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【連載小説】夏の果実が未来を紡ぐ。——翠緑の循環【5】(全9話)

#創作大賞2026 #エンタメ原作部門


【第1話はこちら】


【前回のお話はこちら】


【登場人物】

主人公:ミキ     1997年9月6日生まれ
ミキの兄:ケンイチ  1992年生まれ
ミキの父:マコト   1964年生まれ
ミキの母:マヤ    1966年生まれ

ミキの祖母:ナツエ  1937年7月1日生まれ
ミキの祖父:コウイチロウ 1933年生まれ(享年58歳)

伯父(マヤの実兄):ソウタロウ  1963年生まれ
伯母:ヨシコ     1966年生まれ
従兄:リョウタ    1989年生まれ
従姉:アンズ     1994年生まれ
従姉:カナエ     1997年7月27日生まれ

カナエの同級生:サクラ、アキコ、カケル、トモヤ



4日目の午前、勉強を終わらせたミキとカナエは、公営のプールに来ていた。

スイミングを習っているカナエの、クロールの両腕が弾く水滴がリズムよく舞い上がる。

ミキは大きな浮き輪を安楽椅子のようにして、それをゆっくりと眺めていた。

塩素の匂いは余計だったが、連日の太陽を宿した皮膚に温水プールの揺らめきが心地良い。体の芯の燻りだけを残して、スポンジが乾くようにゆっくりと熱を奪っていく。

「ねえ、何でプールって、水色に塗ってあるんだろうね」

ミキは、浮き輪の上で天井のパイプを仰ぎながらつぶやく。

「なんでだろね。考えたこともなかったわぁ。涼しく見えるもんで?」

カナエはゴーグルを外して水の底を見回した。

「事故が起こっても、すぐわかるようにって、聞いたことがあるんやけどね」

と、横で見ていたヨシコおばさんが言った。

「そうかなあ。みんな、海が恋しいからじゃないかなぁ」

そう言って、ミキはゆっくりと浮き輪を回しながら、去年家族で行った海水浴のことを思い出していた。

「ミキちゃんは、面白いこと言うんやねぇ」

ヨシコが笑って言うと、カナエが、

「海なんて、あんまり連れてってくれんもんで、わからんわぁ」

と、ゆっくり沈みながら、おどけて見せた。


プールから出た後の屋外は、不思議な味がする。

鼻に残る塩素の匂いと、日光が混ざったような。

ほんの数分、濡れた髪の毛が乾いていくのを感じながら、ミキは知らない世界に迷い込んだような錯覚を覚えるのだ。


カナエの家へ戻ってナポリタンスパゲッティを食べると、ばあちゃんから貰った小遣いをポケットに入れて、2人は自転車で飛び出した。

秘密基地に到着すると、すでにサクラとアキコが、古い雑誌におでこが付くくらいに目を近づけていた。

「あ、カナエ」

「よ!カケルたちは?」

カナエが靴を脱いでレジャーシートに上がる。

「2時くらいに来るみたい。まだ結構あるよねぇ」

と、アキコが左腕の可愛らしい腕時計を見て言った。

「それより、2人ともこれ、見て見て!アキコのお姉ちゃんの、もらってきたんやて!」

サクラの握りしめる力で、雑誌が折れ曲がっていた。それはお姉さん向けの少女雑誌だった。開かれたページは、恋やデートに関するノウハウだけじゃなく、かなり際どいイラスト記事も添えられていた。

