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【短編小説】そして私は落ち葉を拾う。――歪んだ真珠の告白《#創作大賞2026/#恋愛小説部門》

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

【あらすじ】


32歳の医師・アリサは、完璧な「記号」として生きる傍ら、制御不能な「野生」の渇きを秘めていた。彼女を縛るのは過干渉な母の影と、10歳で粉砕された初恋の記憶「言霊のミイラ」。

かつて親友<マナミ>と心身を分かち合った一瞬を聖域として追憶しながら、若い同性の恋人<ノア>の野生の熱を貪り、空虚な日々をやり過ごしていた。

しかし、塗り固めた関係は飢餓を深めるばかり。22年の呪縛を解くため、アリサは実家の庭を掘り返し、封印した「初恋」を再解剖する決意を固める。

「人生は積分だ」。

清濁あわせた過去を内包し、聖者にも獣にもなりきれない孤独を耽美に描く。

漂白された日常の果て、土にまみれた彼女が掴み取った「真実の愛」の形とは------


【※注意】この物語は、著者の精神を削り出し、一つの実存として産み落とされたものです。剽窃、および生成AIへの学習利用は、理由を問わず固くお断りいたします。すべての権利は著者に帰属します。

――ルイーザ・ジューン・ボルコット
(画像は全てNano Banana 2で作成しています)



【短編小説】そして私は落ち葉を拾う。――歪んだ真珠の告白


私がその日、「あの手紙」を殺しに行くのは必然だったのかもしれない。

「ねえ、寒くないの?」

ノアが毛布の中でキャミソールの上半身をゆっくりと回転させながら言った。

アリサは何も言わず、「おぎゃあ」と産まれたそのままで、外の街並みを見つめる。土曜の午後のコンクリート色の雨音が、ガラスに薄く映った己の表面をひんやりとなぞる。

アリサにとって、この身体とその中にあるもの以外、贅肉に過ぎなかった。衣服は重い。生けるこの世の重力を、いつも感じずにはいられないからだ。本当は、このコンタクトレンズだって鬱陶しくて仕方がない。

アリサが右手の人差し指を窓に押し付けると、指先がわずかに広がり、周囲のガラスに不透明な波紋を作るが、それはすぐに消えてマイナスの熱が指へと逆流する。

「アリサ、向かいのビルから見えてるんじゃない?露出狂じゃん」とノアは笑いながら、ベッドの端に腰かけ、タイツに脚を通していく。

40デニールの生地を通しても光を眩しく反射する膝頭に、アリサは若さへの憧憬を飲み込む。

誰でも見たければ見ればいい。この世にやってきたままの裸体を、最も目にしたであろう母親が、見るべくもない現在の姿を。

「じゃあ私、一旦家に帰って、仕事行くね」

何事もなかったように格好を整えたノアは、アリサに軽く口づけをした。

ノア本来のニオイに混じって、つけ直したリップのイチゴの香りがアリサを包み、一度冷え切っていた身体の真ん中に、ほんのりと残る溶岩にわずかだけ熱が戻る。

いつもこの瞬間、私はこの子を騙しているという感覚がアリサを襲う。7歳年下の彼女の、ひたむきにその日を生きるエネルギーを自らにインストールできることが、ノアとの関係を維持する動機なのだ。

ノアは女性としてのアリサを求めている。でも、私はそうじゃない。私が彼女を選んでいるのは「男でない」という消去法だ。

おそらくノアは気づいているだろう。湿る肌を、潤う粘膜を、溢れる貪婪を、脳の深いところでいつもやり取りしているのだ。アリサの孤高な卑俗すら、ノアには愛おしかったのかもしれない。

「明日は実家行かなくちゃいけないから、また月曜だね」と、素肌のままのアリサは、少し派手な服装で玄関に向かうノアに優しく微笑みかける。

レッドカラーのニットは、なおも熱を帯び続けるノアそのものだ。ほんの1時間前の2人のように、乱雑に重なりあった靴を揃え直し、足を通すノアの背中を見守る。

「アリサ。月曜日、真っすぐ会いに来てね」

ノアは振り返ると、少し背伸びをして、彼女の鼻先と唇がアリサの左頬を一瞬くすぐって、しばしの別れを告げた。玄関のダウンライトが、ノアの長い栗色の髪の毛を光の糸のように染めていた。


少しずつ薄まっていくノアの若い吐息を感じる空間の中、抜け殻となったアリサは、冷たい湿度を含んで重くなったシーツを包んで抱き上げる。その重さの殆どは、自分に対して常に全開放できるノアによるものだ。

私には、どうしても100%他人へ委ねることができない。大学時代の一度の経験を除いて。

シーツを洗濯かごに放り込むと、冷蔵庫から苦めの緑茶のペットボトルを取り出して直で一気に飲み干す。咽頭から食道、胃がひりつき、彼女の体温がさらに下がったように感じる。

しかしその直後、1畳に満たない空間で無機質な陶器に向かって迸発が激しく叩きつけられる音に、こんなに冷え切った身体の内部に熱量が隠されていたことを改めて自覚するのだ。

どんなに身体が冷えたように思っても、どこかに生命の貯蔵庫がある。それが生きている証なのかもしれない。

そして静謐な部屋でひとり、アリサは文明の規範を一つずつ身にまとう。ブラジャーのワイヤーが肋骨を締め付け、ストッキングが足先から無機質な膜で覆っていく。こんなにすぐに汚れて破れてしまう贅沢に何の意味があるのか、と毒づきながらも、爪先で傷つけないように丁寧に緩みを直す。

そして仕上げに、SNSで作られた虚ろな「流行」の布切れに敢えて袖を通す。ボタンをひとつ留めるたびに、私は自由な「動物」から、誰からも愛される「記号」へと調教されていく。聖者にも獣にもなりきれない許しがたい私。

明日は実家に行かなくてはならない。そう、「母親の自慢のアリサ」として。ただ、その時の私はまだ知らなかった。いや、気づかないようにしていた。

クローゼットの奥、あるいは記憶の澱に沈めた「あの手紙」の呪いが今も続いていることを。




日曜日の早朝は、アリサにとって嫌いじゃない時間だった。病院入口のすぐ横にあるコーヒーショップに立ち寄り、メニューに目をやる。

おおよそのメニューは覚えているし、お目当ても決まっていたが、こうやって少し店員と言葉を交えることが、「やさしくて頼りになる完璧なアリサ先生」へレバーを振り切るためのガリバートンネルなのだ。

期間限定のラテを受け取り、アリサは笑顔でお礼を言う。右手に伝わるラテの温かさを楽しみながら医局へ向かい、自分のデスクに荷物を置く。

週末に駆け込みで送られてきたメールをパソコンで確認しながら、コンビニで買ったサンドイッチを飲み込む。土曜日はノアとの時間と決めていたから、自宅では仕事のメールを見ないことにしていた。

