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02_シェイクスピア『ハムレット』解釈:クローディアスが黙劇に反応しないのはなぜか?

Q. クローディアスが黙劇に反応しないのはなぜか?
シェイクスピアの『ハムレット』では、現王クローディアスが、先王だった兄を殺害して王座を奪います。そのことを知った先王の息子ハムレットは、叔父クローディアスの罪を暴くために、旅役者にクローディアスの前で先王殺害に似た場面を演じさせます。
 
はじめは声のない黙劇(マイム)で、次に、まったく同じ内容がセリフ付きの芝居で演じられるのですが、クローディアスは、黙劇を見ている時には無反応。ところが、セリフ付きの芝居がはじまると、それが、自分が罪を犯した場面だということに気づいて激怒し、席を立つ。クローディアスが黙劇には反応せず、セリフ付きの芝居で怒るのはなぜなのかというのが、『ハムレット』のひとつの謎になっています。
 
黙劇を見ている段階では、それが自分の罪を告発するものだとは気づかなかったけれど、セリフ付きで演じられたらそのことに気づいたのでしょうか。あるいは、黙劇を見ているときから気づいていたけれど、反応したら負けだと思って我慢していた。けれど、セリフ付きで演じられて、我慢ならなくなったのでしょうか。
 
さまざまな解釈が可能なこの場面について、私なりの考察をまとめます。本稿の解釈はこう。
A. ハムレットとクローディアスは、同じ場にいながら、別のものを見て、別の音を聴いている。そんなパラレルワールドが表現されているのでは。
以下に理由を述べます。




シェイクスピア『ハムレット』読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。

1 光と闇のパラレルワールド

1-1 夜明けを告げる雄鶏

『ハムレット』の冒頭、門番たちは先王の亡霊を目撃し、夜が明けて亡霊が去ると次のようにいいます。

鶏が鳴いた(中略)
雄鶏は夜明けを告げるラッパ手だ(19)

救い主の誕生を祝う季節になると
夜明けを告げるあの鳥が一晩じゅう鳴きつづけ、
もののけはまったく出てこないそうだ(20)

『ハムレット』ちくま文庫

鶏が鳴いている間は光に満たされた明るい時間。鶏が鳴かないときは闇に包まれた暗い時間。光と闇という視覚的な対比が、雄鶏の鳴き声という聴覚的な対比と重ねて語られています。光が射している昼間には亡霊(もののけ)は見えない、闇に包まれる夜には亡霊が現れるともいえますね。
 
この後の場面で、現王で義父のクローディアスは「太陽の光 sun」、王子ハムレットは「暗い雲に閉ざされている」「夜の暗さ」(26)と表現されます。光と闇の対比が、クローディアスとハムレットの対比とパラレルになります。

1-2 光の世界のクローディアス

密かに兄を殺して王座をのっとり、ガートルードを妃にしたクローディアスにとっては、太陽が沈んだ時間さえも眩い光に満ち満ちた幸福の絶頂。「王が乾杯するごとに雲に向かって祝砲を撃つのだ。/歓呼の声は天にこだまし、/地上の雷鳴に答えるだろう」(29)と命じて、華麗なファンファーレと大砲の音を轟かせ、徹夜で祝宴を張って「王が葡萄酒を飲み干すごとに/ああやって太鼓やラッパではやし立て」(49)させています。まさに夜通し鶏が鳴きつづけている状態ですね。

1-3 闇の世界のハムレット

対するハムレットは、戯曲の序盤から憂鬱症にとりつかれ、自殺願望を口にするほど暗い気分に沈み込んで、夜通し騒ぎ立てて祝うような「しきたりは/守るより破るほうが名誉だと思う」(49)と苦々しく言い放ちます。父王が亡くなって叔父が王となり、母が叔父と結婚してしまった今の世界は、王子ハムレットにとって一日中闇の中にいるのと同じ。そんな精神状態が、暗い喪服を脱がないという態度でも示されています。
 
「この体、いっそ溶けて/崩れ、露になってしまえばいい/せめて全能の神の厳しいおきてが/自殺を禁じていなければ。ああ、神よ、神よ!」(29)「命など針ほども惜しくはない」(53)というハムレットは、実父の死の真相を知らされる前からすでに死にたがっている。此岸にいながら、彼岸に引き寄せられつつあるといえるでしょう。

1-4 光と闇

『ハムレット』には、現王クローディアスや王妃ガートルードがいる光の世界=現実世界と、息子ハムレットがいる闇の世界=彼岸世界のパラレルワールドが描かれていると私は思うんですね。その人が光の世界にいるか、闇の世界にいるかは、実際に太陽が出ているか沈んでいるかとは関係がない。太陽が沈んでいても、その人の心の中で鶏が鳴いていればその人はずっと光の世界にいて、太陽が出ていても、その人の心の中で鶏が鳴いていなければその人は一日中闇の世界にいる。そんな世界観が表現されているのではないでしょうか。

