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売れ残ってほしかった

冷やし中華を作った。麺は二分、具の支度は三十分。

母が惣菜屋をしていた頃、夏になると冷やし中華を作っていた。食べたいと言うと、残ったらね、と言われた。


冷やし中華を作った。麺は二分。袋の裏にそう書いてある。

薄焼き卵は少し破れた。どうせ細く切ってしまうのだから、と自分に言い聞かせる。実際、切ってしまえば破れていたかどうかは誰にもわからない。私しか食べないのだから、誰にもも何もないのだが。

きゅうりはグレーターでおろす。スライサーより早い。一本があっという間に細切りになる。半分だけ使って、残りは冷蔵庫に戻した。明日サラダかサンドイッチにするつもりでいる。

トマトは使いかけを薄く切った。ハムは切るだけでいい。今日いちばん手間がかからなかったのは、これである。

麺を茹でて、水で洗う。ぬめりが取れるまで指で揉む。それから氷水に落とす。手の甲の骨のあたりが冷たくなって、痛くなる手前でざるに上げた。

料理は嫌いではない。ただ、手早くはできない。二分の麺のために、三十分ほど台所に立っている。

子供の頃、母が作る冷やし中華が好きだった。

母は惣菜屋をしていた。夏になると冷やし中華を作った。家では作らなかった。

食べたい、と言うと、残ったらね、と言われた。

だから私は、売れ残ることを願っていた。一個でいい。一個だけ売れずに帰ってきてくれればいい。店の商品が売れないでほしいと、店の娘が思っていたわけである。母には言わなかった。

残った日のことも、残らなかった日のことも、細かくは覚えていない。透明なパックに輪ゴムがかかっていたことと、残ったらね、というあの言い方だけが残っている。

母が店を辞めて、しばらく経ってから聞いてみた。あの冷やし中華のタレ、作り方を教えて。

返ってきたのは、いや、教えない、だった。

驚いて、なんで教えてくれんと、と食い下がった。母は言った。忘れた。


教えない、と、忘れた、は違う。だいたい順番が逆である。忘れたのなら、最初からそう言えばいい。

それ以上は聞かなかった。

というわけで、あの冷やし中華はもう食べられない。市販のタレは美味しい。今日使ったものも普通に美味しかった。酸っぱさもちょうどよかった。ただ、懐かしくはない。


そもそも、あの味を私が正確に覚えているとも思えない。売れ残った一個を、待ってようやく食べていた子供の舌である。美化されているだけかもしれない。

食べ終わって、冷蔵庫を開けた。半分のきゅうりが転がっている。明日はサラダにする。たぶん。

#冷やし中華 #母と娘 #4コマ漫画 #エッセイ #親子 #夏の味  

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