿まで行かなあかんようになってな。亜由美ちゃん手伝ってくれて助かったわ」
オフィスの夜は、さっきまでのにぎやかさが嘘みたいに静かで、料理とビールの香りだけが、ひっそりと残っていた。
「彩子さんのたけのこ料理、どうやった?」
「はい。とっても美味しかったです。たけのこがラー油やグラタンになるって新鮮でおいしかったです。
でも、いちばん美味しかったのはたけのこごはんでした。丁寧に細く切ってあるたけのこがとてもきれいで。たけのこの食感と、ほのかな甘みと苦みがとっても美味しかったです」
「めっちゃ、ちゃんと味わって食べてくれてるやん。うれしいわ。それ、次彩子さん来た時、絶対伝えるんやで」
シンさんは、自分が褒められたみたいに喜んでいた。
「はい。それと。シンさんのお父さんが送ってくださったたけのこも、とってもいいものだったんだと思います。どのお料理も、たけのこの香りが口のなかに広がって、ほんとにおいしかったです」
「そうか。ありがとうな。おとんに言うたら調子乗って、来年はこの倍送ってくるかもしれんで」
恥ずかしそうにそう言うと、シンさんは缶コーヒーをひとくちすすった。
そして、少しだけ真面目な表情になった。
「実はさ。オレ、今日みんなでたけのこ料理食べる会、半分は思いつき、でも半分は前から気になってたことでな」
「気になってたこと、ですか?」
「最近みんな忙しいやろ。オレもオフィスにおらん日が増えててな。
『誰がいま元気ないか』って、ちゃんと見れてないかもしれんなって、思ったんや」
意外だった。おおざっぱだと思っていたシンさんが、そんなふうに私たちを見ていてくれたなんて。
「オレ、みんなの顔見ててな、『この人、最近ちゃんと飯食ってるかな』って思うことあるねん。ただ腹を満たすだけやなくて、ちゃんと誰かが手をかけた飯を食べてるかどうか。それって、案外、心の元気に関わる気がするんや」
私は黙って、手に持っていた缶コーヒーのふたを見つめた。自分のことを言われているような気がした。
「オレな、団地育ちって言うたやろ? 夕方になると、階段の踊り場にいろんな家の晩飯の匂いが流れてきてな。『あ、カレーや』『今日は焼き魚や』って分かったりするんや」
「今日の、うちの会社みたいですね。キッチンの匂いが廊下に流れて、デスクで仕事していたら、煮物の匂いがちょっとしました」
「そうやろ。でも、そういうのが高校生の頃ちょっと息苦しくなって。東京の大学に進学して一人暮らし始めたんやけどな……」
シンさん少し遠いところを見るように、言葉を続けた。
「最初の頃は、初めてのひとり暮らしが自由で快適で楽しかった。
でも数か月経って気づいたんや。廊下にはなんの匂いもない。隣の部屋の人ともほとんど顔合わさない。大学の授業やバイトが忙しくなったら、コンビニで買うてきた弁当やインスタントのもん食べる日が続いてな。電子レンジの音だけが聞こえる部屋で、ふっと思ってん。めっちゃ寂しいなって」
当時のことを思い出しているのか、シンさんが少し目を伏せた。いつもの明るさが消えた、寂しそうな顔だ。
「今思えばな、あの団地の『飯の匂い』って、おかんたちが家族のこと思いながらごはん作ってくれてた証やったんや。今日も頑張ったね、っていう、そんな空気が家のなかにも外にもあふれててな。せやから、この会社にも、あんな風に『飯の匂い』を流したかったんや」
そう言って、シンさんは照れくさそうに笑った。
「ラウンジで、みんなが美味しそうに楽しそうに食べてる姿、亜由美ちゃんがきれいに食べてくれたその皿見てな。ああ、今日はほんまに、やってよかったなって思ったんよ」
胸の奥が、じんわり温かくなるのを感じた。
「今朝コンビニで、以前働いてた会社で作ったスープを見かけたんです」
シンさんが黙って耳を傾けてくれているのを感じて、私は自然と話し始めていた。
「自分が作ったのに言うのもなんですけど。あの頃私は、誰の顔も思い浮かべずに作ってたなって。
最近もほとんど料理してなくて、インスタント食品やコンビニでお弁当買って済ますことばっかり。それって、仕事が忙しいからという理由もあるんですけど、もうひとつ別の理由があって」
シンさんがうなずいてくれるのを見て、思い切って言葉にしてみた。
「誰かの思いや感情が入ってないインスタントやコンビニのごはんを選んで食べることで、疲れ切った自分の心を守るっていうか。自分以外の人の感情や思いを、自分の身体に入れないようにしてたんだなって」
シンさんはうなずいていた。
「でも、今日食べたたけのこ料理は、違いました。瀬戸さんが私たちのことを思って料理している、その気持ちが伝わってきて。でも、不思議だったのは、それが重たくなかったことです。普通、気持ちがたくさん込められていると、私はなんだか息苦しくなることもあるのに……」
私は少し言葉を探してから続けた。
「木の芽焼きや煮物を食べたとき、口に入れた瞬間、ふっと身体がゆるんだんです。グラタンやラー油は、ちょっと意外な組み合わせで、楽しくて。
瀬戸さんの料理には、たけのこを送ってくれたお父さんのことも、ちゃんと含まれていて……でも、どれも軽やかで、あたたかかった。美味しいだけでなく、しあわせな気持ちになれました」
「それ、めっちゃわかるわ」
シンさんがぽつりとつぶやいた。
「彩子さんの料理って、気持ちがちゃんと入ってる。でも、押しつけがましくないんや。誰かのことを思って作られたごはんやのに、食べた側がふっと軽くなれる。それって、すごいことやと思う」
少し間を置いて、また、シンさんは静かに話始めた。
「……ごはんを食べるって、生きるってことやろ。誰かが自分のこと思いながら作ってくれたごはん。そういうもん食べたら、また明日もがんばろうって思えるし、なにより、しあわせに生きていける。そんな気がするねん」
食べたら、しあわせに生きていける。そう思えるごはん。
シンさんの言葉を、私はなんども心のなかで繰り返していた。
<第二話に続く>
第二話 春巻きときくらげの過去
https://note.com/masumi_watanabe/n/n9fbccc22939e
第三話 インスタントラーメンとあの日の弁当
https://note.com/masumi_watanabe/n/n157b5bbb18d4
第四話 おむすびと再会の夜
https://note.com/masumi_watanabe/n/n4f725bf60ebf
いいなと思ったら応援しよう!
美味しいはしあわせ「うまうまごはん研究家」わたなべますみです。毎日食べても食べ飽きないおばんざい、おかんのごはん、季節の野菜をつかったごはん、そしてスパイスを使ったカレーやインド料理を日々作りつつ、さらなるうまうまを目指しております。