連載20:過ぎ越し〈聖土曜日の汚れなき本気〉5-6
マークス神父と「また煌堂で」
受難の始まり/聖週間2020
5-6 過ぎ越し〈聖土曜日の汚れなき本気〉
幼いころ、ジョー・マークスは毎日「ミサごっこ」に興じていた。
いや、「ごっこ遊びに興じる」などという表現は、間違いなく大人の傲慢だ。
本人はどこまでも真剣だった。
まず、文言の練習から始める。
当時は第二バチカン公会議(1962年から1965年)の二十年以上も前のこと。
つまり、式文は全てラテン語。
現代のように、各国の言語でミサが捧げられるようになったのは、公会議の決定を受けての「典礼改革」以後である。
スラスラと澱みなく、流れるようにラテン語の祈りを唱えるには、幼いジョーには特訓が必要だった。
しかも、侍者の文言までも唱えるのだから、ずっと喋りっぱなしで息が切れる。
当時は今のように会衆が何かを唱えることはなく、司祭に呼応する祈りの部分は全て侍者が唱えていた。
侍者のことを、古い信徒たちは「ミサ答え(する人)」と呼ぶ。
ミサの祈りは司祭と侍者の掛け合いで進み、会衆は無言で与っていたのである。
自分のラテン語暗誦に満足できたなら、次は所作の練習である。
当時のカトリック教会では、司祭は会衆とともに祭壇に向かい、神に祈りを捧げていた。
(司祭は会衆に背を向けていた)
立ったり、跪いたり、手を広げたり、頭を下げたり、所作の全てに意味があった。
(これは現代も同じである)
ジョーは一つひとつの言葉、一つひとつの所作、その全てに全身全霊を注ぎたかった。
ただただ神に喜んで欲しかった。
だから常に完璧を目指した。
幼児にとって、それはなかなか難しいことだった。
とても我慢と忍耐と努力が必要だった。
上手くできないと悔しかった。
とても悲しかった。
さらに困ったのは、普段よりもトイレが近くなることである。
緊張してしまうのだ。
ミサの練習なのに!
本番でもないのに!
「すぐにオシッコに行きたくなってねえ。マイッタヨ」と、晩年のマークス神父は笑った。
「だってね、自分の一つひとつ、その全てが主に喜ばれるように、ただただその一心でしたから」
ついに自分の練習に納得できた時、ようやくジョーは本番のミサを始める。
聖体(キリストの体)となるパンの代わりは、ママが毎日準備してくれるクラッカー。
ぶどう酒は、さすがのママもダメだって。
だから仕方がない、水やジュースで代用したんだ。
いろいろなミサ道具、これもママが僕のために準備してくれた。
僕が捧げるミサのために、綺麗なお皿。綺麗なグラス。綺麗なボウル。
どれも家族が使う大事なものだった。
大丈夫だよ、僕、丁寧に扱うんだ。
落としたりはしないよ。
だって神様のためだもの。
ミサで使う白い布も、ママは赤い糸で十字架の形を縫い付けてくれたんだ。
ママは本当に優しい。
ママはいつも僕のことをわかってくれる。
僕が本当は何がしたいか。どうしてそんなことをしたいのか。
もちろんパパも、兄さんたちもだよ。
大きな十字架は、パパがとても大切にしているもの。
典礼書の代わりの本は、兄さんたちが大事にしている大きな絵本。
パパも兄さんたちも、毎日僕に貸してくれる。
「僕たちのために、僕たちの代わりに、しっかり神様に祈ってくれヨ!」って。
うん、だから僕、頑張るんだ。

汗びっしょりになって、幼いジョー・マークスは心からミサを捧げた。
全人類の救いのために、一人ひとりのために最後の晩餐を残し、ゲッセマネで血の汗を流して祈り、厳しい受難の末に、十字架でご自分の命を捧げてくださって、ついには復活してくださった主イエス・キリスト!
ミサはその記念なんだ!
「主よ、僕のために、ありがとうございます。世界中の人たちのために、本当にありがとうございます」
その方の愛を記念して、その救いの御業を賛美して、幼いジョーは心こめて、精一杯の祈りを捧げた。
毎日毎日、昨日も今日も、明日も。
これが、物心ついたころからのジョー・マークスの日常だった。
いや、使命というべきか。
そしてこの日、聖土曜日は特別な朝。
だって、もうすぐイエス様が復活なさるんだよ!
昨晩もベッドの中で、何度もミサの場面一つひとつを思い返し、繰り返し練習していた。
ベッドの中で、とっても緊張したんだよ。
だって僕、心をこめて感謝と賛美を捧げたいんだ。
復活のイエス様をお迎えするんだから!