ひとつずつ削除したり、返信したりしながらも、片隅では数時間後には会う母親のことを思い出す。トマトの酸味が通り過ぎるにつれ、アリサは己の本心を完全に沈静化させていく。パンの表面が舌をざらつかせる。

それをラテで流し込むと、「よし」と言って髪を後ろで縛って立ち上がり、吊るされていたショートコートの白衣をまとう。

肘の周りをストレッチ素材の袖が圧迫して、純白のドレープを形成する。素材表面のわずかな光沢は、ドラマでも使用されたのと同じモデルの特徴だ。最後に聴診器をつかみ取ると、そこには昨日ノアと過ごした欠片など、どこにもなくなってしまうのだ。

真っ直ぐに続く白い廊下を歩いて病棟に向かうと、アリサは、まずナースステーションで、夜勤明けの看護師たちに嫌味にならない程度の労いの声をかける。

疲れていて、内心煙たがられているかもしれないと思いつつも、やらぬ善よりやる偽善によって、彼女を絶妙な「おせっかいオバサン」の配役へと嵌めてしまう。

どうせ真意など、お互い窺い知ることなどないのだ。それであれば、底の浅い共感であっても周辺環境がうまく回ればそれでいい。なにせ職場では「記号」という歯車を完全に演じることが、評価され、感謝され、尊敬されるのだから。

受け持ち患者の状態を一通り看護師から聴取すると、アリサはそれぞれの病室へ行き、元気よく挨拶をする。身の回りの小さな日用品に、患者それぞれの生き様が反映されるが、画一的な箱がそれを飲み込んでいた。

同僚には作られた笑顔を向けるアリサだったが、「健康に戻ること」そして「生きること」に人生を賭けている患者たちは、彼女にとってアスリートに対するような畏敬の対象であり、白衣を纏った分厚い壁に10センチくらいの紡錘形の窓を開けて声を届けていた。

丁寧に、ゆっくり、話を聞き、診察を始める。

アリサは左手掌の体温を聴診器の表面に移し、患者の胸へ滑らせる。アリサと患者の体温が、聴診器の金属の中で混ざり合い、それをつまんでいる右手指にしみ込んでいく。

患者の鼓動に一瞬、昨日のノアの首筋の湿度の記憶がよぎるが、表情を変えず患者に微笑みかける。

「いいですね。この調子で、頑張りましょう」

アリサは蒸発するアルコール消毒薬が両手から熱を奪うのを感じながら、患者が満足そうに「アリサ先生、ありがとう」という声を確認していた。

やさしく寄り添い、患者が感謝する。色々な患者がいるので絶対ではないけれど、このテンプレートは鉄板だ。私も患者も誰も傷つかない。

そしてアリサは、とりとめもない患者との会話のさなか、左脇に抱えたバインダーの上に乗せた腕時計を気づかれないように確認すると、第一楽章の終わりのような、調和されつつも次への余韻を残して切り上げるのだ。

一見、冷めたようなこの距離感は、皮肉にも医師としてのアリサの臨床能力を高める良い副作用をもたらしていた。

人気医療ドラマの主人公のように、熱くなりすぎて距離感を間違える医師は、その熱で患者も自らも焦がすことになると彼女は信じていた。

そんなアリサでも、命の灯と本気で向き合った患者に対しては、10センチの窓が中から強い力でさらに拡げられ、奥の方にある「祈り」が患者の「執念」と互いを呼び合う瞬間がある。

そして、お互いに、狭い瞳孔の奥に秘められた人間の根源を確かめ合うのだ。

これはありきたりで感傷的な慰めや共感ではなく、蛍がうっすらと発光してお互いを認識しあうような、光学的なバイパスそのものだった。

しかし、彼女はその現象すらも、自己の正当化による醜い擬態なのではないか、と自責していたのだ。

だから彼女は、その指先の震えを、患者の手のひらを強く、強く、握ることで、誰にも気づかれないようにしていた。




病棟で患者たちに問題がないことを確認したアリサは、すぐに駅で弁当と母親の好みの土産を買って、週末で混雑した新幹線に乗っていた。

観光に向かうのだろうか、通路の向こうの座席からは、数人で乗り込んでいた乗客の談笑が、鳩時計のように周期的にアリサを現実へ引き戻す。

次第に、左側を駆け抜ける田畑と木々が、少しずつ11月の彩りを増やしていく。アリサは弁当箱を開けると、炊き込みご飯を口に運ぶ。それほど食欲もないので、選んだのは売り場の一番手前にあった「秋弁当」だった。頬の粘膜がひんやりとして、米粒がほぐれる。

弁当とともに、何十人もの女性たちの熱の記録を反芻しながら、母親との再会に備えていた。アリサは、母親によって導かれた世界を塗り替えるようにして、これまで自分の周囲にいなかった世界の住人たちを求めてきた。

しかし誰でも良かったわけではない。自堕落なものは、既存の社会規範を「反転」させてなぞっているに過ぎない。「ならず者のルール」という、狭苦しく底の浅いルールに依存して呼吸をしているからだ。

アリサが求めているのは、そんな安っぽい「反抗」のパッケージではない。彼女が渇望するのは、ノアのように「規範という概念そのものを、圧倒的な生命の熱量で蒸発させてしまう存在」なのだ。

ただ、原始的な部分の繋がりだけで維持できるほど、人間が単純でないことはアリサにもわかっていた。身体と心は会話できるが、社会性という濁りが顔を出した瞬間、二人の関係は思い出に変わる。

ノアとの生活も、いずれは子どもの頃に作った浜辺の城と同じだ。青い海に照らされて瑞々しいその姿も、夜が来て水分を失えば脆く砂に帰る運命にある。

新幹線の窓がトンネルの暗闇を映した瞬間、ノアの絞るような吐息が聞こえた気がした。




改札を出ると、都会の淀んだ生暖かさとは明らかに異なる、乾いた土埃の冷気が、ブーツに覆われていない膝周りのストッキングの布地を刺す。

どこからとなくやってくる揚げ物のニオイを感じながら商店街を少し歩くと、懐かしい住宅街が拡がる。東京に比べて、秋が早い。頬を包むひんやりとした空気、色とりどりの葉をつけた街路樹は、昔と変わっていない。これがバカンスだったらどんなに良いことか。

家が見える。完璧に手入れされた花壇にはビオラが見事な配置で色彩を誇っていた。ルドゥーテを意識した、母親のガーデニングのセンスは嫌いじゃない。

しかし、その美的センスが、母親の圧迫感をより酸欠的なものに仕上げていた。

茶色く重苦しい金属製の玄関ドアの前に立ったときには、アリサの筋肉は自然に笑顔を作り、全身で「満ち足りた人」の雰囲気を偽装していた。

社会の中では、アリサの器を動かす見えない何かが存在する。それは彼女の中の「真珠」だ。抑え込んだ自己という違和感を包む美の結晶。母親や大人たちが干渉してくるたび、摩擦を避けるほどに、アリサの中の真珠は、大きく美しく、しかし歪んで育っていった。

母親に微笑みかけるたび、この真珠はまた少しだけ大きく、そして鋭く尖っていく。服を脱いでも、この重みだけは脱ぎ捨てることができない。私が私であるために育て上げた、美しくも醜い、たった一つの毒の結晶。

玄関の鍵を回す。まるでバッグの中から取り出し忘れていた弁当箱の蓋を開くときのような感覚だ。しかし、そんな気持ちがまるでなかったかのようにアリサはとびっきりの声で呼びかけるのだ。

「ただいまー。お母さん、いるー?」

アリサの声が、秩序正しく整えられた玄関ホールに響く。声を出して返す吸気に、ホワイトムスクの甘ったるい空気が肺を満たし、アリサは咳き込んだ。

貼りついて脱ぎにくくなったブーツを力任せに引きはがすと、逃げ場を失っていた蒸気が、乾燥した玄関の空気に抗うように揺らめく。ほんのひととき、酸味を帯びて発酵めいた微粒子が甘い香りを凌駕するが、冷えた床板に足を乗せた瞬間にその温もりは吸収されて存在感を失い、元の調和された空間が戻った。

「アーちゃん、お仕事忙しいのにごめんなさいね。週末なのに彼氏さん、怒ってなかった?」

リビングに入ると、母親はてきぱきとコーヒーや茶菓子の準備をしていた。もちろん彼女には、ノアの事なんて話していない。同業の男性と付き合っているが、忙しくてまだ結婚どころではない、という事になっていた。

誰もが、アリサたちを「仲良し母娘」と思っているはずだ。母親の干渉を避けて、遠くの国立大学医学部に進学したときも、都会の大病院に就職したときも、「母親が信じている王道」を外していないため、その真意を知られることはなかった。

バニラのフレーバーのコーヒーの香りが、リビングにも伝わる。私の好みのコーヒー。こういう気の利き方も、悔しいけれど嫌いになれない。

母親は悪人ではない。皆に好かれ、社会的には「善人」のカテゴリーに入るだろう。アリサにも愛情を注ぎ、時には自分の人生を犠牲にして尽くしてきた。しかし、アリサは成長とともに、その鎖の重さに耐えられなくなった。

大きくなればなるほど、自分を抑制する鎖は太く重くなる。だが、アリサは同時に「望まれる記号」として振舞うことのメリットも先天的なセンスで享受していた。

彼女にとってそれは生存本能であると同時に、母親からの優しい呪いのようにも思えた。

ただ、こうやって話していると、母親の無意識を感じてしまうのだ。シミひとつないテーブルクロス。気づかない間に片づけられた旅行カバンと、皿に綺麗に陳列された土産の菓子。

おそらく母も「規範という名の呪い」に飲み込まれ、完全体となってしまったのだろう。これまで何度も、母親の言葉に「優しい悲鳴」を聞いてきた。

それでもアリサは笑顔を絶やさない。母親の詮索に対し、人工知能が返す表面的で心地よいフレーズのように、安全で配慮のある、もっともらしい言葉を繋いでいた。そして母親は決まって、テレビで聞いたような「誰に見せても恥ずかしくない正論の御意見」を言って締めくくる。

こうやって今までやってきたのだ。だが、毎日交わす患者たちの生命の叫び、真実のダイアローグに比べ、「社会に従順な人々」が重きを置くものの何と空虚なことか。

アリサは、英国製の繊細な花が施されたコーヒーカップから立ち上る湯気を、じっと見守り、手を付けなかった。

この迷いのない茶色の液体を、かつての哲学者のように受け入れてしまえば、母親の語る「正しさ」という麻痺が足先から這い上がり、私の拙い自由も、この苦しいほどの動悸も、すべて平らにならされてしまうだろう。

アリサは、差し出されたその完璧な温度を、気づかれぬよう、指先で静かに押し戻した。

今回、アリサが帰省した目的は、彼女の部屋の荷物の整理だった。複雑だけれど、たくさん良い想い出もあるこの家を、来年リフォームすることが決まっていた。

気持ちの良いアリサの応対に、一通り母親が満足すると、アリサはリビングを出て階段を昇る。一段、一段、心は静まり返っていく。昔からこの段差は、自分自身を取り戻すための移行地帯でもあった。

部屋に入ると、予想通り、大方の荷物が収納された段ボールたちが、部屋の片隅にお行儀よく整列していた。そのうち2つにはご丁寧に「アリサ、確認用」と油性マジックの文字が母親の分身となって存在感を放っていた。

これを優しさの牢獄と言ったら罰が当たるに違いない。私は幸せに育ったのだ、私宛の郵便物を、断りもなく、そして悪意もなくすべて開けて確認してしまう母親のもとで。

午後の太陽に一瞬雲がかかり、床の茶色が濃く見えた。

今日中に任務を終わらせよう。そして早く帰ろう。アリサは段ボールのうち、一つを開けた。埃をかぶった和菓子屋の上品な紙箱を前に、私の手は止まった。


喉の奥で拍動を感じる。それは時折リズムを外し、違和感を与える。

「あ、PVC(心室性期外収縮)だ」なんて頭のどこかから声がするが、心は怯えていた。私は知っている。この箱は、ただの上品な菓子箱などではない。棺桶だ。10歳の言霊のミイラを22年間封じ込めてきた、忌まわしい封印なのだ。

アリサは一瞬息を止めて、ゆっくりと蓋を開ける。

両手の汗が、表面の紙の感触を変化させていく。

蓋の周囲の表紙は、ぐるりと剥げていて、箱の底には淡緑の便箋が鎮座していた。便箋の紙質がむき出しになった部分は、少し色が薄くなっていたが、爽やかな色合いは昔と変わっていない。

2センチくらいの破片たちを、黄色く変色したセロハンテープが、かろうじてモザイク画のようにつなぎ合わせている。多くのピースが欠けたその姿は、今の自分のようだった。

アリサは、乾燥した手紙を両手ですくい上げる。飴細工のように脆くなったセロハンテープが壊れて指先に貼りつく。当時鮮やかだったはずのピンク色のインクは、少しだけ濃くなったような気がする。今では絶対に使わない丸文字が、当時の抑えられない少女の高揚感を表していた。

「こんにちは。あ、こんばんはかもしれないね!今何していますか?」

無邪気だ。腹が立つくらいに無邪気だ。

時折、インクが滲むのは、14歳の私のせいだ。14歳の私は、10歳の欠落を埋めようとしていた。

けれど、今の私は違う。この淡緑に躍る、何の疑いも持たないピンクの呪文の連続が、今の私を縛り付ける鎖の最初のひと回しだったのだと知っているから。

アリサの左頬に西日が差して熱を帯びる。あの日、この部屋で私は、この手紙を産んでしまったのだ。

指先に伝わる乾燥した紙の抵抗が、かつてデパートの文房具売り場で、迷いながら握りしめた新品のレターセットの滑らかさを、皮肉にも鮮明に思い出させる。

あの日も、今日と同じような西日が差していた。




淡緑のまっさらな便箋に、先ほど完成させた下書きの文字を、丸く、可愛らしく、愛情たっぷりに書き写していく。

夕暮れの太陽が、やわらかいオレンジでアリサと便箋を包む。レターセットも、ペンも、父親に頼んでデパートに連れて行ってもらい、自分のお小遣いで買った特別なものだ。

文房具売り場で1時間以上迷うアリサを、隣の書店コーナーで時間を潰していた父親がそっと見に来る。それが明らかな初恋による行動だということを、父親はそれとなく感じていて、旅行の帰り道のような、少し切ない嬉しさで受け入れていた。

「よし、これにしよう」とアリサは淡緑のレターセットと、元気なピンク色のペンを胸に抱きしめた。

ユウヤが緑色を好きなのは知っていた。でも、この淡い色合いには、彼の活発でありながら、どこか知的に秘められたオーラを感じたからだ。そして、自分の今の気持ちを乗せるためのピンク色。

これから2人が織りなす色合いを想像して、アリサはデパートの真ん中で奇声を上げたいくらいだった。 

4年生になって一緒のクラスになったユウヤ。この年齢の少女が重視する、外見の良さももちろんあったが、彼が時折見せる知性や女性的な共感力にアリサは耽溺していた。

細かく過保護な母親とは対照的に、アリサの父親は包容的で、理知的だった。兄弟のいないアリサにとって、父親が男性としての基準であり、それ故に同年代の男子の低俗さ、粗忽さ、他者への敬意のない振る舞い、そして性別による阻害、全てが理解しがたく、どう接すべきか困惑していた。

あるいは、アリサの知性が、理解不能な危険な生命体として拒絶していたのかもしれない。

それに比べてユウヤはフェアだ。女ということを理由に遊びに入れないということもないし、いじめだってしない。時折女子たちに見せるちょっとした優しさもアリサを安心させた。

昼休みにアリサが具合悪くて戻してしまい、お気に入りのスカートを汚して思わず泣いてしまった時も、おろおろする女子たちの間をかき分けて目の前に現れ、自分のジャージをかけてくれた。

スカートのシミは元には戻らなかったけれど、代わりに神様が素敵な贈り物をくれたのだと思った。アリサが父親以外の男性に初めて心を開いた瞬間だった。

アリサも勝手に片思いをしていたわけではなかった。日々、一緒に過ごすわずかな時間の中で、確実に関係性が深まっていることを実感したし、ユウヤの瞳に映るアリサの姿は解像度を上げたスクリーンのワンシーンのようだったはずだ。

押さず引かず、アリサも絶妙な距離感を保っていた。いつしか、アリサの友達の女子たちの間では、2人は両思いなのだ、という暗黙の了解すら出来上っていた。

アリサ自身だって、大人への変化という迷宮の入り口を前にして、母親に似た自分の外見が、それなりに悪くないことは薄々自覚しつつあった。

同性が受容できる範囲の愛くるしさだが、男性が敬遠する程の美女でもない絶妙なバランス。これがいかに最強のカードとなるか、彼女は本能的に感じ取っていた。

<こんにちは。あ、こんばんはかもしれないね!今何していますか?>

元気に、しかし控えめに、アリサは頭の中のユウヤの反応を確かめるように言葉を繋いでいく。

<今日は、ユウヤに報告があります。もし、まだ気づいていなかったら、ビックリさせるかも。私、アリサは、ユウヤのことを考えて、気持ちの中がいっぱいになってしまいました。伝わったかな?恥ずかしいけど、大スキです!>

ピンクの丸文字の花弁が、淡緑の余白を次々と埋めて開き輝く。

ここ最近は、毎日ユウヤに会いに学校に行っていたようなものだ。そして、心を秘めたままでは我慢できなくなっていた。

風邪もひいてないのに、この感じはなんだろう。髪の毛の一本、爪の一枚だって、ユウヤにもっと好かれたい意思をもっている。アリサは、その知性が考えつく限りの愛を便箋に込めた。

ジャージをかけてくれたお礼、いつも女子にも優しくて尊敬していること。そして2人でこれからも、もっと楽しく過ごしたいこと。

何度も読み直し、手袋をはめて定規を使って丁寧に便箋を折り、慎重に封筒に入れる。あえてハートのシールではなく、四つ葉のクローバーのシールで封をしたのは、アリサなりの遠慮だった。

その日は、何をしていても明日をあれこれ想像して、神経ネットワークで余分なエネルギー消費を促していた。そして自分の部屋に戻っては引き出しを開けて、封筒を何度も眺めた。幸い、この日は母親がアリサの机を定期確認するタイミングではなかった。

翌朝、少し寝不足気味だったが、鏡の前の笑顔は完璧に見えた。母親にはクラス行事で発表会をすると嘘をついて、当時流行していた少女向けアニメを模したツインテールを編んでもらった。服装も、大人びたグレーのワンピース。

ピアノの発表会以上の緊張と高揚感に包まれ登校すると、仲のよかったカナとフミエに協力してもらい、放課後にラストシーンを迎える計画となった。

当然、その日の授業時間は勉強内容などニューロンに刻まれるはずもなく、永遠の恍惚の中にいた。時折、右斜め前のユウヤの後ろ姿に目をやり、指先で机の中の手紙の輪郭を確かめる。それはアリサの人生においても、格別の時間だった。浮揚感を伴う微熱の中、とうとう放課後がやってきた。

アリサの教室は2階の一番奥にあったため、カナとフミエがユウヤを廊下の端に連れ出してくれた。きょとんとしているユウヤの正面で、アリサが一歩前に出る。

「ユウヤ、一生懸命書いたんだ。受け取ってくれると、嬉しいな」とアリサは、いつになく改まった口調で声を絞り出した。

舌が乾いて、ピチャピチャと不快な音がする。ユウヤは右手で手紙をつまみ、表書きにじっと目を落としている。

その時、予期せぬ乱入者が現れた。クラス一番のお調子者のカズキだ。デリカシーがなく、ガサツ。アリサが最も苦手としている男子だった。

忘れ物をしたのか、一旦帰って行ったはずが、気づくとアリサの視界の前に出現し、手紙はカズキの右手に奪われていた。

「お~!これ、ラブレターじゃないのか!?何だよ、この大好きなユウヤ君へ、って!キモイな~。お前ら付き合うのか?明日みんなで結婚式しようぜ!」とカズキが大はしゃぎした。

カナとフミエが「あっち行って!」「手紙返して!」と叫んでいる。アリサは呆然としたが、いつものようにユウヤが守ってくれると期待した。

すると、ユウヤは「返せよ」と言うなり、カズキから手紙を力強く奪い返す。

「ユウヤ!ナイス!」とアリサが喜んだのは、ほんの一瞬だった。


ユウヤは、手紙を両手で握りしめると、封を開けることもなく、ちぎり始めたのだ。


1枚が2枚。2枚が4枚。アリサは麻痺し、何も聞こえない。ただ、その映像が紡ぎ出す雷のような衝撃を心の聴覚で再生していた。

アリサだけじゃない。カナとフミエ。ふざけていたカズキすらも身動きができない衝撃。

破片が増えるたびに、アリサのピンク色の言霊の叫喚がこだまする。

ユウヤは真っ赤になって、100円玉くらいの破片にした後、その塊を教室の入り口にあったゴミ箱に、叩きつけるようにして捨てると、無言で走り去っていった。

「すげ~!アリサは残念でした~!」とカズキも後ろ走りで去っていく。

カナとフミエの嗚咽が聞こえる。アリサはただそこにしゃがみ込む。スクリーンのワンシーンだったユウヤの姿が、一瞬にして理解不能な異物へと変貌した瞬間の、アリサの網膜の震え。

なぜ?これは何?私は一体、何をしたの?

アリサは、自分を「可愛い、知的な、選ばれた少女」という完璧な記号としてパッケージできたはずだった。ユウヤはその記号を愛でることはできたが、その記号の奥から溢れ出してきた情熱を受け止めるだけの器を、まだ持っていなかったのかもしれない。

32歳になった今でもわからない。ユウヤの目には、封筒の表に並んだ、むき出しの野生をのぞかせたピンク色の呪文がどう映ったのだろうか。

その「言霊」をゴミ箱へ葬り去る暴挙を選ばせたのは、恐怖か、自己防衛か。それとも、生まれながらに女性とは最終的には短絡してしまう生き物なのか。

アリサは、ユウヤの中に自分と同じ「知性」という鏡を見ていたつもりだった。当然、同じ面積の「原野」が、大切な人のためだけに保管されているのだと思っていた。

けれど、そこにいたのは、さらけ出した本気を理解できない臆病な男子の一人にすぎなかった。いや、もしかすると、その臆病さは、私自身の血の中にも流れているものなのではないか。

絶妙なバランスを取っていたアリサの熱量は、この日濁流となってユウヤを飲み込んでしまった。

透明なゴミ袋を交換されたばかりの、シミだらけのくすんだ空色の奥底に散りばめられた私の分身。

袋をひっくり返して、その破片を3人が無言で集めていく。手には封筒と便箋のカサついた感覚だけが残る。生命力を失って地に落ちた葉が、二度と彩りを宿さないように、アリサの指先が感じるのは「死にゆく匂い」をたゆらせた圧痕だった。

「もう、大丈夫だから」

大方の破片を集めたアリサは、カナとフミエに静かに告げる。2人ともまだ泣きじゃくっている。どのように声を掛けていいのかわからないのだろう。

アリサは不名誉な破片を取っておきたかったわけではないが、2人の好意も無駄にはできないと思い、それをハンカチに包んで赤いランドセルにしまった。

引き裂かれるような事件が起こったのに、心が落ち着いて冷たい。思考がまとまらない。口の渇きと、胃のあたりの不快感だけが彼女を包んだ。

家に帰るとアリサは、リビングに寄らず、自分の部屋に直行した。異変を感じた母親が様子を見に来たけれど、「何でもない」と作り笑顔で返すと、「そう?」と心配そうにしながらも、下に戻っていった。発表会で失敗したとでも思ったのだろうか。

母親が去ると、目頭から一気に大粒の雫が膨らみ落ちる。表現しようのない乱流が脳内を攪拌し、10歳の心をえぐり取る。噎せ返りながら、髪留めをしまっていた菓子箱を乱暴にひっくり返して空にすると、ハンカチから紙吹雪のように瀕死の紙片を散りばめた。

そして蓋をして、周囲をガムテープでぐるりと巻きあげた。この時、押しつ押されつつも、絶妙に共存していた記号と野生は分離した。そして野生の周囲をアラゴナイトが隙間なく包んだのだ。

なぜ、この時、悲しい破片を捨ててしまわなかったのかは、今でもわからない。しかし、頭のどこかで「これは冷凍カプセルだ。今の技術ではどうにもならなくても、未来には何とかなるかもしれない」という声が聞こえた気がした。

奥歯に感情を預けたアリサは、頬の粘膜から染み出た鉄の味を独り飲み込んだ。10歳にはまだ苦い、生の感覚だった。

その後の1週間は大変だった。食欲を減らしたアリサを、学校でいじめにあっていると思い込んだ母親が、直談判すると大騒ぎしていたからだ。

何となく事情を察していた父親が母親をなだめ、大事にはならなかった。しかし、父親も何度かアリサの部屋の前まで来て、少しだけドアを開けて覗き込んだだけで、直接何も言ってこなかった。

もし、この時、父親が声をかけてくれたなら、何かが変わったのだろうか。ほんの少しのベクトルの変化が、後戻りできない今を作ってしまったのだろうか。

それからの彼女は、より一層、「皆に好かれる可愛いアリサ」に固執した。まだ10歳の「自己洗脳」は初心者レベルであったが、同級生の歓心を得るには十分であった。

クラス替えまでの4か月半、ユウヤの素っ気ない態度に耐えなければならなかったが、彼女は努めて輝いた。客観的には「失恋が少女を美しい大人に一歩成長させた」美談に見えたかもしれない。

しかし、彼女の中では日一日、歪な真珠が育ちつつあったのだ。




中学生になったアリサは、より一層、明るく社交的でウィットに富む人格を確立していた。

心配性な母親の干渉はより一層強くなっていたが、成績も安定させ、陸上部で健全に体を鍛え、安心の檻に大人しく飼いならされていたので衝突はなかった。

彼氏こそ作らなかったが、10歳のトラウマなどなかったかのように、学校では男子たちを上手に扱っていた。

2年生になると、再びユウヤと同じクラスになった。あんなことがあったけれど、アリサは自然とユウヤの姿を追っていた。好きとか、恋している、という感情かどうかはわからない。熱量でいったら、10歳のあの日がピークなのだから。するとこれは、世間が未練と呼ぶものなのか。

ユウヤとは、挨拶程度の間柄であったが、秋になると文化祭の準備が始まり、同じ担当班になってしまった。アリサは特に臆することなく、その空間を過ごしていたが、ある日たまたま他のメンバーが遅れたり、休んだりして、ユウヤと2人きりになってしまう時間が生じた。

