飲めます 〈雨女⑥〉
光の塊にそっと近づく。
細かな雨と、コンビニの光の作った、光の繭。
その中に、しとしとの体。
冷たかったり、するのだろうか。
当たり前のことに今更思い当たり、当たり前にこの雨を受け止めて、冷えた体を温めることも、乾いた風に吹かれる心地よさとも縁のない、ただTシャツの向こうで大人しく光を跳ね返す、彼女の濡れた細い背中に、おぼろげな視線を投げている。
「見ないで」
投げた視線は、受け止められなかった。
「見なくていいでしょう?」
いいわけがない。けれど、彼女がそう言うのなら、このまま彼女は見えなくなってしまうのだろうか。
その言葉は、消えてしまうときの呪文なのか。
そう思い当たると、背中の方から胸が詰まった。そうか、拒絶の呪いを受けたのは、私なのか。
私のほうが、ここで消えてしまうのか。
「見ればいいじゃん」
揺り戻される、猫が無邪気に獲物を弄ぶように、私の存在を弄ぼうとしているのだろうか。
猫ならまだいい。
この世の理から外れている彼女は、気まぐれに蜘蛛の糸を揺らし、ぶどうに毒を盛らないとも限らない。
仏や神でさえ、そういうものなのに。
そのうえ、微かではあるが、この世のものでないものの口から、敵意が、怒りが発せられているのだ。なにがあっても、おかしくはない。覚悟はできていたはずなのに——
死んでしまうこと、それよりも、見えなくなること、見ることもできなくなること、消えてしまうことが…
「えっちな本みればいいじゃん、私なんか見なくていいじゃん」
…えっちな本とは、えっちな本のことだろうか。
確かにそうだ、えっちな本は、感度を下げて、心が曇る。
そうすると、彼女は見えない。
ええと、彼女が見えないと、
はっ、
彼女を見るなと言う意味は変わらず、拒絶の呪いであることも変わらないということか。
そういうことか。
あ、嫌われたのか。
あああ、それはいやだ。
「ごめん」
胸の音が、私の喉を震わせて、唇を塞ぎ、また胸に落ちた。
勝手に出た言葉だ。
でもこれは、自分から出た言葉だ。
きっと、呪いでも、魅了による支配でもない。
そして、今度は、私がまっすぐ見据えられた。
顔を、見てしまった。
魅了による支配は、ここから始まってしまうのか。
自分の意思などうかは、もう私にはわからなくなるのか。
つまり、滅茶苦茶にタイプです…。
固まってしまう、ああ、雨女なのか蛇女なのかゴルゴンなのか、なんだかしらないが、固まってしまった。
そして、固まったまま私の耳は、
「からあげクン」
の言葉を聞いた。
体が動く。
私は、私の意思でレジに向かい、
私は、私の意思で、彼女に差し出し、
私は、私の意思で、彼女の顔をもう一度見る。
見ても、いいのか、わからない。
わからない、けど、私は見る。
雨女は、何も言わずに、目を伏せて、もくもくもぐもぐ食べている。
いいのかな、いいの?
「いいの?」
つい、声になった。
雨女は何も言わず、こちらを睨む。
「…からい」
今日は、レッドしか残っていなかったのだ。
雨女は、少しだけ上を向いて、そぼ降る雨をその口で受け止めた。
目を離せなかった。
雨女も、私から目を離さなかった。
きっと、彼女の意思で。
すべてのピースを食べ終わるまで、私たちはお互いに目を離さなかった。
目を合わせると、路ができる。
道ができると、通ってしまう。
そして、通じてしまう。
晴れの日の夜に意識されたコンビニへの通い路。
あちらへ通じるための路。
きっともう、後戻りはできない。
「見過ぎ!」
雨女は、下を向いた。
耳が赤い。
「そっちも赤いし」
声に出てたのか。
彼女も、私も赤い。
あと、唐揚げクンも。
あと、信号も赤い、ポストも赤い、赤ちゃんは赤くないのに赤ちゃん。ええと、あとは、
「何言ってんの」
また声に出てたらしい。
雨女も、笑うのか。
そうか、聞こえるくらい近いんだ。
いつのまにか、私の手も濡れていた。
少し舐めてみる。
雨女が、目を丸くしている。
ひょっとして、デリカシーのない行為だったろうか。
女の子のことは、本当にわからない。
と思いながら、もう一度、舐めてみる。
少し、甘い。
***
次の話
これまでの話
