06_髪のよごれが強調されるのはなぜか?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察
Q. Xの髪のよごれが強調されるのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の後半で、Xは髪を「病院に二週間入院していた間に、三、四回洗ったのだけれど」「もどって来る間にまたよごれてしまった」(162)と書かれています。表面的には埃っぽい道を通ったせいでよごれたわけですが、ここには退院してもなお彼を苦しめ続けるZの影がちらついている。いったいどういうことでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 内面の汚れ Squalor は、簡単には浄化され得ないから。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。
1 ベイブをたたき割る斧
「エズメ」に登場する〈斧〉が、前半の語り手〈私〉をX(善)とZ(悪)にたたき割る道具であり、そこにはドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが重ねられているのではという考察を、[01_後半で人称が変わるのはなぜか?](上記リンク)で述べました。
サリンジャーが戦争へ行く直前に書いたといわれる短編「最後の休暇の最後の日」でも、冒頭で『カラマーゾフの兄弟』について触れられます。この作品のなかで、第二次世界大戦への出征を間近に控えたヴィンセントは、「いまは、銃撃戦に飛び込んでいって殺し合いをしたくてしょうがない」(54)といい、ベイブは「もちろんこの戦いは正しいと信じているんだ。もしそうでなかったら、良心的兵役拒否をして、戦争が終るまで収容所で斧で木を切ったりしているよ」(57)といいます。
この作品でサリンジャーは、自分の実際の認識番号を主人公ベイブのものとして記載し、自身に重ねています。さらに、ベイブの友人ヴィンセントは、小説を書いているという点でサリンジャーと重なり、俳優の息子という設定、おどけた口調や滑稽な振舞いは彼が道化であることを示すもの。道化は主人の影・分身だから、同作でベイブはサリンジャーであり、ヴィンセントはその影・分身。よって、ベイブとヴィンセントのセリフはサリンジャーの心情として読んでいいはず。
サリンジャーはここで、出征を間近にひかえ、自国の大切な人々の命や生活を守るという大義名分、正義感を信じて戦地へ向かおうとする自分を鼓舞しつつ、本当にそれが正しいことなのかわからなくなっている、善と悪にたたき割られた精神状態を「斧」や「地獄」(56)という言葉をつかって表現しています。そこには、やはり『罪と罰』のラスコーリニコフというキャラクターが念頭にあったのかもしれません。
2 過去との対決
「最後の休暇」執筆後、サリンジャーは、実際に第二次世界大戦へ出征し、戦地の悲惨な光景を目の当たりにします。そこで精神を病み、ドイツでの入院を経て帰国。その後、戦前に現れていた「斧」や「地獄」のモチーフを使って、それがいかに地獄であるか、精神が斧でたたき割られるとはどういうことなのかを改めて語り直そうとしたのが「エズメ」という作品なんですね。
サリンジャーもまた、「最後の休暇」のベイブと同じように、伍長を経て曹長から二等軍曹へ昇進したはず。「エズメ」のZ伍長は、実際に戦地へ行って地獄のような経験する前の過去の自分。「最後の休暇」でヴィンセントが語る「殺し合いをしたくてしょうがない」という感情を持っていた頃の自分。曹長のXは激しい戦闘を体験し、強制収容所の惨状を目の当たりにして精神を病んだ後の作家自身の姿を表現しているのではないでしょうか。
語り手=X=サリンジャーが最も斧で切り捨てたいもの、強制収容所の記憶と同じくらいおぞましいものとは、Zであった頃の、過去の自分。「エズメ」は、戦前・戦中の浅はかで、猫を殺しかねないほど(170)狂気的だった自分との対決の物語なのかもしれません。
過去の自分・もう一人の自分・分身にとらわれて、呑み込まれてしまうことを恐怖するという意味では「バナナフィッシュ」のナルキッソスと同じ。恋(愛)と憎しみは表裏一体。過去に、「エズメ」の語り手〈私〉=Xとシーモアが同一人物かどうかを検証した論考があったようですが、個人的にはどちらも作者サリンジャーの戦後の生々しい精神状態が投影されたキャラクターであるという意味で同一人物だと思います。
3 ラスコーリニコフ自身を殺す斧
ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは、正義のために、強欲な悪の象徴である老女を斧で殺しました。亀山郁夫氏は、ラスコーリニコフという名前には「たたき割る男、たたき割られた男」という意味があると語っています。これが善と悪に分裂した精神性の表現になっているんですね。
ラスコーリニコフは、老女殺しを目撃されたことから、純粋で神聖な女性である老女の義妹も殺してしまいます。そして後に、自分は老女と同時に「自分を殺したんだ」と気づくのだと、亀山氏はいいます(『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー 五大長編を解読する』亀山郁夫、NHK出版)。
ラスコーリニコフは、悪を憎み、悪の象徴であった老女を殺した。しかし同時に、純粋で神聖な女性をも殺すことになってしまった。それは翻って、彼自身の中にある悪を切り捨てようとしたら、同時に自分の中の純粋なもの、聖なるものをも殺してしまうことだったわけです。
自らの内にある悪だけを都合よく切り捨てて、純粋な善に生まれ変わることなど、そうそうたやすくできるものではない。自分の中に未だ存在する悪や汚れなどの負の性質を認め、受け入れたとき、ラスコーリニコフに本当の再生がやってきます。
4 白い衣をまとった黒い司祭
単純に言ってしまえば、「エズメ」後半のXは善、Zは悪。けれど重要なのは、サリンジャーは二項対立における善・イノセンス・聖なるものといった肯定的な面だけを称揚する作家ではないということ。むしろ、デビュー作「若者たち」からグラス家サーガまで、一貫して誰もが持っている悪や汚れ、弱さといった負の面をいかに自分の内に包摂して成長していくかを書き続けた人だと、私は思う。
最も有名な『キャッチャー』が、幼い子どもたちのイノセンスを讃え、大人社会のインチキぶりを批判する口ぶりが印象に残る作品なため、誤解されがちな部分だと思うのですが、サリンジャー作品を通して読めば、自分の中の負の面といかに向き合うかに重きが置かれていることは明らか。
例えば、「ズーイ」で兄は妹に、イエス・キリストが「シナゴーグに入っていって、そこら中のテーブルやら偶像やらをひっくり返してまわった」エピソードを挙げて、そんな粗暴さを理解したうえでなお、イエス・キリストに対して祈るべきだと諭す(236-245)。「シーモア-序章-」では、ほとんど神さまのような人物として語られるシーモアの「首筋はほんとうに汚れていた」(249)と語られるなど、聖性が高まるほど、内面にはそれと同じくらいひどい汚れを抱えていることが繰り返し強調されています。
「エズメ」に描かれた白と黒の意味については下記で考察しました。
河合隼雄氏は、ユングが書き記している「白い衣をまとった黒い司祭」の夢、白と黒が融合した聖者のイメージを例に挙げ、白と黒、善悪は絡み合って相互作用を示すものであり、白は白ゆえに黒を生み、黒の中にこそ白が見出されるのであり、切り離すことができない。白と黒はしばしば同一視され、または混合した状態で現れる、と述べています(『影の現象学』河合隼雄、講談社学術文庫、1987年)。
「エズメ」後半のX=善=白は、自分の中にあるZ=悪=黒に苦しめられている。それを切り離し、忘れ去ってしまうことができれば楽になれるのでしょう。けれど、それは簡単なことではない。Zもまた自分の一部。それを斧で断ち切ろうとすれば、ラスコーリニコフのように自分の善い部分、聖なる部分をも殺してしまうことになりかねない。X=善は、Z=悪に嫌悪を感じながらも、向き合って闘い、制御し包摂することで傷を癒しながら、成長していくしかないのだと思うのです。