1-5 地獄にいるハムレット

序盤から喪服をまとい、自殺願望を口にしていたハムレットは、先王の亡霊と会ったあと、「この世の関節がはずれてしまった」(68)という有名なセリフをいいます。これは、世界の秩序が崩れ、此岸と彼岸の間にある境界線が壊れて、現実世界が地獄と化すこと。亡霊の姿を見て声を聴いたハムレットはすでに、現実世界から離れて彼岸世界に足を踏み入れつつある。この時点から、ハムレットは本格的に闇の世界へ入り込んでいるように思えます。クローディアスや王妃らと同じ宮廷で生活しながら、ハムレットだけが精神的な地獄にいるわけですね。
 
父の命を奪った相手に復讐しようとするのは、当時の騎士道精神としては当然のこと。だけれど、いくらクローディアスが悪人だとしても、人を殺すのは倫理的・宗教的には罪。罪を犯すことを考えなければならない、という状況自体がすでに苦しい。復讐すべきか否かを真剣に悩み始めたとき、ハムレットの精神はすでに半分、地獄へ堕ちているのではないでしょうか。
 
ハムレットは実父の亡霊と会った後、真っ青な顔をして、恋人オフィーリアのもとを訪ねます。オフィーリアはそのときのハムレットの様子を「まるで地獄の恐ろしさを告げるため、/そこから抜け出していらしたばかりというよう」(75)だったと語っていますね。
 
ハムレットに見えているのは、「地獄の口があんぐり口をあけ」(37)「墓という墓は空になり、経帷子を纏った死人の群れが/金切り声を挙げてローマの街をうろついた」(17)「墓が重い大理石の口を開け、/再び死者を地上に吐き出したのか?」(51)「魔力が働く丑三つ時だ。墓はあんぐり口を開け、地獄は毒気を/地上に吐き出す」(153)と表現される、亡霊たちが彷徨う闇の世界。現実にいながら、ひとり地獄を彷徨っているのだと思うのです。

2 闇の中で見えるもの

2-1 見せかけを超えたもの

父王の亡霊に会う前から憂鬱で、闇の世界にいるハムレットは、「父上の姿が見えるようだ」といい、ホレイショーが「殿下、どこに?」と問うのに、ハムレットは「心の目にだ、ホレイショー」(33)と答えます。
 
また、このシーンの前にも、ハムレットは母に向かって以下のように訴えています。

見えるですって、母上? いや、事実です。
「見える」ことなど知るものか(26)

ありとあらゆる悲しみの姿、形、表情も
僕の気持ちをそのまま表してはいない。そういうものはなるほど目に見える。
人間が演じる演技だからです。
だが僕のなかには見せかけを超えたものがある。
目に見えるこうしたしぐさは悲しみの飾り、衣装にすぎません(27)

目に見えるものごとに惑わされず、その奥にある目には見えない世界に目を凝らせ。表層的なことがらではなく、深層にこそ真実がある。これは、シェイクスピア作品にしばしば出てくる考え方ですね。『リア王』でグロスターが盲目になったあと、彼を鏡像とするリアが大切なことに気づいていくのと同じです。
 
対するクローディアスはハムレットに、「私の目の喜びと慰めになってくれ」(28)と語りかけ、両者のすれ違いが強調されます。同じ世界にいながら、ハムレットは目には見えない世界、闇に向かって目を凝らせと訴えるのに対し、クローディアスは自分が王となり、王子の義父となった現実、光の世界に酔いしれている。同じ場にいながら、まるでパラレルワールドにいるかのように、彼らは別々のものを見ています。

2-2 目の助けなしに

亡霊に会った直後のハムレットの様子を、オフィーリアは「目がなくても道は分かるとでもいうように、/目の助けなしに出ていかれた」(76)と回想します。ハムレットは、現実にいながら精神的に地獄へ堕ちてしまっているので、その目はもうこの世のものではなく、別の世界を見ているんですね(サリンジャーの「バナナフィッシュ」でシーモアが水着の色を見間違えるのもこれと同じだと思う、下記参考)。

以下は、先王の亡霊に対してハムレットがいう言葉。

いいぞ、モグラ先生。地下でも素早く動けるんだな?
大した坑夫だ!
Well said, old mole! Canst work i’ the earth so fast?
A worthy pioneer!

(66)

これが、闇に葬られたクローディアスの悪事や、もの蔭に隠れて聞き耳を立てるポローニアスに対していわれる「鼠」という表現とも響きあい、光の当たらない、闇の世界で動き回る不気味な者の存在を感じさせる。後半の墓掘りとの対話の場面では、光に照らされた此岸世界の影に、闇に包まれた彼岸世界が存在していること、ハムレットがすでにそこにいることが暗示されているようにも思えます。

2-3 見えていないのはどちらなのか?

