15|『認知摩耗ラボ』🔧
『深層行動SF 脳の地形図』(全22話のもくじへ)
— 疲れた日の脳はどこが擦り減っているのか
夕方になると、
メールの文章が思いつかなくなったり、
人の名前が出てこなくなったり、
何でもない判断に妙に時間がかかる。
“ああ、脳が疲れてるな”
そう思うことはよくある。
でも——
どこが、どう疲れているんだろう?
そうつぶやいた瞬間、
私は白い光に包まれ、
静まり返った研究所に立っていた。
そこは 『認知摩耗ラボ』 と呼ばれていた。
研究所の中央には
大きな透明パネルがあり、
その表面には
「注意」「判断」「記憶」「抑制」「処理速度」
などのラベルが並び、
各項目の“摩耗レベル”が淡く揺れていた。
「ようこそ。ここでは、
あなたの認知機能が“どこで疲れているか”を計測しています。」
透明な影のような存在がそう告げた。
パネルの一部が赤く光っている。
「これは“注意の散逸”です。
周囲の情報を拾い過ぎて、
本来の焦点が保てなくなっています。」
別の部分はわずかにチラついている。
「ここは“抑制機能”。
不要な反応を止める力が弱っているので、
些細なことにイラっとしやすくなっています。」
私は苦笑した。
「なるほど……今日はフィルターが薄いわけだね」
「その通りです。
脳の疲労は筋肉とは違い、
“摩耗箇所”が日によって変わります。」
棚の奥で、
小さな機械が淡い音を立てて動いていた。
その機械は、摩耗部分の“補修プラン”を生成していた。
「あなたの場合、今日の補修は“単純作業”です。
情報量の少ない行動を意識的に挟めば、
摩耗部分が自然に回復します。」
「たとえば、散歩?」
「ええ。
散歩、湯船、皿洗い、コーヒーを淹れる——
“構造が決まっていて、考えなくていいこと”
が最も有効です。」
もう一つのパネルが点滅した。
「そして今日は“言語野の摩耗”も見られます。
文章が出てこないのは、
あなたの能力ではなく“摩耗のせい”。
すぐに回復します。」
私は胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。
疲れとは、
能力の低下ではなく、
局所的な摩耗にすぎない。
そう思うだけで、
世界が少し優しく見えた。
「脳は、毎日あなたを動かすために奮闘しています。
摩耗は、頑張った証。
だから——今日はゆっくり補修してください。」
次の瞬間、研究所の光が薄れ、
私は現実に戻っていた。
窓の外の空は、
もうすぐ夜に溶けようとしていた。
ああ、今日は言語野が摩耗していたんだな。
それならそれで、悪くない。
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