「ねえ、ソノヤマ」とユウヤが改まって声を掛ける。

アリサは一瞬固まりそうになるが、いつもの笑顔で「何?ユウヤ?」と聞き返す。

アリサの中で、あの事件前後の陽と陰の記憶がマーブルのように押し寄せる。それでも、あの時よりも低い音域で、胸の皮膚をなでるような波を感じるたびに、毛穴が開き、急く拍動を感じてしまうのは、女の悲しい性だろうか。

「あの時の事、ずっと謝りたくてさ。ほら……」

照れくさそうに下を向き、ポケットから両手を出さずにユウヤが言う。謝りたくてその態度はないだろう、と思いながらもアリサは笑顔をやめない。

聞きたい。どうしても聞きたい。

どうして、あなたはあんなことをしたのか。私の何がいけなかったのか。

「覚えていない?ほら、小4の時の……」

ユウヤが言いかけるとアリサは「え~?何のこと?いちいちそんな昔の事、覚えてないよ~」とはしゃいで見せた。

記号化されたアリサのシステムが起動し、アリサの本意は冷たく出力を拒否された。アリサは絶望しながらも笑顔で続ける。

「それよりさ、みんな来る前に、出し物の続き、決めちゃおうよ」

「そう?そっか」とユウヤは力を抜いて、ポケットから両手を出した。

放課後、アリサは制服も着替えないまま、あの菓子箱の前で正座していた。少し擦り切れた紺色の靴下の踵の裏が、鈍く反射する。

アリサは少し前かがみになって、無造作なガムテープのひと回しをはがしていく。菓子箱の表紙は粘着面にしっかりと張り付いており、あっけなく封印は解けた。

中にはあの日のままの破片たち。西日を浴びて、わずかな命の灯を残して保管されていた魂。

アリサは、それらを両手ですくった後、ひとつ、またひとつ、パズルのように組み立てていく。ピースが足りていなかったが、10歳の自分の瑞々しい遺構を発掘するには十分だった。

「ごめんね。ごめんね」

アリサは、10歳の自分を抱きしめる。何に対して謝っているのか、本人にもわからない。暴挙の理由をユウヤに詰問しなかったことか。10歳の自分の仇を打たなかったことか。それとも、自分でない自分になりつつあることか。

アリサは鼻をすすりながら、セロハンテープを指でちぎる。粘着面が涙で溶けて指先をぬめらせる。

そうやって復元を試みられ、もはや判読不能な箇所が大半となった便箋の姿を見て、残酷にも彼女は知るのだ。どんな処置を施そうとも、この手紙に生気は蘇らないと。

ピンクの丸文字は、いくつもの雫で滲んでいった。

「ごめんね」ともう一度言うと、アリサは貼り合わせたばかりの抜け殻を箱の底に戻し、ゆっくりと蓋を被せた。

日はゆっくりと沈み、部屋の照度が少しずつ下がっていった。




母親の期待通りの高校に入学したアリサは、真珠が放つ圧倒的な潤いを見せつけながらも、そのコアは確実に枯渇し、耐えきれないバランスとなっていた。

県内ではもっとも成功した「作品」である制服姿のアリサを、母親は優しく毎日送り出した。

昼休みの喧騒、模試の静寂、友人たちの恋話。すべてが表層を滑っていく中で、彼女の喉の奥は常に砂漠であった。蛇口から流れ出る物体としての水は、彼女の消化管を冷やすだけで、根の渇きには届かない。

彼女なりに、人間性を取り戻そうという試みがゼロだったわけではない。告白してきたクラスの男子と、親の目を盗んで付き合ってもみた。友人たちのように、男子への精神的な依存をしようと思っても、すぐに違和感が浮かんで気持ちに水をかける。

結局、男という生き物を完全に理解できることもなかったし、その違和感に歩み寄る意欲すら失っていった。

友人たちが経験していたような、放課後の教室や公園の隅で交わされる不器用なキス。男子が憧れを求めて手を伸ばすたび、アリサの中の真珠は鋭利に尖った。

初体験にも期待したような彩色はなく、「こんなものか」と妙に納得してしまった。これは自発的精神の本能ではない。遺伝子を拡散するための肉体のコードに完全に制御された、システムとしてのプログラム起動に過ぎないのだ。

快楽へ到達するために、全てを放棄して覆いかぶさる彼の姿が、むしろ惨めにすら思えた。

しかし、その間に打ち寄せる身体の波紋が、一時アリサの乾きをわずかに鎮める感覚は、彼女にとって新たな発見だった。彼の背中の皮膚の下で、規則正しく上下する肩甲骨の動きから伝わってくる体温は、物理的な熱量として彼女の数値を書き換えてバッテリーに送られる。

その後の静寂の中で、アリサはシーツに落ちた一本の短い髪の毛を拾い上げ、それを光に透かして自己を肯定するのだ。

そしてアリサは、彼の体温を、呼気を、生命力を、自分の乾いた回路に一時的に流し込むようになる。それは「愛」ではなく、枯渇した土壌に撒く、冷徹な追肥のようなものだった。

「私は、普通の人間とは違う」

その確信は、彼女に奇妙な万能感を与えた。感情という不確かなものではなく、物質的な代謝と熱量の管理によって自分を統治する。この確信は、皮肉にも彼女を次の完璧なステージへと突き動かす原動力となったのだ。




母親から距離を置くために、大学は実家から遠く離れた、地方国立大学の医学部に進学した。意外なことに、この進路選択は「人間の生き死にへ寄り添いたい」という、ひどく真面目な本心からの理由だった。

入学してからのアリサは、肥大化した真珠を引っ提げ、自尊心をカモフラージュした「規範が求める女子医学生」の姿を360度造形していた。

14歳の時に再び封印したあの菓子箱は、クローゼットの奥で、カサカサとミイラの音を立てながら彼女を見つめ続けていた。

しかし、アリサは実家に戻っても、その箱を前に独り泣くことは、もうなかった。彼女は、自らの手で「野生」を飼育し、それを「記号」の鎧で包み込んで戦う術を、静かに、しかし着実に習得していったからだ。

そうやって真珠の層が増えるたび、中身は乾いていく。唯一、聖域における迸発の儀式だけが彼女のコアを絶やさない最後の砦だった。それは単なるアブジェクションではない。身体を駆け巡った血潮が、生命を形作った証拠なのだ。

講義では「ただ貯めて、出すだけの単純な袋」と教わったが、彼女にとって主体的実存を確かめるための重要な器官なのだ。

「まだ。まだ、足りない」

アリサは、根が枯れそうになると、外的な燃料を求めて彷徨う。彼女にとっての「野生」とは、出して萎えてしまうような薄っぺらな男の欲望ではない。もっと根本的な、生きることへの執念や、あるべき常識に抗うような沸騰だ。これはという男性を見つけては、飼いならした己のコアへの「早贄」として与えるのだった。

