連載21:過ぎ越し〈聖土曜日の静寂〉5-7
マークス神父と「また煌堂で」
受難の始まり/聖週間2020
5-7 過ぎ越し〈聖土曜日の静寂〉
2020年の聖土曜日。
ジョー・マークス神父と私は、バーチャル聖堂「煌堂」で、祈りを分かち合っていた。
聖木曜日、イエスは最後の晩餐を行った。
聖金曜日、イエスは受難を経て、十字架上で息絶え、墓に葬られた。
聖土曜日、イエスはまだ墓の中にいる。
神の御子が墓に葬られているので、この日はミサをはじめとする通常の祭儀は行われない。
(注:ただし、緊急時はその限りではない)
だから、煌堂ミサも行わない。
「今朝、ローマで勉強中の若い神父から、メールを受け取りました」
悲痛な面持ちで、マークス神父は口を開いた。
「フランスでは、私たちの修道会のメンバーが、現時点で十二名、この新型コロナウィルスで死亡したそうです」
「・・・・・」
「そのうちの半数を、彼は個人的によく知っていた、と」
「厳しい現実だ。言葉がない」
「・・・言葉がないと言いながら、私自身、修道院の中だけで過ごす毎日に、少しばかり疲れてきました」
「本来ならば、私は今日、信徒たちのために、告解場にいたいのに」
そう嘆いた彼は、画面越しにチラッと私を一瞥し、さらに言葉を添えた。
「人間って、ホントに勝手ネ。・・・しょうがないです、人間だから」
「でもね、だからこそ、主は復活してくださる」
聖土曜日は静寂に浸り、主の復活を待ち望む、待ちわびる日である。
本当に。・・・
ユダヤ人の暦では、一日は日没から始まる。
復活の主日(日曜日)は、すでに土曜日の日没から始まっている。
かつて初代教会では、夜を徹して「目覚めて」祈りながら主の復活を待ち、主を迎えた。
この伝統に従い、カトリック教会では、聖土曜日の夜の典礼を「復活の聖なる徹夜祭」として尊ぶ。
「復活の聖なる徹夜祭」通称「復活徹夜祭」は、一年で最も重要な、教会の中心的な祭儀である。
聖土曜日は静寂の日ではあるが、しかし同時に、復活の主を迎えるための最後の準備の日でもある。
通常ならば、教会のあちこちで、数々の準備が着々と進められるのだ。
教会は、朝から大勢の人で賑わう。
例えば聖堂では、オルガニストが「アレルヤ」を練習している。
そこに途中から聖歌隊が加わり、この日特有の聖歌の練習も始まる。
侍者の奉仕をする者たちは、チビッコから青年まで、司祭から手ほどきを受け、所作の練習をしている。※※
台所では、婦人たちがミサ後のパーティ料理を作っている。
時には、修道士や年配の司祭までがエプロン姿でやって来て、大きな手で器用にケーキを焼き始める。
希望に満ちた香りが鼻をくすぐる。
そしてもう一つ、忘れてはならない場所。
それが告解場である。
四旬節の間、信徒たちはゆるしの秘跡(告解)を受け、心を整える。
早めに済ませておくことができればよいのだが、日々の社会生活の中で、それが叶わないのも現実だ。
聖土曜日の告解場は、一日中、信徒たちがその前で長蛇の列をなす。
人々は、静かに祈りながら自分の番を待つ。
聴罪司祭は一人ひとりの告白に耳を傾け、罪のゆるしを宣言し、祝福を与え、新たな歩みへと送り出す。
聴罪司祭であったマークス神父にとって、この日は一年で最も多忙だったと言ってよい。※※※
そうこうしているうちに、陽が沈む。
聖土曜日の夜、聖なる祭儀が始まる。
ここで、通常の「復活徹夜祭」の流れを、ざっと記しておこう。
この典礼は「光の祭儀」から始まる。
火(光)は、復活したキリストのシンボルだ。
星空の下、聖堂の外に準備された火が、司祭によって祝福され、大きな復活ロウソクにこの火が灯る。
司祭の「キリストの光!」の歌声に対し、真っ暗な聖堂で司祭の入堂を待つ信徒たちは「神に感謝!」と歌で応じる。
司祭は暗闇の中、ロウソクの光を頼りに、侍者たちを従えて、聖堂内の祭壇まで行列する。
祭壇近くのロウソク台に、復活ロウソクが立てられる。
「復活賛歌(エクスルテット)」が高らかに歌われる。
「神の使いよ、天に集い、声高らかに喜び歌え!」と。※※※※
次に「ことばの祭儀」に入る。
まず旧約聖書から、神の救いの歴史が朗読される。
用いられる朗読箇所は、第一の創世記から、本来は第七まであり、短縮は可能だが延々と続く。
エゼキエル書の第七朗読と祈願が終わったところで、待望の「栄光の賛歌(グロリア)」だ。
新約時代の到来と、救いの成就を告げる教会の鐘が鳴り響き、それまで暗かった聖堂に光が戻る。
ここで、典礼の空気がガラッと切り替わる。
新約聖書からパウロ書簡「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない」(ローマ6:3-11)が朗読され、続いて司祭による福音書の朗読で、キリストの復活が宣言される。
説教の後は、「洗礼の典礼」である。
洗礼志願者がいる場合は「洗礼式」が行われ、いない場合でも、信徒一同が「洗礼の約束」を更新する。
そして、最後は「感謝の典礼」。
ミサの最後は喜びの歌声が、もう聖堂いっぱいに響き渡る。
歌が終わると、どこからともなく拍手が湧き起こり、暫く鳴りやまないのが例年の光景だ。
この拍手の中で、私も拍手しながら、「ああ、やっとご復活だ!」…と胸が熱くなる。
そう、これが通常の、コロナ前の復活徹夜祭だった。
しかし、2020年は前夜と同様、信徒たちはライブ配信を通して、教会の交わりに一致することになる。
タブレットの画面越しに、マークス神父は静かに続けた。
「今日はね、復活徹夜祭の冒頭、『火の祝福』の言葉を、ゆっくりと味わえばいいと思いました」
「御子を世の光としてわたしたちに与えられた神よ、新しい火を祝福してください。この過越の祭りによってわたしたちが新しい希望に燃え、清い心で永遠の光を受けることができますように、と」
「新しい火。新しい希望。清い心。永遠の光・・・」
「その一つひとつを、ゆっくりと、丁寧に噛み締めたらいい」
「私たち誰もが一人ひとり、その神秘に招かれていますから…」

2020年の聖土曜日。
この日は朝から晩まで静寂であった。
補足:文中※※
聖土曜日の侍者奉仕について
幼少から侍者としての心得を叩き込まれてきた夫いわく、
「復活徹夜祭ってさ、年にたった一度だけでしょ。次の年になるとね、綺麗サッパリ忘れているんだよ」とのこと。
↓↓関連記事:侍者について
文中※※※↓↓関連記事:聴罪司祭マークス神父について
文中※※※※↓↓:復活賛歌
mikageです:
コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。
(たまに単発で短編を挟むことがあります)
更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。
なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。
読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。
また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。
続き(連載22)はこちら↓
本記事(5-7)「過ぎ越し」の
(5-1)はこちら↓
連載の第1回はこちら↓
単発短編はこちら↓
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今後ともよろしくお願いいたします。
目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage
