連載19:過ぎ越し〈聖土曜日の空腹〉5-5
マークス神父と「また煌堂で」
受難の始まり/聖週間2020
5-5 過ぎ越し〈聖土曜日の空腹〉
聖土曜日の朝、いつも我が家は空腹で目が覚める。
なぜか。
前日が聖金曜日だからである。
伝統的に、カトリック教会は四旬節の期間中、一人ひとりに「節制と回心」を求める。
そもそも「四旬節」とは、イエスの受難と復活を前に、人が神の愛に立ち帰る期間である。
イエスが公生活に入る前、荒れ野で四十日間の断食を行ったことに倣い、四十日という期間の間、誰もが自分の日常生活を見直し、節制と回心を通してふさわしい心を準備する。
(注:四十日の中には主日、つまり日曜日は含まれないため、実際は六週間になる)
その節制の最たるものが、「断食」である。
四旬節の初日となる「灰の水曜日」と「受難の聖金曜日」は、特に断食が重視される。
伝統的に、「大斎・小斎」という。
「大斎」は、食事の量を減らすこと。
一日一回だけ充分な食事を摂取し、他の二回は控えめにする。
「小斎」は、肉食を離れること。
かつては卵も肉類とされ、食するのを控えたという。それを思えば現代は制約が緩くなった、とのこと。ふむ。
(注:いずれも妊婦や病人、高齢者など、事情のある人は免除される)
そして、冒頭の「なぜか」に戻る。
健康な人間が、聖金曜日を忠実に「断食と回心」に努めて過ごすならば、当然、聖土曜日の朝は空腹なのである。
ここで、我が家で今も、深い敬意と驚嘆をもって語り継がれている二人の人物について、書き残しておきたい。
まず、アイルランドから来た若き宣教師。
彼は聖金曜日の夜、長い典礼の後に、「朝から水一杯しか飲んでないヨ」と青白い顔で微笑んだのだった。
祈りの人であった。
もう一人は観想修道会の老師父で、我が家の子どもたちに(訂正、親にも、である)「背中」で信仰者のありようを伝えた恩人である。
彼は四旬節だけでなく、一年中ずっと、金曜は肉も卵も一切口にせず、裸足で質素に過ごしておられた。
澄んだ目をしたイタリア人だった。(さり気なく頑固だったけど…)
お二人とも涼しい顔で淡々と、黙って、喜んで断食を捧げておられ、自分から「やってます!」なんて言わなかった。
むしろ行いを秘めておられた。
(アイリッシュの彼は、なんとなく普段と雰囲気が違うので体調を尋ねたら露見したことだし、老師は賄いの女性がポロリと呟いたのを、私の耳がたまたま拾っただけなのだ)
この二人に限らず、敬虔な信徒は「強制でなく、真心から」大斎・小斎を淡々と捧げる。
ただ、大変すみません、我が家は無理です。
私の夫は結婚当初から、目が覚めると同時に「腹が減った」と呟く種族であった。
昔の祈祷書(小さいくせに重々しい、真っ黒な『公教会祈祷文』という、今となれば貴重な本)に「起床時の祈」というのがある。
「朝まだきに わが心 主をあこがれて めざむ」(詩編62)から始まり、「イエズス・キリスト、祝せられさせ給え。云々…」と続く。
(全ての文言が文語だった)
我が愛しの君は、当時から(今も)布団の中で、ひとりごちる。
「朝まだきに我が心、朝食を憧れて目覚む…」
夫は幼児洗礼である。
彼にとって、四旬節は幼少から憂鬱な季節なのであった。
(もちろん教会に行けば、四旬節であろうと何であろうと、涼しい顔でクールにカッコよく、祭壇前でバッチリ侍者としての務めを果たした。…と、本人は胸を張って言う。うん、これは大事な情報だ。たぶん…)
そして、二人の子どもたちもその血を継いだ。
我が家の四旬節、特に灰の水曜日と聖金曜日はどんよりとして、とにかく空気が重たいのであった。
2020年の聖土曜日。
この話をジョー・マークスにした時、ひたすら大爆笑された。
そこまで笑わなくても、ねえ。
「単に、形だけ食べないという義務感からのDoingはねえ、ミカ、あまり意味をなさないよ」
ふん、わかっとるわい!
「神様に対する愛として、メタノイア(回心)の表現として、祈りとして、自分の心を捧げるというBeingによってこそ、断食の意味がある」
ええ、ええ、もちろん仰ることは理解しておりますわよ。
あなた様の弟子ですから。
「まあね、ミカゲ、笑い話ではなくてね。心から神様に感謝して、まずは食事を丁寧にいただくということ。私たち、本当はそこから始めるべきかもしれません」
「断食を意識するのはね、義務感の先です」
「あなた方に断食は、まだ早いのかもね」
ニッとウィンクされ、画面越しに、あの大きな手で頭をポンポンされた。
蛇足ながら記しておくが。
カトリック圏で行われる有名なカーニバルは、四旬節の直前に、まさに「飲めや食べろや、もっと踊れや」のドンちゃん騒ぎを堪能し尽くすという、実に楽観的というか短絡的というか、本末転倒というか、安直な発想からの国民的祭りである。
ついでに書くと、「カーニバル」の語源は「肉よ、さらば」、だそうな。
(それがどこでどう間違ったか、日本語で「謝肉祭」と訳された)
義務感も、ここまでアッケラカンと開き直られると、却って清々しい。
ハチャメチャである。
念のため、明言しておく。
カーニバルは「教会行事」ではない。教会行事から「派生」して、人間が勝手に盛り上げてきた祭りである。
ただ、教会行事と全く無関係だと言うならば、それは明らかに欺瞞である。…と思う。
実は、「聖金曜日に水一杯だけ」のアイリッシュの彼の一族は、灰の水曜日(Ash Wednesday)の前夜に、毎年家族でパンケーキを楽しむPancake Tuesday(パンケーキ火曜日)を謳歌し、それから四旬節を迎えたそうだ。
こういう人間くさい、いかにもカトリックっぽい発想が、私はかなり好きである。
カトリック教会は、とかく堅苦しく、戒律が厳しい、というイメージを持たれがちだ。
私自身、受洗前はそう思っていた。
しかし実は、さり気なく「逃げ道」が用意されていたりする。
狡いと言えば狡い。
けれどもそれは、人間の弱さや醜さ、矛盾だらけの現実を、全て前提として、教会が存在しているからなのだと私は思っている。
そう、人間の「負の遺産・負の現実」の全てを認め、全てを抱き留め、全てを包み込んで、神の御前に立つ。
これが、教会なのだと思う。
そしておそらく、まさにその事実こそが、私が教会を愛して止まない理由なのである。
カトリック教会に限らず、全てのキリスト教会は「義人の群れ」ではない。
教会(エクレシア)は「キリストを信じる民の交わり」である。
だから教会には、聖者もいれば、腹ペコもいる。
それで良い。…きっと。
mikageです:
コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。
(たまに単発で短編を挟むことがあります)
更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。
なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。
読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。
また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。
続き(連載20)はこちら↓
本記事(5-5)「過ぎ越し」の
(5-1)はこちら↓
連載の第1回はこちら↓
単発短編はこちら↓
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今後ともよろしくお願いいたします。
目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage
