ベッルム・スパルタキウムXIII Ad Italiam Meridionalem
もしスパルタクスの戦略目標が、トラキア人、ガリア人、ゲルマン人の故郷帰還であるならば、ローマ軍に勝つ事は必須条件ではない。むしろ、全敗しても、故郷に帰還できれば、戦略目標は達成できるので、勝利となる。だがスパルタクスは明らかに、戦闘にこだわっていた。
これは戦略ミスではないか?
戦術にこだわり過ぎて、
戦略を見失っていた?
だがスパルタクスが弱い将軍で、ローマ軍に全敗しながらも、からくも故郷に帰還できた場合、その奴隷解放運動の価値は下がるかも知れない。歴史的評価は下がるかも知れない。やはりスパルタクスは強い将軍で、ローマに勝ち続けたから、英雄となり、伝説となった。
奴隷という弱兵を率いて、
強兵たるローマ正規軍を何度も破る事に、
その真骨頂がある。

ここに精神性を見出す事は容易だ。あのハンニバルでさえ、プロの傭兵を率いて、ローマ軍と戦ったのに、スパルタクスはこないだまで、ローマ人の家内奴隷か、農場奴隷だった者を率いて、ローマ軍相手に機動戦をやって、勝利し続けたのである。これは偉大な勝利だ。

人間は奴隷であろうと、
自由人であろうと、
精神性で変わるという事実を示している。
才能というものは、先天的である。人徳というものは、後天的であるが、生まれてから本人の努力で獲得するものだ。ゆえに人徳は個人的なものである。だが精神性というものは、ある時代の中で、ある人々が集団で、獲得する形質だ。そういう意味では歴史性・世界性がある。
精神性の獲得は難しい。
個人ではなく、集団として、
際立った功績と違いが必要だからだ。
イタリア奴隷戦争と呼ばれるスパルタクスたちの戦いは、まさに精神性を示している。奴隷と言う集団が目覚めて、自己を解放しつつある。人間精神の偉大さが見られる。俗にスパルタクスの乱と呼ばれ、奴隷の反乱と言われるが、ただの反乱ではない。精神の戦いなのだ。
ここにもう一つ、
似た事例がある。
極東の島国の話だ。

島原の乱だ。天草四郎を頭目としたキリスト教徒の蜂起運動だ。時代も国も宗教も異なるが、日本史の中で、一際異彩を放っている。現代でもヴァチカンから黙殺され、その評価は行き場を失っているが、年貢の問題ではなく、信仰の勝利を目指した点で、精神性がある。
島原の人々は、日本人という大集団の中で、キリスト教徒の小集団となり、信仰の自由を確保するため、日本人の大集団と戦った。結果は敗れ、信仰の自由を失ったが、信仰の勝利までは失っていない。天草四郎を頭目とするキリスト教徒たちは殉教した。これは信仰の勝利だ。
天草四郎を頭目とする島原の人々は、
日本人の大集団と、
全く異なる精神性を示した。
もし天草四郎が軍事的な天才で、幕府軍に勝ち続け、独立国家を建設したら、評価されただろうか?それは恐らく、太平天国の乱と似た評価になるだろう。むしろ、天草四郎は死に、そのキリスト教徒たちも、殉教した処に、ヴァチカンにさえ評価されないという真価がある。

これも精神の戦いだ。精神の戦いは天上の戦いではない。地上の戦いである。つまり歴史だ。スパルタクスも、天草四郎も、人間精神の解放という点で、時代を超えて共通している。この歴史観は、アーノルド・トインビーの『歴史の研究』から培った。参照されたし。

結局、スパルタクスたちは、アルプス越えを諦めた。これは大いなる後退、希望の喪失、そして目標の再設定を意味した。イタリア北上は、イタリア南下に変わった。季節は11月、冬季のアルプス越えは不可能であり、女・子供もいる。夏季でも難しかっただろう。
トウリイ冬営から1,200キロのイタリア長征は、Uターンに終わった。奴隷軍は120,000にまで達していたが、すでに40,000人戦死している。4人に1人は死んだ計算だ。生存率75%は高いのか、低いのか。女・子供を考えると、高いのだろう。戦闘に勝利している事が大きい。
また北イタリア、ムティナ周辺のGallia Cisalpina(ガリア・キスアルピナ=「アルプスのこちら側のガリア」)地方は、大土地所有者は少なく、奴隷も少なかった。反対に、中小土地所有者は多く、奴隷軍に敵意を向けていた。南イタリアと違って、完全にアウェイだった。

この辺りは、森や河が多く、また沼地で、食料が手に入り難かった。大土地所有者による大規模な農場は殆どない。中小土地所有者による拠点防衛的な農場が多く点在し、奴隷軍と敵対した。また9月から雨季に入り、北イタリアは大雨の影響で、川も増水していた。
スパルタクスはムティナ冬営を諦めざるを得なかった。北イタリアは冬営に向いていない。冬営するなら、南イタリアに戻るしかない。だから結局、また元来た道を引き返し始めた。だがイタリア人奴隷の中には、再びローマ進軍を唱える者たちがいて、抑えるのに苦労した。
奴隷軍主力は故郷帰還という目標を失い、
気力が枯渇しつつあった。特に古参が酷い。
「……希望が必要だ」
スパルタクスは呟いた。新しい目標を設定して、運動を立て直さないといけない。このままだと奴隷軍は崩壊する。バラバラになって、各自が動き始めるだろう。ローマ軍は好機と捉えて、仕掛けて来るだろう。スパルタクスから離れて、ローマ軍に勝利した奴隷軍はいない。
「海を渡ればいいじゃない」
行軍の小休止の時、
馬車の中でアポロニアが言った。
「……確かに」
スパルタクスもそう考えた。
だがこの人数を船で渡すのは大事業だ。
船をどう調達する?