カナエは早速食いついて、きゃあきゃあ騒いでいる。ミキは、私は動じません、という顔を装っていたが、神経を視力に集中させて、一字一句をスキャンしていた。

そして、昨日ここでカケルとやったババ抜きを思い出すと、耳の奥にザッザッと血液が流れる音が響いた。

「ちょっと、トイレ行って来るね。アキコ、行こっか!」

と、言ってサクラとアキコが、垣根の隙間から奥の雑木林へ消えていき、ミキは少しずつ聴覚を取り戻した。

サクラたちが戻ってからも、雑誌の隅々を皆でチェックしては、いちいちはしゃいでいた。

そうしていると、カナエがちょっと体をゆすり始め、

「うちらもトイレ、行っておこっか」

と、ミキのTシャツの袖を引っ張った。

2人が垣根の隙間を出ると、冷蔵庫を開けた時のような、ひんやりとした湿度が体を包んだ。

少し歩くと目印の赤いスコップが立っていて、縦長の穴の脇に、板が2枚置かれている。

この、男子には絶対秘密の簡易トイレは、もともとはアンズが、ばあちゃんから教えてもらって作り始めたものだ。

孫娘たちは、ダニや虫、危険な植物の心配から、男子のように草むらで無防備になることは避けるよう、言われていた。

ばあちゃんの教えは、穴は毎日別の場所に掘ること、固形物や紙は入れないこと、使い終わったらきちんと土を被せること、安全のために見張りを立てること、土に感謝すること、だった。

「じゃあ、お先に!」

と言って、カナエが走っていく。ミキは後ろを向いて、清涼な木々の擦れる風の感触と、時々聞こえる鳥の声をなぞっていた。

本物のセミの鳴き声に、セミのようなカナエの音程も自然に溶け込む。ここでは誰も、学校のトイレみたいに、縮こまる必要はない。

ミキは、数年前に聞いた、もっと力強いアンズの記憶と、花火大会でのカナエの失言を思い出し、吹き出してしまった。

「はい、ミキちゃん」

カナエはTシャツの裾を整えながら、ミキに紙の入ったレジ袋を渡した。

ミキは、板に両足を乗せてしゃがみ、底に敷いた落ち葉に向かって溜まった熱を解放した。

葉っぱの揺れる音が聞こえる。

冷たい空気の湿度と、自分の体温。

木々と、土と、落ち葉と、それにちょっとだけ混じるポップコーンのような匂い。

土に自分の一部を還しているのに、大地から自然のエネルギーが体に逆流するような奇妙な充足感がある。

それは幼い頃の単純な解放感とは違っていて、まるで、時代を超えた旅人になった感覚だった。

「ヤバイ!カケルらが来た!」

垣根の隙間から雑木林の方に顔を出して、アキコが叫んだ。

「嘘、早くない!?」

ミキは一瞬パニックになったが、覚悟を決めて力を込めると一気に放出し、穴の前まで落ち葉を飛ばした。

土の匂いが撒き散らされ、ミキの中で何かが膨らんで弾けたような感覚があった。

「ミキちゃん、早く早く!」

カナエのいる垣根まで袋を片手に全力疾走して、基地に滑り込んだ。咄嗟に袋をシートの陰に隠すと、その直後、カケルとトモヤがやって来た。

ミキは、

「こんにちは」

と全身から汗を噴き出しながら、爽やかな笑顔を装う。

ミキの内側には、大地の力が漲っていた。自分に注がれるカケルの目線を、しっかりと網膜で受け止めた。

「今日は何する?」

カナエが見回すと、すかさずミキは、

「木登りが見たい!」

と、いつにないテンションでカケルたちに投げかけた。

「え~?」

サクラとアキコは、ちょっと不服そうだったが、トモヤが、

「よし、お客さんに良いとこ見せてやるか!」

と、カケルの背中を叩いた。

ミキとしては、カケルに答えて欲しかったところだが、結果オーライだ。

「じゃあ、公園行こ!うちらは縄跳びしよっか!」

カナエがパンと手を叩いて、シートの上の飛び縄を掴んだ。

「そうしよっかぁ」

気を取り直したようにして、サクラとアキコも自分の縄を持って、基地から出て行った。


公園は、自転車で5分ほどの所にあって、昔から学年や男女が混じって、鬼ごっこやドッジボール、缶蹴りなんかをやっていた。

ミキが、鬼ごっこにも色んな種類があることを知ったのも、この公園だった。

東京の男子の集まりに漂う、電子音とプラスチックのボタンを弾く乾いた指先の質感。それらが一切通用しないこの泥臭い空間の広がりは、都会の塾に囚われていたミキの五感を心地よく狂わせた。

