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連載22:過ぎ越し〈聖土曜日の招き〉5-8

マークス神父と「また煌堂で」

受難の始まり/聖週間2020

5-8 過ぎ越し〈聖土曜日の招き〉

 第二バチカン公会議(1962年〜1965年)から、遡ること二十年ほど前。
 1940年代のアメリカ中西部。

 マークス一家五人を乗せた自家用車が、教会に向かって道を走らせていた。

 朝の四時すぎ。
 ほんのりと、東の空が白み始めてはいたが、まだ周囲は藍色。
 街灯の光に照らされて、車は静かに進んでいく。

 かつて、若きリンカーンが弁護士時代を過ごしたこの街は、工業都市でありながら、少しばかり奥に入ると「もうトウモロコシ畑ばっかりヨ」と、これは白髭マークス神父の述懐である。    
 そこは普段、少年たちの遊び場でもあった。
 だが、この時間は霧が薄く垂れこめている。

 木々がようやく芽吹き始めた早春は、車の中にいても肌寒さを感じる。

 この日は聖土曜日であった。

 現在、日没後に行われている聖土曜日の「復活の聖なる徹夜祭」は、この時代は聖土曜日の「早朝」に行われていた。
 
この早朝典礼は、後にピウス十二世によって日没後に行われるようになり、第二バチカン公会議後に現在の形へと整えられていくが、車中の家族はまだそれを知らない。

 朝五時から始まる典礼に、一家は全員が正装して向かっていた。

 車の中で、ママはいつものように、ロザリオを繰っていた。
 上のニール兄さんは、眠い目を擦りながら、運転席のパパと学校の話をしている。
 下のショーン兄さんは、発車と同時に寝てしまった。
 そして末っ子ジョーは、これから行われる「復活徹夜祭」の典礼を、頭の中で何度も反芻していた。

 ジョー・マークスの教会では、七歳から侍者の勉強が始まる。
 数ヶ月の特訓を受けた後、チビッ子たちは見習いとして先輩たちの手解きを受けながら、少しずつ現場に慣れていく。
 そして、やがて正式な侍者として認められる。

 ジョーは、幼少から「ミサごっこ」に慣れ親しんできたので、侍者の特訓はそれ自体が復習みたいなものだった。※※

 彼は早く正式な侍者になりたかった。
 早く神様に仕えたかった。

 ついにその許可が下りた時、彼はただもう嬉しかった。
 嬉しくて、嬉しくて、「神様のために、もっと頑張ろう」と思った。

 そして今日、正規の侍者になって一年近くになるジョーは、初めて聖土曜日の典礼に挑む!
 ああ、昨夜はドキドキして、あまり眠れなかったんだ。
 緊張のあまり、ミサの途中でまたオシッコ問題が発生しなければいいけれど。※※

 聖土曜日の「復活の聖なる徹夜祭」通称「復活徹夜祭」は、一年で最も重要な、教会の中心的な祭儀である。※※※

 しかしながら、朝五時からの「復活徹夜祭」に、侍者として奉仕できる人材は限られる。
 なぜならば、普段と違って年に一度、この日特有の重要な準備がいろいろあるからだ。
 五時に教会に到着するのでは、とても遅い。
 遅刻は絶対に許されない。

 マークス家は比較的、教会の近くに住んでいた。

 あの小さかったジョー坊やが、ついに正規の侍者となった時、「これで聖土曜日は安心だ!」と、大人たちも侍者たちも大いに喜んだ。…らしい。
 それ以降の聖土曜日は、毎年マークス三兄弟が「控えめに言っても大活躍」する場であったと、これは本人の証言?である。

 一家を乗せた車が教会に着いた時、まだ太陽は昇っていなかった。

聖土曜日の朝

 聖堂に入り、司祭と挨拶を交わし、三兄弟は香部屋(こうべや)と呼ばれる準備室で、白い侍者服に着替えた。

 侍者やオルガニストなどの奉仕者たちは、みな最初に司祭と祈りを捧げ、その日の準備に取りかかる。

 そのうち人々が教会にやって来て、薄暗い聖堂を埋めていき、次第に祈りが満ちていく。
 典礼開始の時間だ。

 「復活徹夜祭」の典礼は、光の祭儀から始まる。※※※
 二人の兄たちは司祭の傍に立ち、火を準備する。
 司式司祭が「火の祝福」の祈りを唱え始める。

 ジョーは大きな復活ロウソクを、両手でしっかりと支えた。
 八歳の腕に、そのロウソクはずっしりと重かった。
 重い!でも絶対に落とさない!
 絶対に!

 その復活ロウソクに、ついに火が灯る。
 「キリストの光!」
という司祭のラテン語の呼びかけに対し、マークス三兄弟もラテン語で応じた、「神に感謝!」と。

 薄暗い朝、大きな復活ロウソクの光が、聖堂を静かに照らしている。
 一人ひとりの心も静かに照らされていく。

 典礼の流れは現代とあまり変わらない。

 旧約朗読が終わり、「栄光の賛歌(グロリア)」が始まると、歌いながらジョーの心が熱く燃え盛る。
 まだ暗かった聖堂にが戻り、東の空にも少しずつ朝の気配が広がっていく。

 ・・・・・
 復活徹夜祭の荘厳なミサが終わった。
 そして、それはその後に起きた。

 司祭や侍者たちが安堵と喜びの表情を浮かべ、香部屋で着替えをしていた時のことだった。
 なんだろう、ジョーは誰かに呼ばれたような気がして、ひとり侍者服のまま、聖堂に引き返した。

 自分を呼んだのは誰だろう?
 キョロキョロと見回したけれど、それらしき人は見当たらなかった。

 ふと見上げると、ステンドグラスに目が吸い寄せられた。

十字架のキリスト

 十字架につけられた主イエス・キリスト。
 いつも見ている絵であったのだが。

 その時。
 朝の光がステンドグラスを通り抜け、キリストの体を通り抜け、真っ直ぐにジョーの体を貫いた気がした。

 その瞬間、ジョーは悟ったのだ。
 「あ、この方は神の子!」と。 

 この方は神の子!
 この方こそ、本当に神の子!
 神の御独り子!
 僕のために十字架につけられ、僕のために復活してくださった方!
 そして今、僕と一緒に生きてくださる神様!
 僕の主、僕の神様、復活のキリスト!・・・

 ・・・・・
 ジョー・マークス、八歳の聖土曜日。
 後に、宣教師として日本に派遣されたジョー・マークス神父にとって、忘れられない幸せな日であった。

 時は2020年、コロナ禍中の聖土曜日。
 ここまでの話を、白髭のマークス神父はタブレットの画面越しに、遠くを見つめて懐かしむように、淡々と語った。

 三歳の時分から「ミサごっこ」を日課として、その頃から当たり前のように「神に仕えてきた」ジョー・マークスは、八歳の聖土曜日の朝、まさしく神の「招き」を受け取ったのだろう。

 いや、もっとも本人にはそんな意識はこれっぽっちもなくて。
 「あの時ね、私、ただ嬉しかった」

 「ほんとにね、ただもう、ただただ、ありがたかった」
 白髭の老神父は、頬を染めながら照れたように笑った。

 「ねえミカゲ、神様は大きいよ。本当に大きい
 「・・・・・」

 「もちろんね、このコロナウィルスの惨状の中で、マークスは今もブツブツと文句いっぱい。これが現実です」

 「でもね、それでもね、やっぱり感謝しかない」
 「・・・・・」
 「神様が与えてくださったこの愛を、これほどの愛を、私はいったい、どうやって、お返ししたら良いのだろう」

 「・・・いや、何もできません。ただもう全て、ただ神様に感謝しかないです」


補足:
後年、ジョー・マークスは、両親の世話を、結果的に兄たちに任せきりにしていることを、やむを得ないこととはいえ、とても申し訳なく感じていた。
ある年、アメリカに帰った際に、それを二人に詫びた時、彼らは口を揃えて言ったという。

「俺たちは、肉のことには責任を持つ。だからお前は、霊のことに専念してくれ」

「そんなお前がいてくれるからこそ、俺たちは安心して、肉のことに専念できる」

「俺たちは、お前に心から感謝している」と。

本記事は、生涯にわたり、宣教師ジョー・マークス神父とともに歩み支え続けたご家族に捧げます。


追記:
なお、本記事を投稿するこの日、7月18日はマークス神父の誕生日である。
祈りの人であったマークス神父に連なる仲間たちが、今日、いつもに増して熱をこめ、天と地の時空を超えて一致して祈りを捧げている。

本連載は、宗教や教派を超えた多くの仲間の祈りの中で、祈りに支えられて続けられていることを、感謝とともにここに明記しておきたい。

主に栄光が帰されますように。
ジョーが生涯そう望んでいたように。


文中※※↓↓関連記事:「ミサごっこ」と「オシッコ問題」

文中※※※↓↓関連記事:復活徹夜祭の流れ



mikageです:

コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。

(たまに単発で短編を挟むことがあります)

更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。

なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。

読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。

また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。

続き(連載23)はこちら↓

本記事(5-8)「過ぎ越し」の
(5-1)はこちら↓

連載の第1回はこちら↓

単発短編はこちら↓

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今後ともよろしくお願いいたします。

目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage

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