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【美術展2025#24】マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート@森美術館

会期:2025年2月13日(木)〜6月8日(日)

仮想空間と現実世界が接続し、人工知能(AI)が飛躍的に発展するなか、新しいテクノロジーは私たちの日常生活に急速に浸透し、とりわけコロナ禍は仮想空間における活動を加速させました。また、顧みればテクノロジーとアートは、コンピューター・アート、ビデオ・アートなどの歴史のなかで常に併走してきました。近年のビデオゲームやAIの発展がアーティストの創造活動に全く新しい可能性をもたらす一方で、生成AIの登場は、人類の創造力にとっての脅威ともなっています。こうした動向は、現代アートの文脈においても大きく注目されています。

本展では、ゲームエンジン(※1)、AI、仮想現実(VR)、さらには人間の創造性を超え得る生成AIなどのテクノロジーを採用した現代アート約50点を紹介します。そこではデジタル空間上のさまざまなデータが素材となった全く新しい美学やイメージメイキング(図像や画像を作ること)の手法、アバターやキャラクターなどジェンダーや人種という現実社会のアイデンティティからの解放、超現実的な風景の可視化、といった特性が見られます。ただ、これら新しい方法を採用しながら、アーティストの表現の根幹では普遍的な死生観や生命、倫理の問題、現代世界が抱える環境問題、歴史解釈、多様性といった課題が掘り下げられています。

「マシン」とアーティストが協働する作品や没入型の空間体験は、「ラブ(愛情)」、共感、高揚感、恐れ、不安など私たちの感情をおおいに揺さぶるでしょう。現実と仮想空間が入り混じる本展は、人類とテクノロジーの関係を考えるプラットフォームとして、不確実な未来をより良く生きる方法をともに想像する機会となるでしょう。

森美術館


六本木ヒルズにて展覧会をハシゴ中。

現在、六本木ヒルズ森タワーでは「火の鳥展」と時を同じくして「古代エジプト展」と「マシン・ラブ展」が行われている。

「過去」と「未来」

まさに「火の鳥」的世界観。

しかも「火の鳥」を軸にして「過去」から「未来」へ繋いでいくという会期設定にシビれる。

森タワーそのものを「火の鳥」に見立てた壮大なメッセージとしてしかと受け取った。

3展の会期がちょうど重なるのは1ヶ月間ほどだが、この期間を作り出すための調整はさぞ大変だったことだろう。
一鑑賞者として心を込めて堪能させていただく。
3展全て見ることで新たに見えてくる世界もあるはず。


と言うことで「火の鳥展」「古代エジプト展」に続いて「未来編」。
(「火の鳥」には「エジプト編」があるが、プロトタイプ的な扱いで通常本編にはカウントしない。「未来編」はある)

頭の中ではまだまだ「火の鳥」が羽ばたいているため、こうなったらこちらも引き続き「火の鳥」的視点で見ていくことにする


完全に「火の鳥」モードなので、見慣れた森美術館の門構えもなんだか「火の鳥」が羽ばたいているように見えてくる。


マシン・ラブ展をもっと楽しむための用語集。

ちょっと待ってくれ。
いきなり何を見せられているのだ。
私は数分前まで古代エジプトにいたんだ。
時空が違うのだよ、時空が。

1巻の「黎明編」でヒミコがヤマタイ国でどうのこうのしてたと思っていたら、2巻の「未来編」は一気に35世紀から始まる、みたいな「火の鳥」展開をまさに追体験させられている。

これと変わらんく見える


そもそも今回知っている作家がいないぞ。
かろうじてBeepleの名前を聞いたことがあるくらいか。

《ヒューマン・ワン》 2021〜

回転するボックス内の仮想空間を歩み続ける《ヒューマン・ワン》。

「火の鳥・未来編」に登場する人造子宮筒に入った人造生物そのまんま。
その作中では人造細胞から進化した人造生物ブラドベリィが自我を持ち、筒から出て人間として生きることを所望する。
根負けした猿田博士が人工羊水を抜くが、ブラドベリィは筒から出て数歩進んだだけで溶けてしまう。
猿田博士はブラドベリィが筒から出る直前まで読んでいた本、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を溶けた泡の上にそっと置く(名シーン)。

《ヒューマン・ワン》もいつか自我が芽生え、ボックスから出ることを望む日が来るのだろうか。



壮大なモブ。
目まぐるしく訪れる不条理。
そして唐突な「メガデス」。
まさに「火の鳥・未来編」のエピローグばりに凝縮された展開。

《ダミー・ライフ》 2025

「火の鳥・未来編」作中の言葉が浮かぶ。

「でも 今度こそ」
と火の鳥は思う
「今度こそ信じたい」
「今度の人類こそきっとどこかで間違いに気がついて……」
「生命を正しく使ってくれるようになるだろう」と……

「火の鳥・未来編」
《アウトレット》 2025



しかしちらほら小学生がいるのだが、展覧会タイトルの「ビデオゲーム」に釣られて間違えて来てしまったうっかりさんなのだろうか。
小学生は訳わからなくて泣きそうになってるし、引率の親御さんも借りてきた猫のようにポカーンとしてしまっている。
一緒にいたおばあちゃんに至っては半分魂抜けかけの放心状態。オツカレサマッス

そんなうっかりさんでもかろうじて楽しめる(?)ゲームコーナー。

HIHAHEHO Studio
《ハグゲーム》

指2本で操作してうまいことハグすることを目指す。
なかなかムズい。つい熱くなる。
件の小学生もこんな単純なゲームだけど楽しそうに遊んでいた。
そうそう、世界はこんな感じでいいんだよ

作者は若き多摩美の院生(情報デザ科・メ芸)だそうだ(今春修了)。

作者のnote↓


こんなのもあった。

指ゲーム



AI同士がなんだかかんだかと熱い議論を交わしている。
これは完全にあれですわ。
「火の鳥・未来編」の「電子頭脳ハレルヤ」VS.「聖母機械ダニューバー」

ディムート
《総合的実体への3つのアプローチ》 2025

「火の鳥」の作中だと議論がこじれてそれが世界滅亡の引き金になるんだけどね。



ミース・ファン・デル・ローエの名作椅子バルセロナチェアに座して見る。贅沢。

ジャコルビー・サッターホワイト
《メッター・プレイヤー(慈悲の瞑想)》 2023

内容は…、

新しいテクノロジーを「クィア化」する(既成概念を問い直す)手段として、アナログで工業的なテクノロジーの理解にアフロ・フューチャリズムの思想、アフリカ系アメリカ人が抱く「解放された未来」というビジョン、そして大衆文化のイメージを融合させている。そうして、アイデンティティを演じ表現するための新たな規範を作ると同時に、政治的な力を伴う、これまでとは別の選択肢を提示する。

森美術館

あ〜そういうことね、…なるほど、わからん



映像作品が多くて疲れてきた中で、なんかちょっと落ち着くブース。
展示されている作品群はよく見ると実は色々ヤバいけど。

アニカ・イ

生物学とテクノロジーの流動的な関係を探索することで、独自のアートを実践してきた。近年のアルゴリズムを用いたきらめく「絵画」シリーズは、彼女が長年の研究を通じて蓄積してきたイメージと、自身の初期作品のデータを融合させたものだ。これらのデータは、機械学習の生成ネットワークによって処理され、絵画の構図や物質感を形作っている。完成した絵画は反射したり透過したりする複数のレイヤーによって作られ、まるで動くレリーフのような感覚を生み出す。このシリーズは、作品がひとりの制作者によって作られる、あるいは制作した人間に帰属する創造物である、という絵画の伝統的な概念や人間の知性が及ぶ範囲にも問いを投げかけている。

森美術館

これはあれだ。
「火の鳥・宇宙編」でナナがメタモルフォーゼしちゃったやつ

色々ヤバい


こちらはあれですわ。
「火の鳥・復活編」でレオナが見た世界。

アドリアン・ビシャル・ロハス
《想像力の終焉》 2023
こちらも色々ヤバい



大団円。

ケイト・クロフォード、ヴラダン・ヨレル
《帝国の計算:テクノロジーと権力の系譜 1500年以降》 2023
そして「未来」は続く



芸術新潮2025年1月増刊号にて美術史家の山下裕二氏と東京国立近代美術館主任研究員の成相肇氏の対談にて、

成相:マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アートは、みんなが待ち望んでいた展覧会なんじゃないかな。話題のAIが実際にこうした規模で展覧会になるのは初めてでは。
山下:僕は興味ないな。最新のものはすぐ滅びるよ。
成相:(笑)

芸術新潮2025年1月増刊号

なんてやり取りがなされていた。
ウケる。


「MAM RESEARCH」では「東京アンダーグラウンド 1960-1970年代」と題してアーカイブ展示が行われていた。

展示は残念ながら写真撮影禁止だったが、当時の前衛アーティストたちがその時代ごとの最先端のアートやパフォーマンスを行ってきた軌跡が年を追って展示されていた。
中には今見ると滑稽だったり、稚拙だったりするものも多々あったが、だが、そうやって美術史は更新されてきた。

果たして今回の「マシン・ラブ展」は後年振り返った時に美術史上にどのように位置付けられるのだろうか。



太古の昔から脈々と続いてきた人間の「生」と「死」。
そしてアーティストたちの「挑戦」と「挫折」。

その中から「火の鳥・黎明編」のタケルのように「壁」を登り切った者が未来を更新してきた。

「火の鳥・黎明編」より

だがその影には無数の人々のそれぞれの「生」と、数多の名もなきアーティストたちの「挑戦」があることを忘れずにいたい。



今回の森タワーでの3つの展覧会(「火の鳥展」「古代エジプト展」「マシン・ラブ展」)は、表面上は全く違うアプローチだったが、根源的にはどれも「人は今をどう生きるべきか」ということが強く問われていたように思う。


私は大学生の頃に20世紀から21世紀を迎えた。
私個人の中では新しい未来の到来だったし、いろいろなことが大きく変わっていった区切りでもあった。
だが、人間が決めたそのタイミングで地球そのものが急変するわけもなく、地球は過去と変わらず現在も回り続けている。

そんな21世紀もあっという間に四半世紀が過ぎてしまった。
私は22世紀の世界を見ることはないだろうが、私の子どもたちは22世紀まで生きるかもしれないし、その子どもたちは確実に22世紀を生きるだろう。

生きて、死ぬ。
私一人の存在なんて地球の営みには何の影響もない。
もっと言えば地球そのものも宇宙の中ではちっぽけな存在なのかもしれない。

「火の鳥・鳳凰編」より

「火の鳥・鳳凰編」で我王は「宇宙のなかに人生などいっさい無だ!ちっぽけなごみなのだ!」と叫んだ。
だがたとえ「ちっぽけなごみ」だとしても、我々が今を生きることそのものが無意味で無価値なわけではないはずだ。

「生」の中に意味を見出し、「死」をどう迎えるかを想像する。
それは人間にしかできない。

生きて、死んで。
生まれて、
生きて、死んで。
また生まれて、

「火の鳥・鳳凰編」より

そのように人間は過去から脈々と続いてきた。
その中で、未来を描き、作ってきた。


ピラミッドはきっと未来でも人々の心を熱く揺さぶるだろう。


Ars longa, vita brevis.
芸術は長く、人生は短し。


そして、「私」も未来に続くひとつの命。
今を大切にしっかりと生きなければと、改めて思った。


だけどなんか、やっぱり「火の鳥」に全て描いてあったな



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