「キリキアの女海賊に頼めばいいんじゃない?」
カッサンドラか。
ニアは思いつきを喋っているが、
120,000人も船で運ぶのは困難だ。
「……分割すれば行けるか?」
スパルタクスも検討してみたが、
カッサンドラが何と答えるか分からない。
「お金はいっぱいあるんでしょう?」
ニアが指摘した。
スパルタクスは頷いた。
お金はある。
「……ここで全部使い切って、
故郷に帰れるならいいか?」
問題は金で解決する問題かどうかだった。
海賊だって船は惜しいし、命は惜しいだろう。
「まずは南イタリアに戻って、
海賊と接触じゃない?」
ニアはそう言った。
スパルタクスも頷いた。
だが他のアイディアもあった。
――シチリア島だ。
あそこも過去二度、奴隷戦争があった。

少なくともアウェイではないだろう。奴隷軍を受け入れる素地はある。だが若い頃から思い描いてきたトラキア人奴隷の故郷帰還という夢から遠ざかる。シチリア島をホームとする構想はあまり望ましくない。妥協の産物だろう。それに過去二回とも失敗に終わっている。
――一体何のために研鑽してきたのか?
全ては皆を故郷に帰すためじゃないか?
スパルタクスは、故郷トラキアをローマ軍に侵略され、共同体を破壊された。家族は連れ去られ、奴隷として売却された。スパルタクス自身は辛くも逃れたが、その後の10年間は、生きるために盗んだ。だがその次の10年間は、傭兵家業の傍ら、ローマ軍に入隊した。
Centurio(チェントゥリオ=百人隊長)との出会いがあり、ローマ軍の軍規と訓練に馴染んだ。そして機動戦について学んだ。だがこれだけでは、奴隷解放運動の指導者になれなかった。スパルタクスが悩んでいたその時、行方不明だった幼馴染のアポロニアと再会した。
夢巫女、歌巫女になったアポロニアに導かれるまま、ギリシャに渡った。エーゲ海だ。デロス島とクレタ島に行き、デロス島の洞窟で神秘体験を得て、クレタ島ではクノッソスのλαβύρινθος.(ラビュリントス)で過去を再現した試練に打ち克った。ミノタウロスの幻影だ。

スパルタクスが勇者として目覚めたのは、ギリシャでの修行が大きい。ニアが過去のギリシャの英雄たちの冒険・試練をスパルタクスに追体験させて、あらゆる状況に対処できるようにした。ギリシャでの神秘体験と、ローマでの軍事訓練が、スパルタクスを勇者に鍛え上げた。
――全てを失ったあの日に対する戦いだ。
やはり故郷帰還は諦められない。
スパルタクスは再び決意した。
やはり海を越えてでも、故郷に帰りたい。
その部屋は燭台の明かりに照らされ、
豪華な調度品の影を大きく壁に投影していた。

「スパルタクスの強さは、
地の利を読む事にある。
機動戦が上手いだけではない」
その中で動いている人影が二つあった。
一方が話し、他方が聞いている。
「地の利がない時、
スパルタクスも数で力押しするしかない」
カッシウスは、ポー河河畔の戦いを思い返していた。
「河を渡る時、罠を仕掛けた。見事に嵌った」
クラッススは杯をテーブルに置いて、
黙って話を聞いていた。
「平野で機動戦をやったら、多分敗けていた」
それはカッシウスの本音だった。
だから戦場を河にした。
「平野で決戦するのは避けた方がいい」
ローマ軍が得意とする機動戦で
勝負しない方がいい。逆にやられる。
「とにかく平野は避け、
地の利がある場所を選ぶ事だ」
カッシウスが考える
スパルタクス攻略法はこれしかなかった。
「……話は分かった。ありがとう」
クラッススはそう答えながら、
まだ何か足りないと考えていた。

「もしスパルタクスに勝つなら――」
カッシウスはクラッススを見た。
「――あの奴隷たちの気迫に勝る士気が必要だ」
「気迫だと?」
クラッススは首を傾げた。
よく意味が分からない。
なぜ奴隷がそんなに強いのか?
「覚悟と言ってもいい。
命を捨てて襲い掛かってくる」
「それなら蛮族と変わらない」
クラッススは言った。
だがそう言いながら、違うなと感じていた。
「……教えてくれ。
奴らは他の連中とどう違う?」
警戒すべきはスパルタクスだけではない。
奴隷軍主力は歴戦の軍団だ。
「ハンニバルの傭兵より強いかもな」
「……なぜ奴隷共がそこまで強い?
プロの傭兵さえ凌ぐのか?」
「信じているものが違う」
一度戦ったカッシウスは、そう感じていた。
流石に精神性という言葉は出て来ない。
「……奴らは一体何を信じている?」
「分からない。
だが一度奴らの仲間になると変わってしまう」
まるで感染症のように伝染する。
それはイタリア人奴隷が多く参加している事からも分かる。
「……やはりこの目で見ないとダメか」
クラッススは、これ以上の情報は得られないと判断した。
「聞いた処によると、
アポロニアという巫女がいるらしい」
カッシウスがそう言うと、
クラッススは先を促した。
「スパルタクスの女で、
神託を司り、遠隔透視が効くらしい」
クラッススは頷いた。
どうやらその女にも色々秘密がありそうだ。
「……分かった。その女も捕えよう」
だが今は他に気になる事もあった。
「……民会が動いた。
ポンペイウスを呼び戻せと言っている」
元老院のやり方に不満を持った平民たちが動いた。
クラッススは先に動くつもりだった。
「そうか。焦らない事だな。
スパルタクスは強いぞ」
カッシウスが警告すると、
クラッススは頷いた。
兵を集めないといけない。大軍だ。

シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺088
