母ハルヱの人生
私にマザーコンプレックスは無い。障害を背負って生きる兄がおり、母の手間暇の多くは兄に傾注し、私に対する母からの愛情は時々希薄だったようにさえ思う。
でもそれは仕方のないことと、ずいぶん小さい頃から慣れてしまっていたように思う。
私はこの9月で65歳となる。世の認める高齢者になる。自分がこんな年齢になるのが信じれず、だが体力は目に見えて落ち、体調の変調も認めざるを得なくなり、やっと誰でも歳を取ると悟っている。
歳を重ねるごとに、自身の変化である進学、就職、結婚などとともに母の視点を考えるようになってきた。母は何を考え自分の人生を切り抜けて生きてきたのであろうか。
きっと母が走馬灯で目にしたであろう人生を私の想像と記憶で追ってみたい。
・母の幼少時
母は山形県南陽市赤湯の大きな百姓家の末娘として生まれた。
母の出生後、ほどなくハルヱの母は他界している。
それでも優しい父と、二人の兄と二人の姉に大切にされて幸せに育っている。赤湯は湯も水も湧き出る温泉地であり、サクランボ、ブドウの果樹や美味しい米の取れる豊かな農業地帯でもある。
ちょうどこの時期の赤湯を国道4号線を北に向かって走ると、真っ青な空の下、国道の両サイドの水田の稲は緑濃く風になびく。その背後の背の低い山々は色の違う緑のパッチワークのような葉の下に、みずみずしく弾けんほどのブドウを大切に包み込んでいる。私たちの目を楽しませるためにそこにあるように思える。
姉二人は読書好きで母はずいぶん影響されたようである。
そして、通りを挟んで向かいに住むヨッチャとは死ぬまで心が通じていたようである。ネグレクトなんて言葉の無いころからヨッチャの親は全てを放棄していた。そして母はヨッチャに自分の着るものを分け、おやつを分けてともに読書に時間を過ごした。
ヨッチャはその後、母の誘いを受けて御母衣ダム建設現場の寮母として働き、そこで知り合った建設会社職員と所帯を持ってその後幸せに暮らした。
母が他界したことを伝えると、「ハルヱちゃともう一度会いたかった。どんなに礼を言っても尽きることはなかった」と、ヨッチャは高齢でたどたどしい字で手紙を添えて香典を送ってくれた。
・母の青春時代
昭和5年生まれの母たちの同世代は第二次世界大戦によって暗黒の青春時代を送ったのであろう。でも、どんな時代であっても若者たちには若者たちの時間がある。きっと母にだって思いを寄せる相手がいて、胸が熱くなるような時間を過ごしたに違いない。
母の青春、まだ戦争の始まる前くらいの平和の日々くらいしか私には想像できなかった。
母は従軍したかったと私に言った。南方に従軍させられた長兄に会うために看護師になったと言った。しかし、遠い海の向こうへ連れて行かれた長兄は母の夢が叶わないまま若き命の花を散らしてしまっている。
最後まで夢をあきらめなかった母は、上諏訪にある日本赤十字病院に年齢をごまかし奉職し、戦地から傷病で帰還した軍人さん達の世話をしたのである。初年看護師は結核病棟の担当をさせられ、毎晩、血痰を吐く軍人さん達の表面張力で血痰が膨れる痰壺をいくつもいくつも片付けたと言った。
空襲時には手足を無くし大きな甕に入った軍人さんを抱えて防空壕まで走ったと言った。
母は従軍することなく、第二次世界大戦は終わった。
そして、母は山形に帰って男達に混ざって農作業をしたそうである。
そこでの数年は母にとってとても幸せな時間だったに違いない。
毎日を田や畑で汗を流し、男達とバカ話をし、仕事が終われば24時間湧き出る共同浴場で泥と汗を流して、家族皆で飯を食い、それからヨッチャとの楽しい時間が待っていたのであろう。男の私じゃ想像もできない女同士の時間が流れたのであろう。
こんな時間を母の父は長く許さなかった。看護婦として生きていけと母の背中を押して上京させたのである。
・ハルヱの少しの東京時代と山の診療所
上諏訪日赤時代の伝手を頼って日本医大で看護師を再び始めた。
そしてしばらくの間、東京で一人暮らしを楽しんだようである。
「東京は誰にも干渉されなくて生活しやすい場所よ」と、高校時代によく聞かされた。
「一人で銀ブラもしたのよ」と、笑顔で高校生の私に語ってくれたことがある。
時には東京で所帯を持っていた次姉のアパートに遊びに行き、二人で故郷の話をして夜を明かすこともあったのだろう。次姉のアパートは戸越銀座にあり、私も何度か厄介になったことがある懐かしの地である。
初年看護師は山奥の建設現場の診療所に派遣された。そこが岐阜県の御母衣ダムだった。ここでハルヱの人生を支えてくれる多くの人と出会い、さまざまな事件もあった。
診療所で火事を出し、死傷者、負傷者を出せば、その後の自分の医者としての人生は無かったと言った診療所の所長は、その火事の中からお年寄りを助け出してくれた母を命の恩人だと言った。母がグループホームに入った最晩年に杖をついて奥様と二人で母に会いに来てくれた。家族揃って慣れぬ山奥の診療所に住み込み、母に公私共に世話になったとも先生は言ってくれた。
それまで私は知らなかったのである。母が兄の手を引いて日本中の病院を歩き回り、東京に行くと必ず六本木の病院に行き、そこで母は「おハルさん」と呼ばれ、母は崩れるような笑顔で先生と奥様に会い、そしてすぐに泣いていた。子どもが親の前で泣くように泣いていた。私の見たことのない母がそこにいたのである。
母がアルツハイマーに冒され、訪ねて来てくれた先生と奥様から過去の話を聞かされてすべては氷解したのである。
半世紀以上も私に疑問を残したのはそればかりじゃない。いくつもの時限爆弾をハルヱは仕掛けてこの世を去っている。
・兄の誕生
兄は私より一つ上、年子の兄弟である。私は兄の持病が先定性のものだと聞かされていた。だからずっと何かきっかけがあれば、私は兄のようになるんだと、ある意味、恐怖を抱えながらヤケクソで生きている時期があった。
母は辛かったと思う。半世紀も過ぎてから私はなるべくしていろんな事実を知るようになり、母の苦悩を知ったのである。
アルツハイマーは本人にも家族にも残酷である。あの世まで持って行こうと心していたことを母に口にさせた因果な病気だった。
母は親友とも言える人の一言で、背負ったが最後、二度と降ろせぬ障害を兄に背負わせてしまったのである。
そして母は、兄と私を連れて父を残して旅立とうとしたのである。
なぜ母はその時、思いとどまったのだろうか。看護師の母はその時兄の行く末と家族に待ち受ける大変な生活を想像できていただろうと思うのに。
小中学校は誰もが想像のつくような日々が兄と私に待ってた。子どもだからと流し去りたい、今ならそう思えるが、子ども等からのいじめや、教師からの嫌がらせがあった。いつもは母そんな教師たちと闘っていた。私も兄の同級生と戦った。
どんな思いで毎日を生きていたのだろう。母の気持ちを考えると私にはその頃もう涙も出てこなかった。
そんなハルヱのたまの息抜きになったであろう。当時勤めていた病院での夜勤帰りに若い看護師たちを連れて終夜営業のラーメン屋でラーメンを食い餃子を食い、ビールを飲んで帰って来た。そんな日の弁当のおかずは餃子だけだった。
・母の認知症の発症
こんな家族に厄介事はもう十分だった。なのに神とやらは艱難辛苦をお与え下さる。母のアルツハイマー、父のC型肝炎は同時に歩き出し、病人の二人と生活する兄が健康でいられるわけが無かった。私が乗り込んだ時には三人が栄養失調だった。もうどうでもいいやと、投げやりで挑んだ実家の片づけは簡単なものではなかった。
人の世話ばかり焼いてきて、この人の最後の姿がこれなのか、そう思えばもう出ないと思っていた涙があふれてきた。母の入居先はなかなか見つからず、兄の終の棲家探しはもっと難航した。
母を施設に入れた日を私は生涯忘れないだろう。この人に楽しいことなんてあったんだろうかって思ったのであった。
・母の終焉
死ぬ時に平均すれば人の人生なんて、みな平等だと仰る方がいるがどうもこのハルヱや兄に関しては当てはまっていないようだ。
ただ、90歳で亡くなった母の人生において、ほんの一瞬でもそれまで降ろすことの出来なかった重荷を置き、もう一人の息子である私との生活を心から楽しんでくれたのならば、私はこの世にいて良かったと思えるし、回り道して良かったと思う。私の人生はこんな母のために半分くらいはあったのだろうかと思うのである。
もうすぐ母の5回目の命日がやって来る。
ここで書いた多くは事実であり、想像は少ない。人の人生は多くのドラマを生み、1編の小説になると言う。でも、そのために生きてきた人、生きる人はいないだろう。
私は母ハルヱをそんな渦中で生きて欲しくは無かったし、生かしたくは無かった。孫の顔を見ることを楽しみに、今日の午後もお茶を飲みながら猫の頭をなでるそんな母でいて欲しかった。
