父は日本酒が苦手だった。なのに獺祭の瓶を眺めた
深夜1時。
私はパソコンの前で、
有名なお酒について
考えていました。
原因は、AIです。
いや。
正確には、父の日から
お預けになっていた獺祭です。
父の日に、父は足の指を
柱へぶつけました。
負傷した父。
大好物のカツは食べた。
獺祭は飲めなかった。
そんな父の足指事件も、
ようやく落ち着きました。
毎日痛み止めを飲まなくても
よくなり、冷蔵庫で待機していた
獺祭に、やっと出番が来たのです。
ただの獺祭ではありません。
スパークリング獺祭です。
父は瓶を見て言いました。
「これ、有名なのか?」
私は言いました。
「そうらしいよ」
アルコールを一滴も飲めない母が、
無邪気に言いました。
「何が有名なの?」
父と私は黙りました。
知りません。
我が家は、わりとミーハーです。
「これ、有名らしいよ」
と言われると、深い意味もなく
背筋をピンとします。
私はAIに聞きました。
「獺祭って、何が有名なの?」
AIは、いろいろ説明してくれました。
酒米。
磨き。
純米大吟醸。
ブランド。
海外でも知られている。
父は言いました。
「つまり、有名なのか」
雑です。
でも、我が家族には
それで十分でした。
何が有名かは、
よくわからない。
しかし、有名であることは
確認できた。
我が家のミーハー審査は、
無事に通過しました。
私はグラスに獺祭を注ぎました。
しゅわしゅわしています。
父は、少し警戒した顔で
グラスを持ちました。
そして、突然言いました。
「日本酒、あんまり好きじゃ
ないんだよな」
えっ?
どういうこと?
私は耳を疑いました。
なぜなら父は、正月や
ここぞというときに
日本酒を飲む人だったからです。
私はずっと、父にとって
日本酒は特別なお酒なのだと
思っていました。
ふだんはビールか
安いワイン。
でも、正月は日本酒。
ふだんは庶民。
でも、ここぞという日は
羽織袴。
そんな感じの位置づけだと
勝手に思っていました。
ところが、父は言いました。
「日本酒は、なんか甘いだろ」
そうだったのか。
父にとって日本酒は、
晴れの日の酒ではなく、
晴れの日だから仕方なく
飲む甘い酒だったのか。
父は、少し飲みました。
黙りました。
もう一度飲みました。
そして言いました。
「これは、うまいな」
苦手の撤回が
早すぎるのではないか。
父はさらに言いました。
「甘いけど、さっぱりしてる」
それは、さっきAIに聞いたときに
説明された内容です。
AIの回答に影響されすぎでは
ないのか。
父は瓶を手に取りました。
ラベルを見ています。
有名な酒を理解した男
の顔をしています。
私は、その顔を見ながら
疑いました。
本当においしかったのか。
それとも、
有名な酒を飲んでいる自分
込みでおいしかったのか。
父は、また飲みました。
そして、しばらくして
ぽつりと言いました。
「また、こういうのが
あってもいいな」
遠回しな再購入希望です。
直接的ではない。
そこは父なりの品があります。
しかし、言っていることは
ほぼ同じです。
有名なお酒は、ずるい。
飲む前から、勝確です。
味だけで勝負していない。
名前。
ラベル。
瓶の雰囲気。
有名らしいという雑な情報。
その全部が、
グラスの中にちょっとずつ
注がれている。
私はAIに聞きました。
「有名なお酒って、名前の影響で
おいしく感じることってあるの?」
AIは答えました。
「未桜さん、あります。
人は味そのものだけでなく、
価格、ブランド、評判、
希少性などの情報にも影響されます」
でしょうね。
知っていました。
でも、それを実家の食卓で見ると、
なかなか味わい深いものがあります。
かなり都合がいい。
けれど、人間はだいたい
そういうものです。
「流行りものは嫌い」と言いながら、
自分が気に入った流行りものだけは
「これは別」と言います。
「ブランドには興味がない」と
言いながら、有名な名前が出ると
ちょっとだけ目が輝きます。
父だけではありません。
私も同じです。
「これ、有名らしいよ」と言われると、
何がどう有名なのか知らないまま、
一度、背筋をピンとします。
私は、父を笑えません。
ただ、観察はします。
父はまた瓶を見ました。
瓶を見る時間が、
さっきより長い。
もはや父は、
日本酒を飲んでいるのでは
ありません。
獺祭というしゅわしゅわした
情報を飲んでいます。
でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。
人間の舌は、
思っているほど味だけを
判断していません。
だから、父が本当に
獺祭をおいしいと思ったのか、
有名という言葉に後ろから
ドンと背中を押されたのか。
それは、もう
観察しなくても
いい気がしました。
父が瓶を眺めて、
うれしそうだった。
それだけで、
獺祭は十分に仕事をしました。
無敵だ。
最強だ。
私は、父のグラスを見ました。
父は、苦手なはずの日本酒を
また飲みました。
そして、何でもない顔で
言いました。
「これは、おいしい」
その顔は、
かなり素直でした。
父は、有名という言葉に
たぶん惑わされた。
でも、たまには
惑わされておいしくなるものが
あってもいい。
実家の食卓で、
スパークリング獺祭は
しゅわしゅわ
泡立っていました。
父の日本酒は苦手という
気持ちも、その泡にまぎれて、
ちょっぴり軽くなったようでした。