・・・ここまで話し終えて、白髭のマークス神父はタブレットの画面越しに、視線をずっと遠くに向けた。
時は2020年、コロナ禍の4月。
聖土曜日の朝である。
そう、幼き日のこの習慣は、最期の最後まで神の祭司として生き抜いた宣教師ジョー・マークス神父の、まさに「司祭職」の原体験であったと私は思っている。
幼いジョーが捧げたのは、ミサに向かう彼の「真心」であった。
三歳児の、しかし、全身全霊からのBeingであった。
汗びっしょりになって、何度も繰り返し行った練習は、Beingから自ずと現れ出た真心のDoingであった。※※
もちろん、この時のクラッカーは聖体ではない。
水やジュースは御血ではない。
教会の定める意味では、まだミサではない。
彼が毎日捧げていたものは、大人の目から見れば確かに「ごっこ遊び」であって、ミサではない。
いや、しかし。
主キリストが、これを単なる「幼児のお遊び」とお笑いになるだろうか?
なお、ジョー・マークスが待ちに待った初聖体を授かり、七歳になって、ようやく侍者の勉強が始まり、ついに晴れて教会の侍者として「ミサ答え」デビューするのは、まだこの先、数年後のことであった。
「緊張してトイレに困った」問題は、正式に侍者となってからも、まだまだ暫く大変だったそうである。

補足:
カトリック教会の「秘跡」について、要点だけ簡単に記しておく。
本来ならば論文になるほどの内容であり、…
書きたい、本音では書きたい。血が騒ぐ。
…いや、ここで秘跡論文は控えることにする。
残念だが。
(私が秘跡論を語り始めると、連載は永遠に終わらないので…)
秘跡とは、
「目に見えない内的な神の恩寵(invisible grace)が、目に見える外的なしるし(象徴、シンボル=visible sign)によって表される」ものである。
カトリック教会が定める秘跡は、
「洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・婚姻」の七つ。
例えば「聖体」の秘跡の場合、
「恩寵」は「主キリストとの一致と交わり」である。
「しるし」はミサによってキリストの体(聖体)となる「ホスチア」(小さなウェハスのようなパン)だが、ミサ典礼全体もまた、その「しるし」と考えてよい。
いずれの秘跡にも条件があり、有効性が問われる場合がある。
聖体の秘跡の場合、
ミサで用いられるパン(ホスチア)は、「キリストの代理者」としての権能を与えられた司祭が、教会の祈りを捧げ、聖霊の働きによって、パンとぶどう酒がキリストの体と血となり、私たちはキリストと全教会との交わりに一致する。
仮に、どんなに敬虔な信徒がミサを捧げたとしても、司祭でなければ普通のパンが聖体に変化することはない。
つまり、それは教会が定める意味でのミサとはならない。
原則として、婚姻以外の秘跡は司祭が行う。
堅信の通常の司式者は司教、叙階は司教が行う。
(ただし緊急洗礼の場合は、司祭に限らず、誰でも、たとえ未受洗者でも、授洗は可能である)
なお、こういった秘跡に関する考え方は、時代の流れとともに変化してきた。
例えば、記憶に新しいところでは、
本文中に触れた「第二バチカン公会議」以後、
・ミサ典礼文がラテン語から各国語になった。
・司祭が会衆に向かってミサを捧げるようになった。
・音楽や美術が多様になった。
・地域文化を取り入れた典礼が広がっていった。
・未受洗者への祝福(聖体拝領の代わり)が1980年代以降、普通に行われるようになった。….等々
そしてあのコロナ禍も、
一人ひとりに「秘跡の意味」を根本から問い直させる契機となった。
何が本質であるか。
どこは変えても良いのか。
絶対にブレてはいけない軸は何か。
決して変えてはいけないものは何であるか。
ジョー・マークス神父がタブレットを用いて煌堂ミサを決行したのは、ある意味で、歴史的な大事件であったと言える。
↓↓関連記事:連載7から10「霊的な交わりと一致」
とこしえに主は賛美されますように。
文中※※↓↓関連記事:Beingの祈りに関して
↓↓関連記事:八歳の聖土曜日
↓↓関連記事:司祭としての決意
なお、聖体の秘跡については、
ゆりさんがとても丁寧に、わかりやすい記事を書いていらっしゃいます。
併せてご参照ください。
↓↓関連記事:「パンはパンでも、教会で食べるパンはな~んだ?」
mikageです:
コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。
(たまに単発で短編を挟むことがあります)
更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。
なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。
読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。
また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。
続き(連載21)はこちら↓
本記事(5-6)「過ぎ越し」の
(5-1)はこちら↓
連載の第1回はこちら↓
単発短編はこちら↓
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舞い上がって喜びます♪
今後ともよろしくお願いいたします。
目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage
