MVP ARCHIVE PEOPLE | Douglas MacArthur (1880-1964) / ダグラス・マッカーサー - 戦い占領し再建を導き統制の原則により解任

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ダグラス・マッカーサー - 戦い占領し再建を導き統制の原則により解任
ダグラス・マッカーサー(1880–1964)は、20世紀前半のアメリカを代表する軍人であり、第二次世界大戦 の太平洋戦争、日本占領、朝鮮戦争 という東アジアの歴史的転換に深く関わった人物である。
太平洋戦争では南西太平洋方面の連合国軍を指揮し、日本の降伏後には Supreme Commander for the Allied Powers( SCAP / 連合国軍最高司令官 )として占領政策を主導した。
朝鮮戦争 では戦争の進め方をめぐって ハリー・S・トルーマン大統領 と対立し、1951年に司令官を解任された。
軍事的能力、強烈な自負、政治との緊張、マッカーサー の生涯には、民主国家において軍事指導者の権限はどこまで認められるのかという問題も刻まれている。
軍人一家に生まれる
1880年、マッカーサー はアーカンソー州リトルロックで生まれた。
父アーサー・マッカーサー・ジュニアも軍人で、南北戦争や米西戦争、フィリピンでの軍務を経験している。
ダグラス は陸軍士官学校ウェストポイントへ進み、1903年に卒業した。
第一次世界大戦 では第42師団に所属してヨーロッパ戦線で戦い、複数の勲章を受章、その後ウェストポイント校長などを経て、1930年にはアメリカ陸軍参謀総長に就任した。
Philippines
マッカーサー とフィリピンの関係は、その後の人生を大きく左右した。
1935年、フィリピン・コモンウェルス政府の軍事顧問となり、独立後を見据えた軍の整備に携わった。
1941年、太平洋戦争が始まると、日本軍はフィリピンへ侵攻、米比軍はバターン半島やコレヒドール島などで抵抗したが、戦況は悪化する。
1942年3月、フランクリン・D・ルーズベルト大統領 の命令を受け、マッカーサー はフィリピンを離れてオーストラリアへ移動した。
その際に残した言葉が、“ I shall return. ” 「私は必ず戻る」だった。
Pacific War
オーストラリアに到着した マッカーサー は、南西太平洋方面連合国軍最高司令官となり、ニューギニア方面からフィリピンへ向けて進撃し、1944年10月、レイテ島に上陸、約2年半前に残した言葉どおり、フィリピンへ帰還した。
その後、連合軍はフィリピン各地で日本軍との戦闘を続け、1945年8月、日本は ポツダム宣言 を受諾し、第二次世界大戦 は終結へ向かった。
同年9月2日、東京湾に停泊する戦艦USS Missouri上で日本の降伏文書への署名式が行われ、マッカーサー は連合国を代表して式典を進行した。
Occupation of Japan
日本の降伏後、マッカーサー は SCAP( 連合国軍最高司令官 )として日本占領の中心に立った。
占領政策の基本方針は、日本の非軍事化と民主化だった。
日本軍の解体、戦争犯罪人の逮捕、公職追放、農地改革、労働制度改革、教育改革、女性参政権の実現など、戦後日本の政治・社会制度に関わる大規模な改革が進められた。
1946年にはGHQ草案を基礎とする 日本国憲法 の制定作業が進み、1947年5月3日に施行され、象徴天皇制、基本的人権、国民主権、戦争放棄などを柱とする新しい憲法体制が成立した。
占領政策は マッカーサー 一人によって決定されたものではなく、アメリカ政府、SCAPの各部門、日本政府、極東委員会など多数の組織と人々によって進められたが、マッカーサー は極めて大きな権限と影響力を持っていた。
天皇との会見
1945年9月27日、マッカーサー は昭和天皇と初めて会見した。
このとき撮影された二人の写真は、日本社会に大きな衝撃を与えた。
占領政策では天皇を戦争犯罪人として訴追せず、天皇制を存続させながら、その政治的性格を大きく変更する方針が採られた。
1946年、昭和天皇はいわゆる「 人間宣言 」を発表。
その後、日本国憲法 によって天皇は「 日本国の象徴、日本国民統合の象徴 」と位置づけられた。
朝鮮戦争
1950年6月、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国へ侵攻し、朝鮮戦争 が始まり、
マッカーサー は国連軍司令官として戦争を指揮する。
同年9月には仁川上陸作戦が成功し、国連軍は戦況を大きく反転させた。
その後、国連軍は北朝鮮領内へ進撃したが、中国人民志願軍が大規模に参戦すると戦況は再び変化、マッカーサー は中国への軍事的圧力をさらに強めることを主張した。
しかし トルーマン政権 は、戦争が中国やソ連を巻き込んだより大きな戦争へ拡大することを警戒していた。
Truman vs. MacArthur
マッカーサー と トルーマン大統領 の対立は次第に表面化、問題は単なる軍事戦略の違いではなかった。
アメリカ合衆国では、大統領が軍の最高司令官であり、軍事政策は文民政府の統制下に置かれるが、マッカーサー は政府方針と異なる見解を公に示し続けたため、1951年4月11日、トルーマン は マッカーサー をすべての司令官職から解任した。
非常に高い人気を持つ著名な軍人を大統領が解任するという決定は、アメリカ国内で巨大な政治論争を引き起こした。
帰国した マッカーサー は議会で演説し、“ Old soldiers never die; they just fade away. ”「 老兵は死なず、ただ消え去るのみ 」という言葉を残した。
歴史的意義
第一次世界大戦 を経験し、太平洋戦争を指揮し、日本の降伏に立ち会い、その後は敗戦国日本の統治を担った。
さらに 朝鮮戦争 では、冷戦初期の軍事衝突を指揮することになる。
現在の日本の政治制度、社会制度、農地制度、労働制度、教育制度などの形成過程には、占領期に実施された改革が深く関係している。
同時に、その巨大な権限を持った マッカーサー 自身が、最後には民主国家の文民統制によって軍の指揮権から外された。
MVP Perspective
戦場では巨大な軍事組織を率いる司令官。
戦後日本では国家制度の再構築に関与する占領統治者。
そして 朝鮮戦争 では、自らの軍事的判断と国家の政治判断が衝突した軍人だったが、軍事的に合理的な判断と、国家全体として合理的な判断は、必ずしも一致しない。
戦場を指揮する者には戦場が見える。
しかし国家の指導者は、外交、同盟、国内政治、他国の反応、そして戦争そのものが拡大する可能性まで含めて判断しなければならないため、マッカーサー の解任は、一人の将軍の失脚だけを意味する出来事ではなかった。
どれほど実績があり、どれほど国民的人気を持つ軍人であっても、軍事力は選挙によって選ばれた文民政府の統制下に置かれる。
その原則が、極めて大きな政治的代償を伴いながら実行された瞬間でもあった。
マッカーサー の歴史は、優れた指導者とは何かという問いだけではなく、
大きな力を持つ人物を、社会はどのような構造によって制御するのか。
という、民主国家そのものに関わる問いを残している。

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