女子たちが縄跳びをしている横で、カケルとトモヤは靴下を丸めて自分の靴の中に入れると、手足に吸盤が付いているかのように、頭より高い場所まで登って行った。

ミキは、汗で背中に貼り付いたカケルのTシャツを見つめ、初めて出会った日を改めて思い出していた。

「イエ~イ!」

と、トモヤがミキたちの方にピースをして、隣でカケルも紅潮した顔でミキと目が合うと、ピースをした。

2人がスルスルと降りてくると、カケルが裸足のままミキの近くまで来て、

「少しだけ、登ってみん?」

と笑顔で投げかけた。

「怖いけど、やってみる」

ミキは、迷わず答え、靴下を丸めてシューズに入れ、芝生に素足を降ろした。

ミキの足裏に、無数の草の先がチクチクと当たり、体重をかけると線維がふんわりと受け止める。

日光で温められた表面と違って、踏むと心地よい冷気が足裏に貼り付く。

歩く度に繰り返す、チクチク、ふんわり、ポカポカ、ひんやり。

ミキは、地面から出てすぐに二股に分かれている木の前まで来た。

「じゃあ、足かけて登ってみてみ」

カケルは体を幹にぴったりと寄せると、両手を組んで、ミキの前に差し出した。

ここしばらくの間、父親にすら素足を触られたことはない。

ミキは少しためらったが、力強く頭上を見据え、右足をカケルの「あぶみ」に乗せた。

一瞬、ふわっと沈む感覚があったが、カケルの筋力の反発が増し、ミキは一気に左膝を蹴り上げて、足を幹の二股部分に乗せた。

「やった!」

ミキは膝を不安定にさせながらも、いつもより高い視界で公園を見回した。

「おお!」

と、カナエが拍手している。カケルとトモヤもハイタッチしていた。

「ミキちゃん一人じゃ危ないもんで、カケルも登ってあげたら?」

どうやら、カナエは気を利かせているらしい。カケルは、

「そうだな」

と言って、スルリとミキの左隣に登って立った。

「もう少し高いと、もっとよく見えるんやけどなぁ。また今度な」

ミキは、これ以上ないくらいに汗をかき、声の方は向けなかった。

「うん」

と、ミキはカケルにだけ聞こえる大きさで答えた。

しかし、噛みしめていた静謐は、サクラの大声で破られた。

「カナエ、無理にカケルのこと押し付けるのやめなよ!ミキちゃんは明後日帰るんやろ?きっと困っとるじゃん!」

「別に、押し付けとらんけど?」

カナエも口調が強くなる。

「もうええわ。今日は暑すぎるし、私もう帰るでね!」

サクラはキュッと飛び縄を結んで籠に入れ、ヘルメットもせずに自転車に飛び乗って行ってしまった。

「あ。私も!またね!」

と言って、慌ててアキコも後を追う。

ミキの足の裏の樹皮が急にゴツゴツしだした。

「じゃあ、ミキちゃん、こっちに足降ろして」

カケルに補助され、トモヤの手を経て、地上に降りる。

一瞬、カケルと少し抱き合っているように掴まっていたはずなのに、ミキは、草の混じった足裏の泥の汚れだけが気になって仕方がなかった。

「じゃあ、俺らも、今日はそろそろ行くわ」

カケルとトモヤも、申し訳なさそうに去って行った。


「ごめんね、カナエちゃん……」

ミキがベンチに座って、足裏の汚れを払う。

「気にせんどいて。なんや、サクラ、カケルのこと好きだったんかな。ちょっと前まで、アツシ好きって言ってたのになぁ」

そう言って、カナエはミキの靴下を伸ばして、差し出した。

ミキは、自分の成績が伸びて、同じランクだった塾の友達と、急に疎遠になってしまった事を思い出してうつむいた。

