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AIで遊ぼう。 40歳で会社を早期退職した私が「遊びとは何か」を真剣に考えてみた話

こんにちは、芽芽斗 守(めめと・まもる)です。

6月15日から、AIフェスティバル×noteの投稿コンテスト「#AIで遊ぼう」が始まりましたね。

先日このコンテストに過去の記事で応募したところ、人気ランキングに載せていただきました。

たくさんの方に読んでもらえて、ありがたかったです。

せっかくなので今回は過去記事の使い回しではなく、この企画のために一本書いてみようと思います。

いつもと違ってふざけ倒した内容かもしれませんが、たまにはこういうのも良いですよね(笑)。

この記事を読んでくすっと笑っていただけたら嬉しいです。

AIで遊ぶ日々を考えてみた

私はいまAIを欠かせない相棒のように使っています。

AIでWebサービスを作って公開し、その記録をポートフォリオサイトにもまとめています。

これから立ち上げる事業の壁打ちや日々の悩み相談にも、AIを使っています。

まあ、ときどき平気な顔で嘘をつかれますが(笑)。

会社を早期退職して、いまはキャリアブレイクの時間を過ごしています。

作ったものをnoteに書きながら、自分の次の仕事の形を探しているところです。

これを「遊んでるだけだよね」と思う人は、たぶん少なくありません。

不思議なもので、その枠に入れられるとなんだかしっくりこない。

かといって本当に遊んでいないのかと問われると、それもうまく答えられない。

そこで一度立ち止まって「遊びとは何か」を真面目に考えてみることにしました。

遊びには「損得がない」

調べているうちに、ある古典的な本にたどり着きました。

オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』です。

ラテン語で「遊ぶ人」という意味です。

人間の文化には遊びが深く関わっているというなかなか大胆な考え方です。

ホイジンガは遊びを、ざっくり言えばこう捉えています。

自由で自発的な行為であること。
目的や利益から離れていること。

面白いのはこの先です。

遊びが義務になった瞬間、それはもう遊びでなくなると書いているのです。

始めたころは楽しかったスポーツも監督に管理されて勝つことが目的になった途端、楽しいだけでは済まなくなります。

これはいろいろなことに置き換えられそうです。

「好きなことを仕事にするな」とよく言われますよね。

好きで始めたはずなのに、締め切りや評価やお金がからんだ瞬間にあんなに好きだったものが急に重たくなる。

熱中していた趣味が、気づけば義務に変わっている。

あれもきっと、好きでやっていたことがいつのまにか損得に変わっていたのだと思います。

この考え方に触れて、自分の中でもうひとつ線が引けました。

作ったものを誰かに「評価してもらおう」とした時点で、それはもう純粋な遊びではなくなる。

そこには相手への気づかいがあって、認められるか使ってもらえるかという損得が生まれるからです。

逆に、子どもが描いた絵を「ねえ見て」と差し出すあの感じ。

あれは損得がない。
ただ自分が楽しいから見せている。

見せること自体は遊びのまま。遊びでなくなるのは、評価を求めはじめた瞬間です。

その物差しで測ると、私のサービス作りは楽しいけれど純粋な遊びではありませんでした。

じゃあ、私の本当の遊びはどこにあるのか。

それは、前回の記事の中にありました。

前回の記事の一コマ

少しだけ前回の記事から抜粋します。


この夏、愛犬のチワワを連れて家族旅行を計画しています。

「夕食はバイキングのあるところにする?」
「でも犬は中に入れないし、お留守番かな」

そんな話の途中で、私はそっとスマホを差し出しました。

真剣に料理を選ぶチワワ(AIで生成)

「どうやら彼女は行く気みたいだよ」

そう言って、ひと笑い誘います。

「部屋はオーシャンビューとマウンテンビュー、どっちがいい?」

そうなれば、すかさずもう一枚。

オーシャンビューと聞いて満面の笑み(AIで生成)

「どうやら彼女はオーシャンビューがいいみたい」

場の空気がふわっと明るくなって、とくに息子が大喜びでした。


抜粋はここまでです。

確かにこれは、ただ面白いから「見て見て」と笑いながら差し出したものでした。

損得もないし、誰かに評価してほしいわけでもない。

この一枚こそ、私にとってAIを使った本当の「遊び」だったのです。

そう気づいてしまえば、私は日常のあちこちで同じことをしていました。

運転しない私の車窓遊び

たとえば、車の中です。

以前の記事でも書きましたが、私は運転をしません。

なので家族で出かけるとき、私の役目はもっぱら息子の話し相手です。

ただ息子はすぐに「あきたよー」とぐずる。

そこで私はスマホを取り出し、車窓の景色をAIで加工して一発ネタを仕込みます。

走っている景色に、こっそり馬車を一台描き足してみる。

そして真顔でこう言うわけです。

やばい、タイムスリップしたかも

車窓の風景に馬車を加工(AIで生成)

これも、誰かに評価してもらうためにやっているわけではありません。

息子が笑うかどうかも、正直やってみるまでわからない賭けです。

うまくいけば車内がわっと沸くし、滑れば「またそれかい!」と流される。

そこに損得はない。
ただ自分がやりたいからやっています(笑)。

ホイジンガの物差しで言えば、これこそが私のまぎれもない「遊び」でした。

「遊び」は、ハンドルにもある

ここで、もうひとつの「遊び」の話をさせてください。

車のハンドルには「遊び」と呼ばれる部分があります。

少し切ってもすぐにはタイヤが動かない、あのわずかなゆとりのことです。

もしこの遊びがなかったら、手元のわずかな震えにもタイヤが反応してしまう。

まっすぐ走ることすら危ないのだそうです。

調べていて、思わず「そういうことか」と声が出そうになりました。

このゆとりを、英語では遊びと同じ「play」と呼ぶそうです。

休日に楽しむ遊びも、機械のゆとりも、同じ言葉。

ハンドルに遊びが必要なように、人にもまっすぐ進むためのゆとりが必要なのかもしれません。

運転をしない私が車の窓ごしに息子と馬鹿なことをして笑っている。

あれは、家族の時間に少しだけハンドルの遊びを足していたのかもしれません。

旅先で、損得のない遊びを仕込み続けた

このゴールデンウィーク、妻の家族と島根を旅しました。

ここからは、私が現地で仕込み続けた「みせる遊び」を少しだけお裾分けします(笑)。

向かったのは足立美術館

アメリカの専門誌のランキングで、22年連続で日本一に選ばれている庭園があります。

その見事な庭を眺めながら、息子が無邪気に言いました。

チワワちゃん、こんなに広かったら走り回れて楽しそうだね

こいつ、日本一の庭園をドッグランにしようとしてないか。

おかしくなった私は、すかさず愛犬を一匹そこに連れてきました。

もちろん画像の中の話ですが。

「ほら、待ちきれずにこっそり庭にいるみたいだよ」

日本一の庭園にいるチワワ(AIで生成)

日本一の庭園に向かって何をしているんだと自分でも思いましたが、息子は見事に笑ってくれました。


足立美術館に行く前には、境港まで海鮮を食べに寄りました。

まだ生きたまま売られている蟹を見て、息子は大興奮です。

そこで義母さんに、こう報告しておきました。

「息子と蟹、どうやら大親友らしいですよ」

蟹と肩を組む息子(AIで生成)

義母さんは「そう、大親友なのね」と言いながら小刻みに震えていました。

どうやら今回のいたずらは成功だったようです。

白状すると、私は義母さんにこういういたずらを仕掛けるのが好きでして。

一番の被害者かもしれません(笑)。


観光の途中、お土産を買いに行ってなかなか戻ってこない妻と義母さんを息子が気にしていたときにも一枚。

「前見て。さっきセグウェイで追い抜いていったよ」

セグウェイに乗る二人(AIで生成)

「なんでやねん」と息子は大爆笑でした(笑)。


愛犬にもお土産を買ってあげようかと義母さんが話してくれたときには、こう差し出しました。

「ありがとうございます。実はソーセージが好きすぎて近所のハム屋の広告に出てたんですよ」

広告の主役になったチワワ(AIで生成)

義母さんは「ちょっとー」と言いながら笑ってくれました。

どれも、誰かにうまいねと褒められるためのものではありません。

ただ、その場で家族が一瞬笑えばそれでいい。

見返りを求めない「ねえ見て」の連続でした。

プラトンも「遊びながら生きろ」と言った

遊びについて考えていたら、もうひとり意外な人物に行き当たりました。

哲学者のプラトンです。

最晩年に書いた『法律』という対話篇の中で、彼はこんな趣旨のことを語らせています。

人間は神の玩具としてつくられた。
だから正しい生き方とは、遊びを楽しみながら生きることなのだ。

プラトン『法律』より要約

戦いに明け暮れるのではなく、歌い、踊り、遊びながら穏やかに暮らす。

それが人にとって最善なのだ、という話です。

死を間近にした老哲学者が、人生をさんざん考え抜いた末にたどり着いた答えが「遊べ」だった。

そう思うと、なんだか勇気が出ます。

遊びは人生のおまけなんかじゃなくて、人がちゃんと生きるために必要なものなのかもしれません。

歌い、踊り、遊ぼう

「遊んでるだけ」に見えても

会社を辞めて、AIでものを作って、noteを書いて。

傍から見れば「遊んでるだけ」かもしれません。

でも遊びについて調べてみて、その見え方が前ほど気にならなくなりました。

昔の哲学者の言葉にも車のハンドルの仕組みにも、遊びを無駄なものとしない考え方がありました。

ここまで考えてみて、思うことがあります。

AIが私にくれた一番のものは便利さではなかったのかもしれません。

誰かに認めてもらうための成果でもない。

AIを通して私が取り戻したのは、車の窓ごしに息子を笑わせるあの見返りのない「みせる遊び」でした。

運転しない私の、人生のハンドルの遊び。

いまそれを足してくれているのが、私にとってのAIなのだと思います。

仕込んだネタはまだまだありますが、それはまた家族を笑わせるために使おうと思います(笑)。

くすっとした方は、スキで教えてもらえると嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

#AIで遊ぼう