ハムレットは、人格者だった先王と、欲にまみれて罪を犯しながら平然としている現王との違いが分からない王妃に向かって「目がないんですか?」と二度(166・167)繰り返し、たとえ見えていても「その感覚は麻痺している」「悪魔にたぶらかされ/目隠しされたのですか?/触れる手がなくても目があれば、目がなくても手があれば、/手や目がなくても耳があれば、何もなくても鼻があれば、/いや、病んだ感覚のひとかけらでもあれば、/これほど血迷うわけがない」(167)といって非難します。

さらに、父の亡霊が見えない母に向かってハムレットは「何も見えないのですか?」「何も聴こえなかったのですか?」と繰り返す。王妃はこれに、「みんなお前の妄想です。/狂気はありもしないものを巧みに作り出す」(171)と答える。こうして、亡霊が見える闇の世界にいる息子ハムレットと、亡霊が見えない光の世界にいる王妃の対比があらわになるんですね。王妃に向かって「目がないんですか?」と言い放つハムレットの方が、目には見えない世界の方に目を凝らしているという、逆転した状況が描かれている。
 
これが、「頭の空っぽな民衆」は「目だけで好き嫌いを決める」(183)という言葉や、狂った妹を見た兄レアティーズがいう「熱で俺の脳髄を干からびさせろ。涙の塩で/この眼をただれさせ、見えなくしてくれ」(205)というセリフとも響きあいながら、表面的な物事を見ることと、目には見えない深層を見つめようとすることの対比が、光の世界にいるクローディアスやガートルードらと、闇の世界にいるハムレットという対比と重ねて語られているのではないでしょうか。

3 黙劇に反応しない理由

3-1 音のパラレルワールド

最初に引用した雄鶏の鳴き声のように、また、亡霊が見えない、亡霊の声が聞こえない母に向かって、ハムレットが「何も見えないのですか?」「何も聴こえなかったのですか?」と言っているように、光と闇のパラレルワールドは〈視覚〉だけでなく〈聴覚〉でも表現されています。『ハムレット』では、〈聴覚〉や〈耳〉がひとつの重要なモチーフであることは前回(上記リンク)みたとおり。
 
戯曲のはじめには、クローディアスの即位と結婚を祝って祝砲が鳴らされ、最後にハムレットらが死ぬ場面では、弔砲が鳴らされて幕を閉じる。ハムレットの最後の言葉は「あとは沈黙」(267)。弔砲は「聴く方の耳にはもはや届かない」(269)と語られることで、此岸・生者の世界と彼岸・死者の世界の、聴覚のパラレルワールドが示されます。
 
墓掘りの場面での、ハムレット「誰の墓だ?」墓掘り「あっしのでさあ」「嘘つけ、そうやって中に入ってお前のだと言ってるじゃないか。そこに入るのは死んだ人間だ、生きてる奴は入らない」(232)というやり取りや、道化ヨリックのしゃれこうべについて、ハムレットが「俺が何度となくキスした唇」「歯をむきだしたこの面を自分でからかう言葉も出ないのか?」(235)というセリフにも、生きている者は喋る、死んでいる者は喋らない、という対比が示されていますね。おそらく、生きている間は巧みな言葉遊びで先王らの負の側面を笑い飛ばしてきたであろうヨリックの口は、先王が落下した地獄の口のイメージとも結びついているのでしょう。
 
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、ブルータスらがシーザー暗殺を狙って議事堂へ向かっているのと同じ時刻に、自宅にいる妻ポーシャが、小姓ルーシアスと以下のような会話をします。

ポーシャ あの騒ぎはなに?
ルーシアス 何も聞こえません、奥様。
ポーシャ ほら、よく聞いて。
あの騒がしさ、まるで暴動でも起きたよう、
風に乗って、議事堂のほうから。
ルーシアス 本当に、奥様、何も聞こえません。

(86)

ここでは、ブルータスと夫婦で一心同体のポーシャもまた、夫と一緒に心の半分が狂気の世界に入り込んでしまっている。そして、現実世界にいるルーシアスには聞こえない暴動の音が聴こえていることが、表現されているのではないでしょうか。此岸(正気の世界)にいる者には聞こえない音が、彼岸(狂気の世界)にいる者には聞こえる、此岸と彼岸では別の音が響いているという発想が、シェイクスピア作品にはある。『ハムレット』では、彼岸が沈黙の世界として描かれているのだと思うのです。

3-2 黙劇の謎

ハムレットは、先王殺しの犯人がクローディアスかどうかを確かめるため、自ら台本を書いて旅役者たちに先王殺害の場面を演じさせます。はじめに〈黙劇〉と呼ばれるセリフのない芝居が演じられ、続いて、同じ内容がセリフ付きの芝居でもう一度演じられるという二段階の構成(137)。
 