「ほんと、気にせんでもいいよ。サクラは時々ああなんやて。明日には謝ってくるもんで」

「うん」

「そうだ、小遣いもらったし、<ヨシダ>行こまい、<ヨシダ>!」

カナエは、靴を履いたミキの手を強引に引いて、自転車に乗った。


ヨシダストアーは、カナエの家のすぐそばにあった。ミキにとって、スーパーと、コンビニと、ホームセンターと、ドラッグストアを、足して小さくしたような存在だった。

「こんにちは!」

カナエは元気よく、入り口そばにあるレジカウンターのおばさんに声をかけた。

「あら、カナエちゃん、そっちは、見かけんお友達だねぇ」

店内はクーラーがあまり効いておらず、おばさんは首にタオルを巻いてうちわを仰いでいた。

「いとこのミキちゃん」

「そうかいそうかい、ゆっくりしていってね」

ミキとカナエは、駄菓子があるコーナーへ移動した。隣には文房具や、可愛らしい雑貨も並んでいる。どこで生産しているのか、東京では見かけない商品もある。

少し傾いた日光と、店内の間引かれた蛍光灯の光が混ざり合い、ミキの横顔を照らす。

ミキの厚く塗られたはずの瑞々しさの隙間から、帰京するカウントダウンが沸々と聞こえるようだった。

カナエがキャンディーを物色している間に、ミキは緑色のガラス玉が施された髪留めを右手にした。

ガラスの硬さと、留め具の凹凸だけが浮き出て、温度がわからない。

店内がさらに暗くなった感じがして、自分の脈拍が首のあたりで聞こえた。

ミキは無言で右手を半ズボンのポケットに近づける——。

「ミキは、大事なこと、全部わかってる子だ」

ばあちゃんの声がした。

ミキは息を止めて、震えた右手をゆっくりと棚に戻した。

緑色のガラス玉は、汗で光っていた。

ミキは何回も瞼をパチパチすると、

「カナエちゃん、今日は、もう帰ろう」

と、興奮した様子でカナエの腕をつかんだ。

「じゃあ、おばさん、また!」

訳も分からぬまま、カナエはミキと一緒にレジカウンターの前を通り過ぎた。

「ナツエさんは、元気かね?今年も暑いもんで、水ちゃんと飲むように言っといてね!」

おばさんは、老眼鏡の上から目を覗かせて、笑顔で2人に手を振った。


ばあちゃんの家に着いてからも、ミキは黙ってうつむいていたが、それを見ていたばあちゃんも、何も言わなかった。

「さあさ、今日はライスカレーにしたもんでね」

ばあちゃんが、深皿に盛られたカレーと、コップの水に浸したままのスプーンを、お盆に乗せて持ってきてくれた。

「ばあちゃんのカレーかあ。肉入ってないもんな~」

カナエが、両腕をテーブルに拡げて笑った。ばあちゃんの家は、お金には余裕があったはずだが、なぜかいつも魚肉ソーセージが入っていた。

コップからスプーンを取って、カレーを掬う。少しモッタリとした抵抗が、見た目よりも大きい重量を手に伝える。

しかし、決して美味しいとは言えないその塊を口に入れて、鼻に抜けるカレー粉と魚肉ソーセージの混じった香りと温度が、ミキの脳の底の方から順に、全身を温めていくのだ。

「何、ミキちゃん、泣いてるの?」

カナエがミキの顔を覗き込む。

「ちょっと、辛くしすぎたかねぇ」

目元を隠すミキのコップに、ばあちゃんが氷水を足した。




【次回予告】

昭和37年、宮崎の緑色の海。
ばあちゃんが夢見た景色と、カケルへの思いを胸に、ミキはハイヤーの冷たい遮断のなかで都会へと引き戻される。
この時交わしたひとつの約束が、15年後の羽田空港の「作戦」へと繋がっていく――。