21_救世〈手〉_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』考察
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】5 神格化
Q.21-1 アリーのミットに詩が書かれているのはなぜか?
キャンベルは、英雄の神格化の説明として、観世音菩薩を挙げている。観世音菩薩は、チベット、中国、日本の大乗仏教で愛されている、多くの祈りを受け入れ、人を救済する神様。「二本の腕がある人間の姿で現れることもあれば、四本、六本、十二本、一〇〇〇本の腕を持つ超人的な姿で現れることもある」「手のひらは五〇〇もの蓮華の花の色が混じり、指先にはそれぞれ八万四〇〇〇の印相があり、印相のひとつひとつが八万四〇〇〇色で彩られる。どの色からも、存在するものすべてを柔らかく穏やかに照らす八万四〇〇〇の光を発している。このような宝物のような手で、菩薩はあらゆる存在を引き寄せ抱きしめる」(G_223-226)と説明している。
神話において、英雄=未熟な若者が神格化される象徴は、〈手〉として現れる。これはそのまま、ライ麦畑から落下しそうな子どもたちをキャッチする者、精神的に荒廃しつつある誰かに手を差し伸べることができる者になりたいと望むホールデンに重なるだろう。
キリスト教では、イエスが波に沈むペテロに手を差し出しているイメージや、洗礼を受けるイエスの上に神の〈手〉が描かれるイメージもある。〈手〉は古今東西の宗教神話において、救済を象徴するモチーフであり、だからこそ、ホールデンはそれになりたいと望む。
「弟のアリーは左利き野手用のミットを持っていた。つまり弟は左利きだったんだよ」「その指の部分や、腹の部分やら、とにかくいたるところに詩を書きこんでいたからなんだ。緑のインクでね」(67)と記されるのは、アリーがキャッチャーの資格を持つ人物だったことの表現だ。左利き用ということは、グローブは右手用。これはキリスト教絵画の〈神の右手〉を表すものではないだろうか。また、〈詩〉=すぐれた芸術作品は、彼岸・無意識の領域に属するもの(詳細後述)。そこは死者の世界ともつながっているから、すでに亡くなっているアリーは、彼岸の文脈で真実を見極め、落下しそうな人をキャッチすることができる人。これは、[08_毛布・コート・包帯]で確認した、「序章」で語られる、シーモアが初対面の人のコートを見分けられるという資質とも近い(下記参照)。
また、緑は三位一体における精霊、錬金術なら賢者の石を示す色。相反する二極のものを統合する、第三のアイテムを象徴する色彩(詳細後述)。アリーのミットは、二項対立に揺らぎ、精神を荒廃させた者をキャッチし、分裂した精神を統合して、豊穣の大地へ導くもの。荒廃した冬の大地に春が訪れ、植物が芽吹く、緑はその色でもある。
キャッチャーの資質を持つアリーに対し、ホールデンは、コートと一緒に手袋を盗まれ(10)、右手の怪我のせいで、拳を固く握りしめることができない(77)ことで、現時点では、キャッチャーの資質がない者。ホールデンもそれをわかっているからこそ、「自分の手袋と臆病さについて考え」(154)る。
Q.21-2 ホールデンが『ベオウルフ』について語るのはなぜか?
ホールデンは、スペンサー先生宅で、『ベオウルフ』は前に通っていた学校でもう済ませていたから、英語は落第点ではなかったと説明する(21)。さらに、二人の尼さんに会ったときには、最近読んだ古典として、「『ベオウルフ』、グレンデルのやつ」(187)を挙げる。
『ベオウルフ』はサリンジャーの初期短編「ヴァリオニ兄弟」でも描かれているモチーフ。イギリスに伝わる古い文学作品で、第一部と第二部に分かれている。第一部では、勇者ベオウルフが、怪物グレンデルと戦い、片腕をもぎ取って勝利する。第二部では、ベオウルフは王になり、新たな敵として竜が現れ、ベオウルフは竜も倒すが自分も致命傷を負い、死んで墓に葬られる(参考:Wikipedia)。
第一部では、片腕をもぎ取られた怪物グレンデルが、怪我のせいで拳を握れず、手袋を盗まれ、キャッチャーになりたいのにその資質がないホールデンに重なる。だからホールデンは尼さんに、わざわざ「グレンデルのやつ」というのだろう。
第二部では、反対に、新たな敵である竜と戦うベオウルフがホールデンと重なる。神話における竜は、象徴的父親や内なる敵(もう一人の自分)の象徴。ホールデンの中にある、インチキな大人社会の価値観に翻弄されてしまう弱く未熟な性質の象徴と考えれば分かりやすいだろうか。ホールデンは、子どもから大人へ成長する途上で、社会的名誉や金銭的な成功のために働く弁護士の父や兄DBのような価値観と戦い、自分の中にある弱さを克服して、理想の大人像をつかみ取ろうとする。このホールデンの戦いを、作者は、ベオウルフと竜との戦いに重ねて表現しようとしたのではないだろうか。
ホールデンは、現時点では、自分が片腕をもぎとられた怪物グレンデルのようにキャッチャーの資格がない未熟者で、精神的に豊かな理想の大人へと成長するためには、竜=象徴的な父=所与の価値観と戦わなければならないことを理解している。そのために、英雄として試練を乗り越えなければならないことを知っている。『ベオウルフ』は勉強済みで、「英語は落第点ではなかった」ことはそのことの証。だからこそ、ホールデンはスペンサー先生に「僕のことはどうか心配なさらないでください」「今はひとつの段階を通過しているだけです。人は誰しも、段階をくぐり抜けるもんじゃないですか」(29)と語る。ホールデンは、自分が今、神話の英雄のように、大人になるためのイニシエーションの試練に立ち向かっている最中であることを自覚し、自分なりにこれを乗り越えようとしているのだ。
初期短編「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」で、雨から「腕を引っ込める」(82)と繰り返し書かれること、「エスキモー」でウォルトが電車の窓から腕を出さなきゃと冗談をいうシーンも、ここから読み解きができるだろう(続きは各作品読解にて)。
Q.21-3 ホールデンは〈hold〉できるのか?
先に引いたキャンベルの一節をもう一度繰り返す、いわく「宝物のような手で、菩薩はあらゆる存在を引き寄せ抱きしめる」(G_226)。
ホールデンがフィービーと再会する場面で、フィービーが兄の名を呼ぶ部分は「Holden」のholdが斜体になっており、この直後に、フィービーはホールデンの首に抱きつく(273)。
ホールデンの名前には、「hold」抱きしめる、が入っていることを、作者はここで示しているのだろう。それは、あらゆる存在を引き寄せ抱きしめる菩薩の神格化された手、キャッチャーのイメージにも通じるもの。
ただ、この場面ではまだ、ホールデンは抱きしめられている側、抱きしめているのはフィービーだ。妹はホールデンを抱きしめ、大切なクリスマスのお小遣いもすべて兄にあげ、翌日も学校のお芝居に出たいという気持ちや、今の幸せな生活をすべて投げ捨てて、家出するホールデンについていこうとする。
フィービーの行動を通して、自分のものを惜しみなく差し出し、望みをあきらめてでも、誰かを救おうとするような思いやりを持つことこそが、キャッチャーになることなのだと、ホールデンは教えられる。だから、今度はホールデンが、フィービーのために、家出を思いとどまる。これが、ホールデンが〈catch/hold〉される側からする側へ変容する第一歩。ここからホールデンは、きっと大人へと成長していけるはずだ。
つづきはこちらから。ぜひ、ご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解21~30のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