情も移さず、連絡が来ても、彼女にとっての必要なタイミングでなければ、耳から脳へ甘い信号を送る、完璧な上辺の返信を預けるのみ。それは奔放な性などではなく、果てのない求道者のような狩猟の旅であった。

しかし、どんなに屈強なファランクスを誇る個体であっても、カーニバルの頂点を過ぎた瞬間訪れる、夕暮れの夏椿のような魂の剥離をアリサは鋭利に察知して、やはり男性は相容れないものと納得してしまうのだった。

熱の濃度を求めて、同時に複数から熱をプールしてみたこともあった。しかしそれは、薄俗な雄の支配欲を刺激するだけで、かえって非効率な熱交換装置に思えた。

そうやって遠くからは葉がどんなに青々と見えていても、アリサの根は完全には湿潤することがなかった。瑞々しい記号の裏で乾ききった根を潤すには不十分だったのだ。




階段下から、玄関が開く音が聞こえる。ずっと変わらない、懐かしい父親の声だ。最近は、ほとんど連絡を取ることもない。サラサラというレジ袋の柔らかい摩擦とともに、階段を上がってきた父親が、そっと部屋を覗く。10歳のデパートでの買い物の記憶が再び蘇る。

「アリサ、お帰り。病院忙しいのに、ごめんな。アリサの好きな、リキュール、買ってきた。後でカルーアミルク、飲もう」

父親は、牛乳パックと瓶の輪郭がわかる袋を右手で持ち上げて言った。ワイシャツの袖から、無骨さの感じられない手首が覗く。昔から、こんな物静かで知的な父親が好きだった。

しかし、振り返ってみると、この人は過剰な妻を黙認してきた張本人だ。母親だけの責任でないと、今でははっきりとわかる。男という不条理を見せず生きる、私の父親。

もしかすると彼から受け継いだ遺伝子によって、真珠の誕生は運命づけられていたのかもしれない。

「ごめん、お父さん。明日は休みにしてあるけど、今日中に帰るかも」

とアリサが言うと、父親は「そっか。じゃ、お土産にでも」とリキュールの瓶だけを残し、残念そうに階段を降りて行った。

父親は、娘のことを理解しているつもりで、わかっていない。砂糖を焦がしたような苦さには、私にとって特別な意味があった。それで良く飲んでいたのを、父親は好物と勘違いしたのだろう。

「色んな男の人とね、遊んでるんだ。実は」

あの夜、マナミに打ち明けた時のアルトサックスの深い音色が、静かな自室に鳴り響き始める。




アリサには大学時代を通した親友のマナミがいた。開業医の娘でオシャレ、成績もそこそこ、性別問わず好かれており、とにかく目立つ。

紛れもない王道を歩むマナミは、アリサにとって「記号」のお手本のような人物であった。憧れのアイテムとなっている海外ブランドのパンプスの踵を鳴らして歩くマナミの後ろ姿を、アリサはいつも半歩後ろから見つめていた。

2人が心を通わせたのは、1年生の冬だった。当時マナミが付き合いはじめた男性が、医学部生ではない、という理由で両親から反対されているという愚痴を、実習班の飲み会でぶちまけていた。

「だいたいさ、男なんて、脱がせりゃ一緒なんだから」と、マナミはビールジョッキをテーブルにドン、と置いた。

女子たちは慌てて周囲の客を振り返りながら、ノクターンなイメージに装飾されたマナミの口から出たと思えない一言に、返事すらできていなかった。

しかし、テーブルを叩くジョッキの振動は、「脱がせりゃ一緒」というキーワードとともに、哲学的な響きを持って、アリサの深層を揺さぶった。

SNSで高級レストランのワインをアップする裏で、同級生と居酒屋チェーンに場違いな恰好で現れ、男を語る。そんなマナミは、完璧をトレースするアリサの脳を刺激するのに十分な存在であった。それから、アリサは何かとマナミと行動を共にするようになった。

3年生のある日、マナミの左腕から、彼女の象徴とも言える重厚な時計が消えていることにアリサは気づいた。また男のことで、父親と喧嘩し、腹を立てて時計を売ってしまったのだという。

アリサは驚きつつも、そんなマナミを嫉妬と憧憬という絵の具を混ぜた瞳孔で透かし見た。私は、こんなに簡単にパッケージを切り売りできない。マナミは単なる親友という領域を超えて、アリサの真珠を美しくつなぐ絹糸となっていった。

アリサは「真珠を潤す儀式」を繰り返すうち、それを「絹糸」に報告せずにはいられなかった。

最後の春休み、2人は静かなバーにいた。飲みかけのグラスに残ったマナミの口紅の跡を、アリサは自分の親指で静かになぞり、そのまま自分の唇に触れた。

カルーアミルクがわずかにしみ込むと、コーヒーの香りに混じって、肺の奥に溜まった古い空気が震えながら外へ漏れ出した。この時は、それが意味する予兆を、アリサは気づいていなかった。

モダンジャズのアルトサックスの深い音色の中、アリサは溶けだした氷の薄い層に映るダウンライトを見つめながら、自分の秘密を切り出した。

「物足りないってのは、何となく、わかるかも」

マナミは自分のグラスをスライドさせ、アリサが右手で蓋をしているグラスにコツン、と当てた。ダウンライトの光の輪が、帯状に分裂する。

「マナぷーは、一途だもんね。ごめん、こんな話」

アリサはグラスを引っ込め、臆病だった14歳の記憶がかすめる。しかし、マナミは左腕を伸ばし、アリサのグラスを追ってゆっくり接触させた。袖口が引かれて、むき出しとなった白い腕には、新しい時計が堂々と鎮座していた。

「相手に期待しないから、続いているだけだよ。私は、ただ、臆病なだけ」

結局、同級生と付き合うようになっていたマナミの語尾を、カウントベイシーエンディングが拾って静寂へと収束する。まもなく周囲の客の談笑が空間を支配し、それ以上、この話題については言葉を続けられなかった。

ただ、2人が真実のセッションを通して、互いのコードを調整するには十分な時間であった。

6年間の大学生活が過ぎて国家試験も終わり、アリサも卒業式を迎えた。打ち上げ、2次会、3次会。足取りの不確かな同学年のメンバーたちと別れ、2人はマナミの部屋に向かった。

アリサは東京の病院での就職が決まっていたから、ゆっくりお酒を飲むのも、これが最後だった。長いようで気づくと終わっていた6年間を振り返り、2人の話が弾む。実習、試験、学校祭、そしてマナミの結婚についても。

そんな中、不意にマナミがアリサの唇を奪う。焦げた砂糖のような苦みが口先に広がり、頭の先まで経験したことのない微細な電流が走り抜ける。それは、今までどの男性との熱交換でも得られなかった、回路の「完全な一致」を告げる信号だった。

アリサは一瞬両肩を挙げたが、壁の丸くて可愛い時計が1時54分を示しているのが目に入ると、すぐに力を抜いた。

「完璧な記号の一人」と思っていたマナミからの、思いがけない「野生の贈り物」。

そして、長年飼いならして制御していたはずの己の野生の未知の一面。

アリサのバイタルサインの高鳴りを確認すると、マナミはアリサを新しい世界へと誘う。

魂が重なるような感覚。躯体の芯から四肢と頭頂に向かって伝導する電流。深い谷に落ちて、そこからさらに地殻へ、さらにマントルへ深く沈み込んでいく意識。繰り返す連理の枝となって、根を潤していく感覚。

男性たちとの短い熱の交換では、一度も経験したことがない、自分自身が己の芯をくすぐるような世界。鉄のような酸味と、乳酪のような芳醇が、アリサの大脳辺縁系に深く結合される。

初めてアリサは、他者との境界を曖昧にし、制御不能な己の「俗」を循環させることができたのだ。リーフ柄の遮光カーテンの裾から漏れた朝日が床に反射する頃には、アリサの戸惑いやためらいは全て洗い流されていた。

その後、マナミは彼と結婚し、特別な時間はこの一度だけであった。結婚式でドレス姿のマナミと並んで記念写真を撮ってもらう時、アリサは、奥から湧き上がってくるものが、祝福の気持ちだけではないことを悟っていた。

マナミにとって、結婚が意味するものは何だったのだろう。披露宴が終わるまで、アリサは、あの日と唯一変わらないマナミの鎖骨の陰影だけをじっと見つめていた。

マナミはひとり月の世界へと帰っていき、残されたアリサは、ひとときの記憶をイデアとして、真珠に刻み込んだ。

そしてそれから、様々な女性を、イデアの影として貪るようになってしまうのだった。




「アーちゃん、夕飯、餃子にしたけど、いいわよね」

ノックもせずに入ってきた優しい母親の声に、アリサは思わず便箋を落とし、振り返る。そして、昔と同じように、アリサの肩口に付着していた抜け毛をつまみ上げた。

西日に照らされて目を細くした母親の表情に乗った無数の皺の影と、細くなってまとまった毛髪に、彼女なりの人生の幸福と苦悩を無言で語っているように見えた。

社会規範だけに支配された彼女の人生にも意味はあったのだ。私にとっては、母親の狂気に抗わない父親だったが、彼は夫として、今もこの女性に寄り添っている。それは私には構築できない人間同士の関係だ。母親の世界では、それだけで十分なのかもしれない。

アリサが夕方の回診で会ってきた患者たち一人一人の顔が、なぜか浮かぶ。階下から立ち込めて羽衣のように部屋を舞う、ニンニクとニラの入り混じった湿度。家族で囲んだ落ち着いた子供時代の一部分を思い出す。

「うん、久しぶりだから、楽しみだな。お母さんの餃子」

息苦しいと思っている、この関係だって有限なのだ。無くなれば残るのは虚無だけだ。私が求めているのは、自由という名の、ゼロなのか。

母親が去ると、アリサは再び手紙に触れる。乾いた感触の中に、セロハンテープの破片が棘のように小さな叫びを伝達する。

この手紙は死んではいない。まだ虚無にはなっていない。生きてもいないが、死に切れてもいない、生と死の「あわい」に存在するのだ。

アリサは菓子箱から手紙を取り出し、階段を下りる。この手紙を「おぎゃあ」と産んだのは私だ。私自身が向き合うことが無ければ、永遠に呪いとしての宿命を背負うことになる。

外に出るとアリサは、ビオラの花壇の片すみを素手でかき分けていく。死は終わりではない。再生の始まりだ。神話の人々がハイヌウェレにしたように、私はこの手紙を殺さなくてはならない。 

ポロポロと乾いた表面を除くと、ひんやりとした水分を含む黒色がアリサの爪の隙間を埋め、懐かしい匂いが鼻孔を突き抜けて受容体に結合し、子供時代のメモリにアクセスする。

この匂いは、死と再生を何万回と見守ってきた、大地の神の豊饒なのだ。アリサは、爪の奥で粒子の圧迫感を感じながら、土を返す。

15センチほどの穴ができると、アリサは両手の指先でかつて情熱を帯びた淡緑の表面をなぞり、ゆっくりと力を込める。

10歳の自分には聞こえなかった乾いた音が、今はその輪郭まではっきりと聞こえる。それは、秋の夕暮れに吸い込まれる木々のざわめき。22年前の季節からようやく舞い落ちた、最後の一葉だった。

黒い墓穴に散りばめられた、淡緑、そして無邪気な丸文字。

これで手紙は死に、土に還った。私でない、誰かのところに、新たな情熱として芽吹くことを祈った。  

アリサは立ち上がる。人生は積分だ。聖にも獣にもなれない自分こそ、自分自身なのだ。記号か野生かは、その時々で、私が決める。

その瞬間、アリサの中の真珠は、一気に歪みを増し、得体の知れない、しかし神秘的な形状に捻じれる軋みが身体を突き抜けた。

アリサの吐息がわずかに白みを帯び、近所のどこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえる。水分が両手を冷やし、唐突に温もりを欲した。土にまみれた指で、彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。指先でぬるくなった土の潤いが、彼方のノアの感触を呼び起こす。

「あ、アリサ。何かあった?直接電話なんて珍しいじゃん」

ノアの瑞々しい声が漏れる。

「ごめん。仕事前だよね。突然だけど、旅行に行かない?ノア、前から行きたいって言ってたよね。何とか休み取るからさ。ほら、旅館でオールナイトも刺激ありそうじゃない?」

「えー?うれしいかも。アリサ、絶対だよ。じゃあ、帰ってきたら計画しよ」と、ノアがはしゃぐ。

「うん。旅行中、寝かさないから、覚悟しておいて」

アリサは、唇を厚く尖らせて、湿った声でノアの聴覚を刺激する。

「わかった。アリサの好みそうな下着、買っちゃおうかな」

「期待してくれて、いいよ。じゃあ、また」

通話を終えてスマートフォンをしまうと、冷え込む風が頬にあたる。眼を閉じると、陳腐な罪悪感を捨て、徹底してノアから若い野生をインストールしつくすことを覚悟した。

それでも、ノアがマナミのような存在になることを諦めもしない。全てはお互いが自分の心で望み、自分の言葉で選択していけばいい。

そして、そんな嫉妬と欺瞞に満ちた自分自身を、私は一生軽蔑し続けるのだ。

アリサは、かき分けた土の横で倒れてしまったビオラの花を、調和した元の姿へと整えた。両手の土から滲みだした水分が、指先の皮膚をさらに緩ませる。

体全体に、抗えない重力を感じたが、力強く立ち上がって空を見上げる。

オレンジ色に溶け込んだピンクのコントラストを、高く飛んでゆくシルエットが遠ざかっていった。

(完)


本作をご紹介頂き、ありがとうございました。