連載24:過ぎ越し〈復活祭の賛歌〉5-10
マークス神父と「また煌堂で」
受難の始まり/聖週間2020
5-10 過ぎ越し〈復活祭の賛歌〉
ジョー・マークスは歌が好きだった。
歌を楽しむ人だった。
人の歌を聴くのも好きだったし、歌うことも好きだった。
彼の声は温和で伸びやかで、よく通った。
ずっと以前、「聖歌隊で歌っていらっしゃったのですか」と、ジョーに尋ねたことがある。
なぜか大爆笑され、「どうしてそう思う?」と、逆に聞き返された。
「えー、だって歌がお上手だから」と答えると、彼は大いにテレて、すぐに話題を変えた。
今ならわかる。
仮にあの時、もっと執拗に問い続けたならば、たぶん「私は侍者デシタ!」と、彼はちょいとばかり胸を張って、ドヤ顔を見せたに違いない。※※
カトリック教会の典礼において、侍者と聖歌隊は役割が異なる。
ミサ中に、ずっと聖歌隊席で歌っている自分の姿なんて、ジョーには想像できなかったのだろう。
司祭となったマークス神父は、若い頃、折に触れて仲間たちと集い、祈ったり歌ったり、飲んだり食べたり歌ったり、歌ったり笑ったり、…要するによく歌っていたらしい。
晩年も、教会の聖書クラスなどで、人々と一緒に聖歌を歌うひとときを、彼はとても楽しんでいた。
彼の歌声はよく響き、一同を穏やかに包んだ。
教父聖アウグスティヌスは、「よく歌う人は倍祈る」(Qui bene cantat, bis orat.)という有名な言葉を残している。
祈りの人として生き抜いたマークス神父だが、日常の中で無意識のうちに口ずさむ歌によって、実際にはその何倍も祈っていただろう。
時は2020年4月、復活祭(復活の主日)。
この日は家族全員でバーチャル聖堂「煌堂」に集い、マークス神父とともにミサを捧げ、主キリストの復活を祝った。
教会は、この日から復活節に入る。
長い四旬節から解放され、何が嬉しいって、ミサ中の聖歌がどれも希望と歓喜の色彩を帯びることだ。
例えば、ここから聖霊降臨の主日(ペンテコステ)までの五十日間は、賛美の「アレルヤ」が繰り返し歌われる。
四旬節中のアレルヤは、特別な祝日を除いて御法度だったので、まるでその反動のように、復活節はアレルヤづくしになる。
実に晴れやかな気分になり、大変喜ばしい。
まさにアレルヤ!である。
アレルヤといえば、やはり「復活の続唱」に触れないわけにはいかない。
復活祭から翌週の日曜(神のいつくしみの主日)まで、八日間だけ毎日捧げられる期間限定の美しい祈りである。※※※

あなたが道で見たことを
-復活の続唱より-
2020年、コロナ禍中に迎えた復活祭は、これを家族で歌い祝った。
マークス神父は嬉しそうに画面を見つめ、私たちの歌に耳を傾けながら、一緒に口ずさんでいた。
かつて、私たち家族は自宅に司祭を招き、友人たちにも声をかけ、定期的に家庭ミサを催していた。
その際、事前に少なくとも三曲、「入祭」「拝領」「閉祭」の聖歌を選び、楽譜も用意して、全員で歌うのが常だった。
コロナ突入後は、家族で与る主日の煌堂ミサにおいても、私たちは三曲、必ず準備した。
ジョーは毎回、その歌を何より楽しみにしていた。
この日の閉祭には、「よろこびうたえ アレルヤ」(典礼聖歌410)を選んだ。※※※※
イースター定番のアレルヤ賛歌である。
ジョーは最初こそ嬉しそうに耳を傾けていたが、自分でも歌いたくなったのだろう。途中から私たちの合唱に加わってきた。
「全地よ こぞりて勝利の歌をささげよ わが主に アレルヤ! アレルヤ!」
タブレット越しで拍子は狂うし、音程もズレるし、歌詞は間違えるし、…歌の出来としては相当スットコどっこいだったけれど、あれほど喜びと感謝に満ちた賛歌は耳にしたことがない。
ミサが終わった時、ジョーはとびっきりの笑顔でパチパチパチ…と拍手した。
私たち家族もタブレットのこちら側で、ジョーにつられるように、笑いながら拍手した。
バーチャル聖堂「煌堂」に響いたその拍手は、間違いなく、復活なさった主キリストに届いたことだろう。
煌堂ミサ後、ジョーから短いメールが入った。
ねえミカ、今日は思いっきり笑顔で過ごしてください。
笑顔にはね、とてつもない力がある。
笑顔は必ず社会を変えていきます。
今、世の中はこんな状態ですけれど、でもね、それでも私たち、心からの笑顔で喜んでいましょう。
笑っていましょう。
だって、主は復活なさいましたから!
愛と感謝!
ジョー
(注:原文は英語。私訳)
補足:
ジョー・マークス神父が帰天した一ヶ月後に、信徒たちの主催で追悼ミサが行われた。
その閉祭の時に、「よろこびうたえ アレルヤ」の歌声が聖堂いっぱいに響き渡った。
帰天直後の追悼ミサは、多くの場合、しめやかな歌が選ばれることが多い。
しかしジョーは、「自分が死んだら、喜んで、笑顔で、送り出して欲しい」と、前々から遺言していた。
「賛美の歌をささげよ わが主に アレルヤ!」というこの歌は、ジョー・マークスの人生そのものだった。
追悼ミサが終わった時、割れんばかりの大きな拍手が天上から聞こえてきた気がした。
とこしえに主は賛美されますように。
主に栄光が帰されますように。
文中※※↓↓関連記事:八歳の侍者
文中※※※↓↓:復活の続唱
(先唱)
キリストを信じるすべての者よ
(会衆)
主の過越をたたえよう
こひつじは ひつじをあがない
罪のないキリストは 罪の世に 神のゆるしをもたらされた
死といのちとの たたかいで 死を身に受けた いのちの主は
いまや生きて治められる
マリアよ わたしたちに告げよ あなたが道で見たことを
開かれたキリストの墓 よみがえられた主の栄光
あかしする神の使いと 残された主の衣服を
私の希望 キリストは復活し ガリレアに行き待っておられる
ともにたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
勝利の王キリストよ いつくしみをわたしたちに
アーメン アレルヤ
文中※※※※↓↓:よろこびうたえ アレルヤ
mikageです:
コロナ禍中に
恩師マークス神父(仮名)と過ごした
バーチャル聖堂「煌堂」での祈りの日々を
連載で綴っています。
(たまに単発で短編を挟むことがあります)
更新は不定期です。
1話ごと、祈りの中で言葉を紡いでおります。
気長にお付き合いくださいませ。
なお、本作は実話録ではありますが、
主人公はじめ登場人物・組織名等は、
(少なくとも当面は)仮称を用います。
読者の皆様には、ジョー・マークスを、
世間的な「肩書き」や、修道会・教会という組織の名称とは切り離された、ただ「神の御前に何ものでもない、一人の無名の老人」として、受け取っていただきたいと望んでおります。
また、記事は事実をベースとしつつ、
一部の出来事や時系列などに、再構成や脚色を含みます。
本記事(5-10)「過ぎ越し」の
(5-1)はこちら↓
連載の第1回はこちら↓
単発短編はこちら↓
記事にスキ♡していただけると
舞い上がって喜びます♪
今後ともよろしくお願いいたします。
目を留めてくださるお一人おひとりに
祝福を祈りつつ…
mikage