5 罪をとおしての浄化
亀山氏は、『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老が、自らが過去に犯した罪と回心の記憶を心にとどめた「罪をとおしての浄化」という教えを説いていると説明しています(文献同上)。
「エズメ」でゾシマ長老の言葉を引用するXは、Zをとおして自分が犯した罪や、心の内にある汚れを告白し、浄化されることを望んでいるのではないでしょうか。
そこにある罪や汚れが具体的にどんなものだったのかは誰にもわかりません。ヴィンセントがいう「いまは、銃撃戦に飛び込んでいって殺し合いをしたくてしょうがない」(54)という気持ちのことなのか。Zのように、狂気や傲慢さから猫の無垢な命を踏みにじるような事実があったのか。あるいはそれは、想像の中で行われた何かなのでしょうか。
読者としては、作家が犯した罪に思いを巡らせるよりも、自分の内面を顧みざるを得ないところですね。以下の言葉とともに。
いつでも、公然と告白する人間から聞くべきものは、彼が告白していないことなのだ。(中略)勇気のある告白それ自体は、当人がペットのハムスターに腹を立てて、その頭を踏みつけたことがあったかどうかを探りだせるということを保証するものではない。
首吊りから救ってくれるほとんど唯一のものは、罪とは知識の不完全な形だということである
ぼくの罪もここでは最良の、本当の目的にかなうだろう
6 髪の汚れ
「バナナフィッシュ」読解でも書きましたが、サリンジャー作品では、髪に精神状態が現れます。「エズメ」に、Xは髪を「病院に二週間入院していた間に、三、四回洗ったのだけれど」「もどって来る間にまたよごれてしまった」(162)と書かれているのは、三、四回の、精神分析的な心理療法やそれに類する治療によって、Xの中に潜むZ的な汚れを排除しようと試みたけれど、退院するとそれが無駄だったことが分かった、という意味でしょうか。ここにも自分の内面を浄化したいと願いながら、簡単には浄化できない葛藤のようなものが現れているように思います。
「ズーイ」にある、シーモアが弟・妹たちから誕生日にかゆみ粉をプレゼントされる(262)というエピソードについて、普段は高い知性や良識を持った、善良な人物であるかのように振舞っているシーモアも、内面には負の要素を隠している。兄弟たちはそれを見抜いているからこそ、彼に〈かゆみ粉〉を贈るのではないかと[02_両手に提げた七面鳥とは?](上記リンク)で述べました。
私は、ここにも同じことが書かれていると思うんですね。他ならぬ家族が、シーモアの誕生日に彼の内面にある負の要素を暴いてからかうことは、彼の汚れや弱さを積極的に認めて、受け入れようとする行為ではないでしょうか。負の要素を排除するのではなく、キャッチャーとなって抱きしめることが、救済と癒しへの道だというのもまた、神話の教えのひとつであり、シェイクスピア作品にも、サリンジャー作品にも何度も描かれているテーマ。
「エズメ」で、エズメがXに贈る小包の、緑色の包み紙は、Xだけを包むためのものではなく、XとZを一緒に包み込んで統合するためのもの。タイトルに示されている「Love」とは、善も悪も、正も負も、すべてを包み込もうとする態度のことなのだと思う。(この解釈、傷やトラウマを愛そう、という最近よく聞く言葉に引っ張られている感は否めませんが……、神話はずっとこれを語ってきたということですね)
7 町で一番ずぶ濡れの一角
神話では、大地が象徴する精神の汚れは、雨・水・洪水によって浄化されます。サリンジャーがこれに倣い、『キャッチャー』の最後にホールデンの上に雨を降らせ、「バナナフィッシュ」ではシーモアに海に入らせていることは、各作品読解で見たとおり。
「エズメ」の前半で、エズメやチャールズと出会い、言葉を交わしたのが「横なぐりに降りしきるわびしい雨」(139)の日で、「稲妻の閃光」(149)がおこる「町で一番ずぶ濡れになっている一角」(柴_149)だと強調されるのは、戦争であらわになった自分の中の醜い感情や汚れ、彼を精神分裂やPTSDに追い込む恐ろしい記憶を浄化したいという強い思いが込められているからでしょう。
