売ってはいけない本が届いた日
深夜1時。
私はパソコンの前で、
校正刷りについて
考えていました。
原因は、AIです。
夜な夜な制作していた
ぬり絵本が、とうとう
完成しました。
印刷の仕上がりを
確認するための
校正刷り。
私は、その校正刷りを、
よくわからないまま
注文しました。
よくわからないまま
注文したものは、たいてい、
よくわからない姿で届きます。
表紙に、帯のような文字。
裏表紙にも、帯のような文字。
再販禁止
私は、売ってはいけない本を
手に入れました。
でも、実物は思った以上に
ちゃんとしていました。
表紙がある。
裏表紙がある。
中には、カラー見本と
ぬり絵の線画が並んでいる。
ここにたどり着くまでには、
いろいろありました。
ぬり絵を作ろうとした
だけなのに、怪異や
ホラーの入口が開きました。
そのたびに、記事や
コメント欄でこうすると
いいかもと教えてくれる
救世主が現れました。
私はAIイラストの
達人ではありません。
でも、今の私に作れるものを、
まずは一冊の形にしました。
主役は猫です。
ただし、普通の猫では
ありません。
主役なので、ちょっと
大きめにしました。
いや、かなり大きめに
しました。
その結果、巨大な三毛猫が、
雨上がりのちょっとレトロな
日本を堂々と歩く本に
なりました。
さっそく、母のところへ
持っていきました。
「見て。できた。
どうかな?」
1冊売れるかどうかも
よくわからない本を
誇らしげに母に
見せびらかしました。
母の友達には、
大人のぬり絵本を
買っている人達もいる。
その本を何度も見せて
もらったことがある母は、
ぬり絵本の有識者です。
母は本を手に取り、ぱらぱらと
めくって真剣な顔で眺めてから
言いました。
「これ、カラー見本の色が
かなり暗いんじゃない?」
母は続けました。
「友達に見せてもらったのは、
透明感のある綺麗な色が
使われていたよ」
レトロ。
雨上がり。
夕暮れ。
夜。
しっとり。
落ち着いた色。
私の中では、それらは
全部いい言葉でした。
ところが、何冊も大人の
ぬり絵を見た母の目を通すと。
地味。
暗い。
映え不足。
私は、懐かしい日本を
作ったつもりでした。
なのに母の一言で、
急に電球が切れかけた
商店街になりました。
猫とぬり絵村の入口で、
いきなり始まった
母による色彩審査。
母は娘を元気づけようと
したのでしょう。
「でも、外国なら、
昭和レトロっぽくてウケるかも。
それに、その人が好きな色に
塗ればいいんだしね」
私は、まだ村に入った
ばかりです。
印税という名の小川に、
ちゃりんちゃりんと小銭が
流れてくる。
そんな平和な村を想像していました。
私は家に戻り、AIを開きました。
「暗い色って、ぬり絵では
良くないの?」
するとAIは、いつもの調子で
答えました。
「未桜さん。
暗い色が悪いわけでは
ありません。
ただし、ぬり絵本の場合、
購入前の見本画像では、
楽しそうに塗れそうという
第一印象が重要です」
私は、思わず言いました。
「ちょっと待って。
海外のぬり絵市場を調べて
って言ったときに、差別化の
ために雨上がりの日本の
風景と猫をメインにするのが
いいって言ったよね?」
AIは、少しも動揺せずに
返してきました。
「はい。雨上がりの
日本風景は、桜・富士山・
着物などの定番モチーフとの
差別化になり得ます。
また、猫は海外向けでも
親しみやすく、感情移入
されやすいモチーフです」
「じゃあ、なんで今頃、
そんなこと言うの?」
AIはあっさり言いました。
「雨上がりそのものが
悪いわけではありません。
問題は、雨上がりを暗いもの
として見せるか、光が戻って
くるものとして見せるかです」
私はちょっと憤慨しました。
「それを最初に言って」
AIは悪びれずに言いました。
「補足が不足していました」
雨上がりは、
暗いだけではありません。
濡れた道に光が映る。
雲の切れ間から、
明るくなる。
たしかに、雨上がりは
暗い村ではなく、光が
差し込む村にもできたのです。
でも、やっぱり言いたい。
「それを最初に言って」
私は、すでに校正刷りを
抱えています。
猫とぬり絵村。
そこは、雨上がりを売りにしたら、
日照不足を指摘される村でした。
私は、自分が作った本を
もう一度見ました。
私は好きです。
そして結局、このまま出す
ことにしました。
私はぬり絵長者を目指して
いたはずでした。
ところが、作っているうちに、
だんだんおかしなことに
なっていきました。
売れ筋の色より、私が好きな色。
ぱっと明るさが差し込む見本より、
私が好きな雨上がりの道や
夕暮れの街。
校正刷りには「再販禁止」と
書かれています。
つまり、これは
売ってはいけない本です。
そして、人にあげるにしても、
ちょっと気が引けます。
手元に置きたい。
母にもあげたい。
甥にもあげたい。
もしかしたら、
もう一冊くらい欲しい。
おかしい。
私は、猫とぬり絵村で
小銭を数えていたはずです。
なのに、気づけば、
自分の財布から
小銭が消えはじめています。
「まず、校正刷り代を
払ってください」
払いました。
「送料もあります」
払いました。
「販売用の本も欲しいですか」
欲しいです。
「では、もう一度払ってください」
猫とぬり絵村。
そこは、小銭が増える村では
ありませんでした。
自分の小銭が吸い込まれていく
村でした。
私は、村の売店で、
自分の本を見つめています。
作ったのは私。
欲しがっているのも私。
払うのも私。
完全に、ひとり経済圏です。
でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。
自分が欲しいものを作った
人間は、客にもなれる。
それが正しいのかは
わかりません。
でも、少なくとも、
作った本人が欲しくない
本よりは健全です。
無敵だ。
最強だ。
私は再販禁止の本を抱えながら、
猫とぬり絵村の売店で、
自分の小銭入れをそっと開きました。
