【連載小説】夏の果実が未来を紡ぐ。——翠緑の循環【7】(全9話)
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【登場人物】
主人公:ミキ 1997年9月6日生まれ
ミキの兄:ケンイチ 1992年生まれ
ミキの父:マコト 1964年生まれ
ミキの母:マヤ 1966年生まれ
ミキの祖母:ナツエ 1937年7月1日生まれ
ミキの祖父:コウイチロウ 1933年生まれ(享年58歳)
伯父(マヤの実兄):ソウタロウ 1963年生まれ
伯母:ヨシコ 1966年生まれ
従兄:リョウタ 1989年生まれ
従姉:アンズ 1994年生まれ
従姉:カナエ 1997年7月27日生まれ
カナエの同級生:サクラ、アキコ、カケル、トモヤ
昼12時30分。羽田空港第2ターミナル。集合時間だ。
新型コロナで抑制された人々の心が、5類への変更で解放されたかのように、空港内は熱気と笑顔で包まれていた。
<ケンイチ:もうすぐ、着く。先に保安検査通っておいて>
ケンイチからのメッセージを確認すると、ミキはゲートBに向かって歩き出した。

手荷物カバンをトレイに乗せ、保安ゲートを通り過ぎる。アラームは鳴らず、係員が無表情に、
「どうぞ」
と、手招きする。
奥では、ミキのカバンが透視装置によって幾筋もの輪郭が露わになっていた。
ミキは、モニターを確認する係員の後ろ姿を見つめながら、わずかに己のこめかみに感じる拍動が早まっているのを自覚していた。
湿気を帯びた右手の指先が、ヌルヌルと滑った。
「あ~、出来ない問題、あったよ~」
ミキは、後ろの席を振り向いて、右手の汗を弾いたシャープペンシルを、ペンケースにしまいながら笑った。
中学生になっても、テストの時に手に汗をかいて、答案用紙がフニャフニャになる体質は変わっていなかった。
「まあ、でも、これで夏休みじゃん?夏期講習もそんなに大変じゃないらしいしさ」
と、ミキの後ろの女子生徒が答えた。
ミキは、第1志望の中学校には合格できなかった。
母マヤは、比較的偏差値が第1志望校に近い第2志望の学校に入れたかったようだったが、ミキは、この中高一貫校を選んだ。
母には、毎日通いやすいことを理由に挙げていたが、勉強以外の、人として大切なものを重んじる校風に惹かれたのかもしれなかった。
テストが終わったミキは、夏休みに久しぶりに母の実家へ行く計画を話そうとしていたのに、母は怪訝な表情で仕事から帰宅した。
母は、玄関で靴を脱ぎながら、
「おばあちゃん、入院したみたい」
と、真顔で制服姿のミキに言った。
「どういうこと?病気なの?」
ミキは、急に胃の圧迫感を感じて、思わず母の細い左腕を掴んだ。
「太ももの骨折だって。とりあえず、お母さん、休み取って様子見に行ってくるから」
そう言って、母は家の電話で、ソウタロウおじさんと連絡を取り始めた。
「じゃあ、ちゃんとやっててね。ケンイチがサボらないように、見張ってね」
翌朝、旅行カバンを片手に、足首見せのボトムス姿の母が言った。
「ちゃんとやりますよ。ばあちゃんたちによろしく」
髪がボサボサのままのケンイチが手を振る。
「ばあちゃんに、これ渡して」
ミキは、手作りのカラフルなミサンガを母の右手に潜り込ませた。
車の助手席に乗り込む母の後ろ姿に、ミキは祈りを託した。
その日の夜、母から電話があった。
「ミサンガ、渡せたわよ。おばあちゃん喜んでた」
「で、大丈夫なの?」
「総合病院に転院になって、明日手術だって。なんか最近、おばあちゃん、家に帰る時に道が分からなくなることがあるんだって……」
電話でも、母が落ち込んでいるのが分かる。
「それでね、昨日も家の近くの道路で混乱しちゃったみたい。側溝に足がはまって転んじゃったんだって」
「それって……」
ミキは言葉を飲み込んだ。認知症のことは中学生でもわかる。
「とにかく、リハビリが終わるまで何か月もかかるから、みんなで会うのはもうちょっと先にしましょう」
母の気持ちを思うと、ミキは短く返事するしかなかった。
手術から3日。母は日常に戻っていた。その日の夕方、ソウタロウおじさんの携帯電話を通じて、ばあちゃんが電話をかけてきた。
「ごめんねえ、心配かけて。まだまだ若いつもりやったんだけどねえ。リハビリ頑張るもんで、お正月にでも会おうねぇ」
変わらない、ばあちゃんの声だ。
ミキはたまらなくなって、受話器を耳に当てたまま、何度も頭を振ると、髪の何本かが目尻に貼り付いた。
「頑張ってね、ばあちゃん。絶対、会いに行くから。もう、トマトの季節は終わりかもしれないけど」
レースのカーテンから漏れる幾筋もの光線が、テーブルの傷を露わにしていた。
テレビのCMではクリスマスソングが流れ、夜中の床板が足裏を刺すような季節になっていた。
ばあちゃんは無事退院して、家に戻っていた。ソウタロウの家に同居することを勧めたが、頑なに拒否したらしい。
ミキは、寝床にいた。
「ごめんな、ミキ。うつしちゃって」
と、ケンイチが申し訳なさそうに言う。
「逆に、もう治ったから、お兄ちゃん最強じゃん。受験直前にもビクビクしなくていいし」
ミキは、赤い顔で時折痰を絡ませて返した。こんなに熱があるのに、手足の指先だけが痺れるように冷たい気がして、何度も太腿の間に挟んだりしてみた。
別の部屋では、父母も寝込んでいた。
「インフルエンザなんて、久しぶりだな……ばあちゃん、大丈夫かな」
首の真ん中から頭蓋骨の内側が、拍動と共に痛い。ミキは朦朧としながらも、頭に当てる保冷剤に、ばあちゃんのひんやりした手のひらの記憶にすがる。
ミキは、一人で冬を過ごす、ばあちゃんのことを思うとたまらなくなり、布団を被った。
年が明けてからも、ミキは頻繁にばあちゃんに電話をしていたが、ケアマネジャーさんの助けもあって、一人で何とかやれているようだった。
ケンイチは、センター試験と2次試験を突破し、無事合格を勝ち取っていた。
ミキたち家族全員で、ばあちゃんに会いに行くのに何の障害もない。ミキは、3度目の正直を信じていた。
しかし、3月11日、ミキたちはテレビの前で言葉を失っていた。
映画の特撮か、CGにしか思えない光景。
ミキは、全身の毛穴が、氷の針で刺激されているような感覚のまま、無表情になって画面を見つめていた。
いつも、ばあちゃんが言っていた、時に人間にとって、あまりも過酷な自然の力、とは、このことなのか。
それを、ありのままに受け止めるには、ミキはまだ若すぎた。
社会の混乱もあって、ミキの家族が、ばあちゃんに会えるようになったのは、その秋だった。
早朝に家を出て、高速道路を走る。
車内でエンドレスに流れるビートルズのCDの種類が、物凄く増えていた。
そしていつしか、ミキとケンイチも、大体の曲は口ずさめるようになっていた。
「ばあちゃん、ソウタロウおじさんの家にいるんでしょ」
ミキが、追い越し車線の車を見送りながら、炭酸飲料のペットボトルに口をつける。
「ちょっと、火の扱いが危なくなってるみたいだから。先生から、もう、一人暮らしは無理だろうって」
母も、窓の外の緑の標識が近づくたび、文字だけを追っていた。
途中、3年前と同じ大型サービスエリアに立ち寄った。
あの時、遊園地に入った時の様に感じられた高揚感は、今のミキにはない。
「そうかあ」
ミキは呟く。今や、3年前のアンズと同じ学年になっていた。
テンションのスイッチが入る閾値が、極端に高くなってしまったのは、こういう事だったのか。
4人で、大人しくラーメンをすすり、売れ筋の土産を買って、車内へ戻る。
「あっ」
車が本線を走りだすと、ミキは湖を見忘れてしまったことに気づいた。
しかし、他の誰も、そのことに気づいていないようだった。
秋の土曜日の道路は混んでいて、ソウタロウの家に到着したのは、太陽が強いオレンジに輝く頃だった。
インターホンを鳴らすと、相変わらず日焼けしたカナエが上下ジャージ姿で出てきた。
「ミキちゃん、久しぶり」
カナエはソウタロウの仕事にくっついて時々東京に来ていたので、この3年の間にも、ミキとは何度か遊んでいた。
「カナエちゃん、これお土産。で、ばあちゃんは?」
ミキが尋ねると、カナエの後ろからエプロン姿のヨシコおばさんが出てきて、
「その時によって、色々なんやけど……。まあ、とにかく入って。今日は調子いい方やで、大丈夫だと思うよ」
と、ミキたちを促した。
体格の良かったヨシコは、一回り小さくなっていて、髪は使い古した化学モップのようになっていた。
ミキの耳元でカナエが、
「結構、大変なんだ」
と、囁いた。
リビングに入ると、ばあちゃんはソファに座っていた。
「あら、ミキ、よく来てくれたねぇ。写真で見とったけど、本当に大きくなって。ケンイチも立派なもんだ。マコトさんも疲れたやろ。マヤも、また派手な服着てねぇ」
ばあちゃんは、弱々しく立ち上がって歩み寄り、ミキを見上げた。
「ばあちゃん、会いたかったよ」
ミキは、ばあちゃんの両手を持ち上げる。皺だらけなのに、餅の様にスベスベで、少しだけひんやりとした、いつものばあちゃんの手。その手首には、ミサンガが巻かれていた。
「良かった。元気そうで」
ミキは、3年前と同じ、ばあちゃんの目を見つめて言った。
夕食は、ソウタロウおじさんが、寿司を注文してくれていた。
ばあちゃんも、背の低い椅子に腰かけて、楽しそうにテーブルを囲んだ。
「やっぱり、ケンイチ君は凄いわねえ。現役で医学部やろ。来年度は、アンズが大学受験、カナエが高校受験やけど、2人とも志望校もはっきりせんのだでねえ」
ヨシコおばさんは、お盆から味噌汁のお椀を、順にテーブルに並べながら言った。
すかさず、ケンイチが、
「幸い、頭の回転は、ソウタロウおじさんに似たんだと思います」
と返して、皆の笑いを取った。
「マヤは、どうなんだい、学校、楽しいかい」
ばあちゃんが、ミキに向かっていつもの笑顔で言った。
ミキの家族は皆、動きを止めたが、ソウタロウ一家は何事もなかったかのように寿司を突いていた。
今、確かに、<マヤ>と、言った。
ミキの持つ箸が拍動と同期して震え、食べたばかりのイカが食道のあたりまでこみ上げた。
風呂こそ別々に入ったが、ミキはカナエのベッドの横にぴったりと布団を敷いていた。
「カナエちゃん、まだ医大病院行ってるの?」
暗闇に目が慣れてきたミキが、カナエに投げかける。

「本当は、6年の時でもう大丈夫だって言っとったんだけど、お父さんが先生にお願いして、2年にいっぺん、検査続けることになった」
「そうなんだ。ソウタロウおじさん、昔からカナエちゃんのことになると、心配性だもんね」
ミキが言い終わると、少しだけ間があって、カナエがこちらに体を向ける音がした。
「ミキちゃん、どう思った?ばあちゃんのこと」
「うん。思ったよりは、普通だった」
ミキは、名前を間違えられたショックは、口に出さなかった。
「今日は、かなり調子良かったもんでね。時々、目つきが変わっちゃうんだわ。自分で物を無くしてるのに、お母さんに盗まれたって言ったりしてね」
カナエは淡々と言ったが、声が小さく震えて聞こえた。
「そっか。おばさんも、大変そうだもんね」
「ずっと見張っとるわけには、いかんしね」
2人はそれ以上、何も言えなかった。気づいたら、寝付いていた。
翌日、和やかに朝食を終えると、ミキの家族たちは帰り支度をしていた。
「私が高校受験モードになる前に、一緒に舞浜行こうよ、ミキちゃん」
カナエが、セーターの袖口から手を半分だけ出して振って見せた。
「もう帰るんかい、マヤ。もっとゆっくりしていけばいいのになぁ」
ばあちゃんは、少し不安そうな表情だった。そういえば、こんなばあちゃんの表情は、あまり見たことがない、とミキは思っていた。
「ごめんね、お母さん。仕事もあるし。また、時々顔見せるから」
コートを着た母が、ばあちゃんの背中に手を当てる。
「ミキも、元気でな。勉強ばっかりじゃ、いけんよ」
「じゃあ、ばあちゃん、元気でね」
ミキも、喉のあたりが染みるような刺激を受け、ばあちゃんの両手をぎゅっと握った。
やはり、すべすべしていて、少しひんやりしていた。
しかし、線香と畳の匂いは、感じなくなっていた。
【次回予告】
「これ、ミキだけの秘密だからね」。
新幹線の車内で、初めて明かされる母マヤの過去と、東京への憧れの記憶。
鮮烈なトマトの感触。
迷子になっていた何かを取り戻したミキが全身で受け止める、ナツエばあちゃんの、最後の輝き。