エズメが二度にわたり「ぐしょぬれになった頭の天辺を掌でそっとさわってみた」(146・158)のは、洗礼の儀式を思わせます。二回なのは、浄化がたやすくはいかないことの現れでしょうか。
これが後半の、Zの髪の毛から「水の余りが滴り落ちている」(166)という表現につながり、埃で汚れたXの髪の汚れが、悪を体現するZの髪をとおして浄化されるイメージができあがる。ここにもXとZが同一人物であることがさりげなく描きこまれているように思います。
8 耐水性に秀れた腕時計
後半の終わりに、エズメから贈られた時計が「耐水性」に秀れていると語られるのは、神話の英雄がくぐり抜けなければならない洪水の試練に耐えるため。浄化され、再生した暁には、心身ともに「あらゆるキ・ノ・ウ all his f-a-c-u-l-t-i-e-s」(176)が健やかに時を刻めるようにという願いが込められているのでしょう。
何度か書いていますが、サリンジャー作品において、精神が分裂した主人公は常に漁夫王・漁師・船乗りであり、水死をくぐりぬけて再生すべき者。大雨の日に、精神を病みつつある語り手にとって、エズメがはめている腕時計が、「航海に用いる時計記録計に見えた」(柴田訳_155)のは、その時計が漁師である語り手を、正しい再生の岸辺へと導くのに有効なアイテムだからではないでしょうか。
前半で、「小鳥ちゃんだって、あのきれいな歌を歌うときには、小ちゃなお口を、大きく大きく大きくあけて歌うでしょう?」(141)「わたしの食べ方って、小鳥みたいなんです。」(146)と、エズメに鳥のイメージが付与されているのは、ひとつには、エズメにノアの箱舟の神話で、洪水が引くのを知らせるオリーヴの枝をくわえて吉報を知らせにくる鳩を重ねているからかもしれません。
9 紐が燃えきるまで
神話では、洪水・雨・水と並んで、炎で燃やすことも浄化。Xが「マッチで火を点けて紐を燃やして開けた。小包を開けるより紐が燃えきるのを見る方が興味があった」(182)と述べているのは、炎により、自らの汚れた部分=Zを浄化しようとする行為ではないでしょうか。
「エズメ」のXが「ここ何週間というもの」「煙草の吸いづめであった」(162)ことにも同じ意味を読み込んでもいいかもしれません。「大工よ」「シーモア-序章-」などに書かれた煙草の意味も同様に読めます。
また、ジョーゼフ・キャンベルは、クジラの腹で火を熾すことは、聖婚の意味があると述べています(G)。ユングのいう聖婚は分裂した精神を統合すること。紐を燃やすのには、XとZの統合の意味もあるかもしれません。
Zは、猫を撃った話を新米の「バーンスタインBernstein」(170)に話していたのだといいますね。スペルは違いますが、これは〈burn stain〉内なるしみ=汚辱を燃やすことを意味しているのではないでしょうか。サリンジャー作品で、内なる汚れが〈しみ〉として表現されることは「バナナフィッシュ」読解で示したとおり。
猫(や鳥などの小動物)を殺した記憶、あるいは仲間が猫らに銃を向けることを見過ごした過去は、Zにとっては自慢話でも、Xにとっては罪悪感や恥の記憶。新米兵士に自らの汚れを打ち明けることは、作家サリンジャーが「エズメ」という短編に自らの汚辱を書き込むこととも重なります。ここには、罪の告白によって、過去の汚れを浄化したいという思いが込められているのかもしれません。
また、「ズーイ」では、ズーイがマリオネットのような動きをする場面がありますね。息子が象徴的父=天の神の糸につながれて、操り人形として動くイメージは、シェイクスピア作品にもみられるもの(この詳細は別途まとめます)。これをあてはめるなら、「エズメ」では、紐を燃やすことで、象徴的父のもとで内面化した価値観に操られるように行動してきた自分、特に戦争へ行って勝利のために戦うべきだという考えに従った過去の自分、を縛る糸を断ち切りたいという思いが込められているように思います。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