演じられる内容はまったく同じであるにも関わらず、クローディアスは、黙劇では何の反応も示しません。しかし、セリフ付きの芝居で自分が殺人を犯した場面だと気づくと激怒し、途中で席を立ってしまいます。この謎に対する本稿の解釈はもうお分かりですよね。

3-3 同じ場にいても

『ハムレット』では、〈視覚〉と〈聴覚〉を使ったパラレルワールドが描かれている。同じ場にいたとしても、ハムレットに見えている世界、聞こえている音と、クローディアスやガートルードらに見えている世界、聞こえている音は異なっている。
 
黙劇で演じられている内容は、闇の世界にいて亡霊が見えるハムレットには理解できるけれど、光の世界にいて亡霊が見えないクローディアスやガートルードには理解ができない。ということを、シェイクスピアはここで表現したかったのではないか、と私は思うんですね。
 
『ハムレット』のこの場面で、黙劇が普通の感覚では理解しにくい状態で演じられていることは、この時点ではまだ正気のオフィーリアが「殿下、いまのはどういうことでしょう?」(138)ということで示されています。ハムレットの最後の言葉「あとは沈黙」にあるとおり、黙劇・沈黙の世界は冥界や地獄につながっており、そちら側にいるハムレットにしかわからない。それはハムレットが狂気におちいって、死に引き寄せられていることを示してもいます。
 
罪を犯した張本人で、事の次第を知っているクローディアスには理解できそうだけれど、光の世界しか見ようとせず、闇の世界(己の罪)に目を凝らそうとしない現王にはやはり伝わらない。夜でも無神経に大砲を鳴らし、闇をも光で照らそうとするクローディアスには、沈黙のなかで行われる芝居の真意は分からない。それが、クローディアスが黙劇に反応しない理由ではないでしょうか。
 
黙劇の後、セリフ付きで演じられた芝居は、此岸の領域に属するもの。これは、クローディアスにも理解できる。それで激怒して席を立つ。そんな姿が描かれているのではないでしょうか。

3-4 音のない世界へ

この聴覚のパラレルワールドが、黙劇の中で演じられる耳に毒を注ぎ込むという奇妙な殺人の方法とも響きあう。これについては前回考察したとおり。先王は耳に毒を流し込まれ、聴覚を封じられて現世の音は聞こえない黄泉の国へいった。ハムレットをはじめ、この戯曲で命を落とす者たちはみな、同じ世界へ行くことになる。
 
現世の向こう側には、この世の世俗的な価値観を超越した黄泉の国があるのだという考え方。『お気に召すまま』で「この世界すべてが一つの舞台、/人はみな男も女も役者にすぎない」(84)と語られるように、現世はかりそめの舞台にすぎず、死後の世界あるいは生まれる前にいた場所こそが真実の世界であるというような、神話的なパラレルワールドの感覚が、今回の読解の鍵だと思うのです。

3-5 夜が昼につづくように

『ハムレット』には、世界は光に満ちていればいいというわけではないとも記されています。国民たちの迷惑も顧みず、夜通し祝砲を鳴らして、闇さえ光の世界へ力づくで変えていこうとするクローディアスの強引さもまた、兄を殺してまで王になろうとするような自然の摂理に反する罪深い行為につながるものとして否定されている。ポローニアスによる下記の言葉で示されるように、夜と昼が等しく訪れる世界こそが理想。

何よりも肝心なのは、己に誠実であること。
そうすれば、夜が昼につづくように
誰に対しても誠実にならざるをえない。

(44)

光の世界にいたクローディアスと、闇の世界にいたハムレットが、ともに死んで混沌へ還ることで、相反するものごとがひとつになってこの物語は終わります。
 
AIに訊いた限りでは、シェイクスピアの時代に黙劇のような演出はときに用いられることはあったけれど、少々時代遅れに感じられるものだったのではないか、とのこと。「芝居が目指すのは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡をかかげ、美徳にも不徳にもそれぞれのありのままの姿を示し、時代の実体をくっきりと映し出すことだ」(129)という言葉も、この戯曲の有名なセリフ。
 
黙劇とセリフのある芝居の二重性が、作中の現実と虚構(劇中劇)、此岸と彼岸、正気と狂気、引き裂かれたハムレットの心と響きあい、揺らぎながら、観る者に目には見えない世界に目をこらせ、耳には聞こえない音に耳をすませと促す。そんな仕掛けのひとつとして、黙劇の場面があると読んでみるのも面白いのではないでしょうか。
 
 
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。


今回考察したパラレルワールドの表現は、サリンジャー読解のヒントにもなります。下記もぜひご覧ください。


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